覚醒!変身!大勝利?
どこまでも続く、上も下も分からない暗闇の中で、落ちていく俺の胸の奥だけが異様に熱かった。
そういえば、三年前もこんな感覚だったような気がする。だが、今度こそ死ぬのか――そう思った瞬間、閉じた瞼の向こうから強烈な光が差し込んだ。
「……朝?」
自分でも何を言っているのか分からないまま、俺はゆっくりと目を開けた。そこにあったのは、見慣れたダンジョンの天井でも地上の青空でもない。灰色に濁った空と遠くに立ち上る黒煙が広がる、見たこともない場所だった。
「……ここはいったい、どこだ?」
俺は眉を寄せながら身体を起こした。不思議なことに、さっきまで全身を襲っていたはずの痛みはほとんど残っていない。恐る恐る立ち上がって肩を回し、腕や脚を動かしてみると、むしろ身体は驚くほど軽かった。
目の前には濁った川が流れ、水面には油膜のようなものが浮いている。岸辺には草がほとんどなく、乾いた土と黒ずんだ岩ばかりが目についた。その先には、巨大な煙突から黒煙を吐き出す都市が見える。
「……ダンジョン、じゃない?」
俺は辺りを見回しながら、困惑したまま呟いた。
その瞬間、胸の奥が脈打った。
あの三年前から残っていた何かが、今までとは比べ物にならないほど強く反応している。
熱い。なのに、苦しくない。それどころか、この世界の空気に身体そのものが馴染んでいくような感覚があった。
俺は何度か瞬きを繰り返しながら周囲へ視線を走らせる。今までより遠くの景色まで鮮明に見え、耳には風の流れる音だけでなく、その向きや強さまで不思議なほどはっきりと伝わってきた。
握った拳に力を込めると、今までとは明らかに違う感覚が返ってくる。身体の奥に眠っていた何かが、この場所で生きるために目を覚ましているようだった。
「……これが……よくわからないが、アイツらの言うところの適合……か?」
自分の身体を確かめるように腕を見つめながら、俺は低く呟いた。
遠くから警報が響いた。
巨大な都市から、何かを警告するような音が何度も鳴り続けている。俺はその音に不安そうに顔を上げたものの、すぐに表情を引き締めた。
「……帰らないと」
まずは生きる。ここがどこなのかを知る。アビス帝国とは何なのか。三年前、俺の身に何が起きたのか。そして、この身体の中にあるものは何なのか。
そのためにも、俺は歩き始めた。
ただ――一つだけ、俺は気づいていなかった。
落下の衝撃で壊れかけた配信用カメラのミュートが、たまたま解除されていた。
画面の向こうでは、いつものように数人しかいなかった視聴者たちが、突然変わった映像を呆然と見つめていた。
『……え?』
『黒瀬さん?』
『生きてる……?』
『これ江戸川ダンジョンだよな?』
当然、そんなコメントが流れていても俺には分からない。
いつものように低層を配信していたはずなのに、俺が見ているのは見たこともない場所だ。配信画面に映っている世界がどうなっているのか、それを確認する術もない。
『おい、画面どうなってる?』
『黒瀬さん、返事して』
『カメラ壊れた?』
そんなコメントが流れる中、誰かが映像を見て違和感を覚えたらしい。
『これ……ダンジョンじゃなくね?』
『俺もそう思う』
『場所変わった?』
別の視聴者が配信画面を保存し、そのままSNSへ投稿する。
『今の黒瀬の配信見てる人いる? なんか変な場所にいる』
最初は、ごく限られた人間しか反応しなかったらしい。
だが、その投稿を見つけたのは、普段から俺の配信を見ている人間だけではなかった。かつて俺の全盛期を知る古参視聴者の中にも、その投稿から配信を覗く者が現れていく。
『これ本当に黒瀬?』
『本人だよ。今もたまに配信してる』
『待って、黒瀬って三年前の事故で行方不明になった人だよな?』
『行方不明なのは世間の認識だろ。事故のあとも低層で配信してたぞ』
『俺も見てた』
『え、マジ?』
『三年前からずっとじゃないけど、たまに配信してた。今朝もアーカイブを見てたよ。前に比べれば全然地味だけど』
そんなやり取りが続くうちに、さらに別の場所へ情報が広がっていった。
『元Sランクの黒瀬旭、実は事故後も生きてて配信してたらしい』
『今も本人の配信が続いてる』
『昔の黒瀬知ってるやつ、これ見てくれ』
古参視聴者の間では、俺が生きていること自体は完全な秘密ではなかったらしい。
ただ、三年前の事故で世間から大きく報道されたこともあり、多くの人間にとって俺は「事故で行方不明になった元Sランク探索者」という認識のままだった。低層で細々と続けていた配信を見る人間が少なかったため、その後の姿を知っているのは、ごく限られた視聴者だけだった。
だからこそ、今回の映像は、それまで俺を知らなかった人間まで巻き込み始める。
『え、黒瀬って死んでなかったの?』
『そもそも今まで配信してたの?』
『俺、三年間ずっと消息不明だと思ってた。パーティの他のメンバーもそうだろ』
そんな声が次々と広がり、俺の配信へ新しい視聴者が押し寄せ始めた。
『一万人いった』
『いや、まだ増えてる』
『ニュースサイトが記事出したぞ』
『昔の黒瀬知ってるやつ、もっと呼べ』
『これ本当に本人なら大事件だろ』
さらにニュースサイトやまとめ記事で映像が取り上げられ、そこから配信を覗く人間が増えていく。
『三万人』
『五万人いった』
『まだ増えてるぞ』
『これ、もう普通の配信じゃないだろ』
視聴者数は一気に膨れ上がっていった。
そして配信を見つけた人間がさらに情報を拡散し、その情報を見た人間がまた配信を覗きに来る。いつの間にか、俺の配信には昔からの視聴者だけでなく、三年前の事故を知る人間や、今回初めて俺を知った人間まで集まり始めていた。
俺はもちろん、そんなことになっているとは知らない。ただ目の前の世界を見つめながら、一歩ずつ歩いていた。
そのとき、胸元で小さな光が瞬いた。
「……っ?」
俺は足を止め、自分の胸元へ視線を落とした。やがて光は強くなり、俺の身体を包み込んでいく。
『何これ』
『魔力反応?』
『こんなの見たことない』
『待って、周りまで反応してない?』
コメントが一気に増えていく。
光が広がる。
足元に刻まれていた古い紋様まで明滅し始めた。
『十万人超えたぞ』
『これ本当に何なんだ?』
『映像、保存しとけ』
『もうニュースだけじゃ追いつかないだろ』
画面を埋め尽くすほどのコメントが流れていたらしいが、俺にはそんなことを知る余裕はなかった。
俺はようやく、自分の身体に起きている異変に気づいた。
「……なんだ、これ」
胸元を押さえながら荒く息を吐く。身体の内側から、何かが押し出されてくるような感覚があった。
苦しいわけではない。
ただ、これまで自分の身体の奥に眠っていた何かが、ようやく目を覚まそうとしているようだった。
その瞬間、土煙が上がった。
「……っ!」
俺は反射的に身を低くし、煙の向こうへ鋭い視線を向けた。
巨大な影が動く。
煙が晴れる。
そこから現れたのは、巨大なワータイガーだった。
太い腕と鋭い爪を持ち、全身を覆う毛はところどころ逆立っている。ただ立っているだけなのに、周囲の空気まで重く感じられるほどの圧力を放っていた。
ダンジョンではボスを務めることもある、強力なモンスターだ。
「くそ……今の俺にワータイガーは……」
俺は息を呑みながら、一歩だけ後ろへ下がった。
今の自分がまともに戦える相手ではない。三年前ならともかく、今の自分には武器もなく、体力も戻っていない。まともに正面からぶつかれば、次の瞬間には引き裂かれていてもおかしくなかった。
ワータイガーが低く唸る。
黄色く光る目が、俺を真っ直ぐ捉えた。俺は喉を鳴らしながらも、視線を逸らさない。
「……来るか」
小さく呟き、両足へ力を込める。
心臓が激しく脈打っている。
怖い。
それでも逃げ道はない。
次の瞬間、ワータイガーが地面を蹴った。
「速っ――!」
俺は目を見開き、巨体からは想像もできない速度で迫る相手を見ながら、咄嗟に身体を横へ投げ出した。
直後、爪が目の前を薙ぎ払う。
風圧だけで頬が痛む。
「くっ!」
俺は地面を転がりながら体勢を立て直し、振り向いた。ワータイガーはすでにこちらへ身体を向け直している。
「やっぱり……速いな」
肩で荒く息をしながら呟いた直後、再び巨大な影が迫る。
俺は今度は逃げるだけではなく、相手の懐へ入ろうと踏み込んだ。しかし腕が振り下ろされ、咄嗟に身体を捻ったものの、完全には避けきれなかった。
「ぐっ!」
鋭い爪が肩口を掠め、身体が弾き飛ばされる。
地面を二度、三度と転がり、俺は何とか立ち上がった。
「……痛ぇ」
肩を押さえながら苦しげに顔をしかめ、それでも視線だけはワータイガーから離さない。
ワータイガーが再び構える。
逃げれば追いつかれるが、戦えばおそらく死ぬ。
それでも俺は、震える手を強く握り締めた。
「……まだ……俺は終わってない!」
声を絞り出しながら前を睨みつけた、その瞬間だった。
胸の奥で何かが大きく脈打った。
ドクンッ!
「っ……!」
身体の奥から、一気に力が溢れ出した。
指先まで熱が走る。
筋肉が膨らんだわけでもない。ただ、身体そのものが今までとは違うものへ変わっていく感覚だけがあった。
ワータイガーが再び飛び込んでくる。
だが――。
今度は見えた。
「……遅い」
俺は驚いたように目を見開きながらも、口元にわずかな笑みを浮かべた。
半歩だけ身体をずらす。
ワータイガーの爪が空を切った。
「何だ……これ」
さっきまで追いつかなかった視線が、今は相手の動きを完全に捉えている。
ワータイガーが振り向く。
俺は、その前に踏み込んだ。
一歩、さらに一歩と距離を詰め、そのまま巨大な身体の懐へ潜り込む。
「おおおおっ!」
拳を握り締め、力の限り突き出した。
ドンッ!!
拳がワータイガーの腹へ叩き込まれる。
巨大な身体が、まるで何かに吹き飛ばされたように宙へ浮いた。
「……え?」
自分でも信じられず、俺は思わず目を見開いた。
ワータイガーは数メートル先の地面へ叩きつけられ、土煙を巻き上げながら転がっていった。
『…………』
『今の何?』
『殴っただけだよな?』
『ワータイガー飛んだぞ』
コメント欄も、一瞬だけ言葉を失ったように沈黙する。
俺は自分の拳を見つめながら、困惑したように眉を寄せた。
「……俺が?」
信じられない。
さっきまでまともに避けることすらできなかったのに、今は拳一発であの巨体を吹き飛ばした。
だが、ワータイガーはまだ立ち上がってくる。
俺はその姿を見て、息を吐きながら拳を握り直した。
「……まだ終わってないか」
ワータイガーが怒りの咆哮を上げる。
その声に大地まで震えた。
巨体が再び跳ぶ。
今度は正面からだった。
「来い!」
俺もまた、真正面から前へ踏み込む。
互いの身体がぶつかる、その直前――胸の奥から赤紫色の光が一気に噴き出した。
「――これが、俺の力か!」
俺は驚きと興奮の入り混じった声を上げた。
光が全身を包み込む。
黒い外殻が腕を覆い、胸を覆い、脚へ広がっていく。その中心で胸元の赤紫色の光が強く脈打ちながら、身体そのものを別の形へ変えていった。
ワータイガーの爪が振り下ろされる。
だが、その一撃を俺は片腕で受け止めた。
「……止められる」
俺自身が驚いたように呟き、受け止めた腕へ視線を落とす。
そして、ゆっくりとワータイガーの腕を押し返した。
「だったら――!」
そのまま身体を捻り、一歩踏み込む。
「これで終わりだ!」
拳が振り抜かれる。
次の瞬間、光が爆ぜた。
ワータイガーの巨体が大きく吹き飛び、同時にカメラの映像まで激しく揺れる。
土煙が舞い上がり、視界が一瞬すべて白く染まった。
何が起きたのか、誰にも理解できないほど一瞬の出来事だった。
ただ――巨大なワータイガーが、俺の前に倒れている。
俺は荒く息をしながら、その場に立っていた。
拳を握ったまま、自分の身体を見下ろす。
「……何なんだよ、これ」
その一部始終を、すでに十万人を超えていた視聴者が見ていた。
しかも映像はSNSでさらに拡散され、配信を直接覗く人間も増え続けている。
『五十万人いった』
『まだ増えてるぞ』
『何だよ、この数字』
『変身した……?』
『全部見てた』
『黒瀬、本当に何なんだよ!?』
俺はコメントの流れを知らないまま、拳を握った状態でゆっくりと胸元のカメラへ視線を向けた。
「……あれ?」
そこで初めて、自分がまだ配信中だったことに気づいた。
画面には、尋常ではない速さで流れ続けるコメントが映っている。
『黒瀬、五十万人いるぞ』
『今の何!?』
『説明してくれ!!』
俺はしばらく無言で画面を見つめたあと、目を丸くしながら恐る恐る呟いた。
「……配信、切れてなかったの?」
その瞬間、コメント欄が爆発した。




