無事生き残ったが謎ばっかり増えたな
「……配信、切れてなかったの?」
俺は呆然としたまま、目の前のカメラを見つめていた。さっきまで戦闘で張り詰めていた表情はすっかり消え、口元がわずかに開いたまま閉じない。荒かった呼吸は少しずつ落ち着いてきているのに、頭の中だけが妙に現実から取り残されているようだった。
画面にはコメントが途切れることなく流れ続けている。普段の配信なら、数秒に一度コメントが流れるだけでも十分なのに、今は一つ読もうとしただけで、次の文字が何十個も上から押し流していく。
『黒瀬、生きてる!?』
『変身したぞ!?』
『今どこだよ!?』
『誰か救助呼べ!!』
『五十万人超えたぞ!』
『これ映画じゃないよな?』
『待って、本当に黒瀬旭なの!?』
『三年前の事故の黒瀬?』
「……五十万人?」
俺は思わず画面へ顔を近づけ、目を細めながら数字を確認した。見間違いかと思って一度目を擦り、それでも変わらない数字を見て、乾いた笑いが漏れる。
「いや……五十万人って」
ここ最近の俺の配信で、そんな数字が出たことなんてない。全盛期ならともかく、今の俺は低層を細々と配信しているだけの底辺探索者だ。昔から見てくれている人が少し残っているだけでもありがたいと思っていた。今さら、大勢に見てもらおうなんて考えてもいなかったのに。
「……いや、ちょっと待て」
俺は自分へ言い聞かせるように呟き、ゆっくりと視線を落とした。黒い外殻に覆われた身体。光をほとんど反射しない装甲の表面には、ところどころ赤紫色の光が走り、胸の中心には自分でも説明のつかない紋章が浮かんでいる。
どう見ても、俺が知っている人間の身体じゃない。
「これを……五十万人が見た?」
自分の身体とカメラを交互に見比べた瞬間、背中に嫌な汗が伝った。怪物と戦って、追い詰められて、身体が勝手に変わった。その一部始終を、五十万人がリアルタイムで見ていたことになる。
「……いや、これ、どう説明しろっていうんだよ」
吐き捨てるように呟いた、その瞬間だった。
胸の奥が、再び大きく脈打った。
ドクン。
「っ……!」
俺は反射的に胸を押さえる。指の間から伝わる熱は、さっきよりはっきりしていた。身体の奥で何かが生き物のように蠢いているような感覚に、思わず顔をしかめる。
「……またか」
警戒するように周囲へ視線を走らせると、さっきまで地面に広がっていた古い紋様が、一つ、また一つと光り始めた。淡い光が線に沿って広がり、地面全体を覆うように複雑な模様を浮かび上がらせていく。
「おいおい……勘弁してくれよ」
俺は一歩後ろへ下がり、拳を握る。さっきの戦闘で消耗した身体を庇うように腰を落とし、いつでも動けるよう身構えた。
また怪物が出るのか。それとも、身体が勝手に変化するのか。
息を殺して見守っていると、地面ではなく、目の前の空間そのものが揺れ始めた。まるで巨大な水槽を外から揺らしているように景色が大きく波打ち、灰色の空、黒煙を吐き出す巨大な建物、濁った川の向こうに、一瞬だけ別の景色が重なった。
道路。建物。そして、電柱らしき細い影。
「……え?」
俺は思わず身を起こし、目を見開いた。
「これ……もしかして、帰れるのか?」
自分でも信じ切れないまま歪んでいく空間を見つめる。もちろん、答えてくれる者はいない。それでも、胸の奥にある何かが、この光は自分をどこかへ運ぶものだと告げているような気がした。
帰れるかもしれない。
そんな期待と、本当に戻れるのかという不安が胸の中でせめぎ合う。
「……行くしかないか」
大きく息を吐いた俺は、踏み出す前に胸元のカメラへ目を向けた。側面には小さな亀裂が走り、操作ボタンの一つが押し込まれたまま戻っていない。
「……そういや、落ちた時に配信止めようとしたんだったな」
俺は苦笑しながら壊れたボタンを指先で押してみた。
カチ。
何の反応もない。
「やっぱ壊れてるか」
探索者用の配信カメラは、普通のスマートフォンとは違う。ダンジョンでは携帯回線が安定しないことも多いため、専用の通信網を使って映像を送るようになっている。事故や戦闘で通信が途切れても、自動で再接続を試みる機能まで備わっていた。
現役時代にそんな説明を受けた記憶はあるが、普段は多少電波が悪くても勝手に戻る程度にしか考えていない。
「……まあ、今回はその機能が働いてたってことか?」
呟いたものの、すぐに首を傾げる。
「いや……それだけじゃないよな」
さっきまで俺がいたのは、ダンジョンですらなかった。地球なのかどうかすら分からない灰色の世界だ。そんな場所から、地球側の通信網へ映像が届くなんて、普通に考えればありえない。
それなのに、カメラのランプは点いたまま、コメントは流れ続けている。
『まだ映ってる!』
『黒瀬ほんとに何処なんだよ!』
『さっきの怪物なんだった!?』
『帰れるのか!?』
「……おかしいだろ」
思わず苦笑が漏れる。異世界らしき場所で配信が続いている。怪物がいて、自分の身体が変わり、今度は帰還できそうな空間まで開いている。まともに考えようとすると、頭がおかしくなりそうだった。
「……もう、考えても分からないか」
俺は諦めたように肩をすくめた。今は帰ることのほうが重要だ。
周囲の光がさらに強くなる。灰色だった景色が白く染まり、耳鳴りのような低い音が身体の奥まで響いてきた。
「せめて、まともなところに出てくれよ」
苦笑交じりに呟き、俺は光へ足を踏み出した。
次の瞬間、視界が白く弾ける。
「うわっ――」
身体がふわりと浮いたかと思うと、上下の感覚まで一気に消えていった。
「うおおおおっ!?」
両腕をばたつかせる。足元も地面も壁もない。前も後ろも分からず、自分が落ちているのか引っ張られているのかすら判断できない。
「なんなんだよ、これぇぇぇっ!」
叫んだ声は白い空間へ吸い込まれていった。
そして――。
ドンッ!!
「ぐっ……!」
次に感じたのは、身体を地面へ叩きつけられた衝撃だった。
「痛ってぇ……!」
背中を押さえながら、俺はうつ伏せのまま顔をしかめる。しばらく起き上がる気力もなく、そのまま土の匂いを嗅いでいた。
土。それだけで、妙に安心した。鼻をつく湿った地面の匂い。風に混じって届く街の音。そして、遠くを走る車の音。さっきまでの灰色の世界には、絶対になかったものだ。
俺はゆっくりと顔を上げた。
「……え?」
目に飛び込んできたのは、見慣れた道路標識だった。電柱が立ち、道路脇には建物が並び、その道路を普通の車が走っている。
「戻って……きた?」
声が震えた。
俺は上体を起こし、何度も周囲を見回す。灰色の空も、巨大な工業都市も、黒煙も、濁った川も、異様な建物もない。そこにあったのは、俺が見慣れていた日本の街だった。
「……帰ってきた……」
その言葉を口にした瞬間、身体から力が抜けた。俺はその場に座り込み、両手を地面につく。張り詰めていたものが一気に切れ、深く息を吐いた。
「帰ってきたんだ……俺」
誰に伝えるでもなく呟きながら、もう一度周囲を見回す。電柱も道路もコンビニの看板も、遠くに見える駅前のビルも、どれも見慣れていて、見慣れすぎている。なのに今は、それがたまらなくありがたかった。
「……俺の世界だ」
目を細めた俺の口元に、ようやく小さな笑みが浮かぶ。
帰ってきた。本当に帰ってきた。
そう実感した、その瞬間だった。
身体を覆っていた黒い外殻が、かすかに脈打った。
「……?」
俺は笑みを消し、ゆっくりと自分の腕へ視線を落とす。黒い表面に細かな光が走った。
「おい、待て」
嫌な予感がして腕を引くと、今度は外殻そのものが崩れ始めた。胸を覆っていた装甲が光になってほどけ、腕を覆っていた黒い部分が少しずつ消えていく。顔を覆っていた外殻も同じように消え、最後に赤紫色の光が胸の奥へ吸い込まれた。
「……え?」
ほんの数秒前まで異形だった身体が、見慣れた人間の姿へ戻っている。服はボロボロで、靴も片方がほとんど壊れている。ジャケットにはワータイガーの爪で裂かれた跡まで残っていた。
それでも――身体そのものは、自分のままだ。
「……戻った」
俺は安堵の息を吐き、自分の両手を何度も開いたり閉じたりした。指も動くし、腕も動く。顔に触れてみても、ちゃんと自分の皮膚がある。
「本当に……帰ってきたんだな」
胸を撫で下ろすように呟いた、そのときだった。
ポケットの中で何かが震える。
「……?」
取り出したスマートフォンの画面には、圏外の表示が出ていた。
「……まあ、そうだよな」
さっきまで異世界にいたのだから、すぐに電波が戻るとも思っていない。俺は苦笑しながら画面を閉じようとしたが、ふと胸元へ目を向けた。
そこにある配信用カメラの小さなランプが、まだ点いていた。
「……あれ?」
俺は眉を寄せてカメラを手に取る。画面には、さっきまでと変わらずコメントが流れていた。
『黒瀬、帰ってきた!?』
『日本じゃん!』
『道路見えるぞ!』
『マジで戻ってきたのかよ!』
「……なんで?」
俺は首を傾げ、スマートフォンとカメラを左右の手に持って見比べた。スマートフォンは圏外。なのに、こいつだけは繋がっている。
そのとき、画面の隅に小さな文字が一瞬だけ浮かんだ。
『通信経路――自動切替』
「……?」
俺は目を細めたが、表示はすぐに消えてしまった。
「今の、なんだったんだ?」
もう一度確認しても何も出てこない。
「探索者用カメラだから……なのか?」
そう呟いたものの、どうにも納得できない。専用の通信網があることは知っているし、自動再接続の機能があることも知っている。だが、さすがに異世界と日本を繋ぐほど便利なものだった記憶はない。
「……まあ、繋がってるならいいか」
結局、俺はいつものように考えることを放り出した。分からないことを考えるより、今は帰ってこられたことのほうが重要だ。
そう自分へ言い聞かせ、カメラを胸元へ戻す。
ただ――このときの俺は、まだ知らなかった。カメラがどうやって通信を維持していたのか、その異常を映像の向こうで確かめていた者たちがいたことを。
そして、その者たちはすでに動き始めていた。




