俺は誰のものでもない
ウォッチャーから渡された契約書を、俺はしばらくテーブルの上に置いたまま眺めていた。隔離措置の緩和に生活費の支援、医療費の負担、そしてダンジョン配信の再開と、条件だけを見れば今の俺にとってはかなり魅力的だった。
だが、その代わりに要求されるものも重い。身体情報の提供に加え、変身や世界間移動が起きた場合の即時報告、さらには俺自身の意思より優先される可能性がある緊急介入まで盛り込まれている。
「……やっぱり、嫌だな」
俺は契約書を閉じた。
神代が向かいの椅子から俺を見る。
「何がですか?」
「どっちもだよ」
「アビス側も、ウォッチャーも?」
「そう」
俺は椅子の背に身体を預け、両手を広げた。
「アビスの奴らは、俺をパーフェクトソルジャーとか言って連れていこうとするし、ウォッチャーはウォッチャーで、俺をずっと観測したいっていう。なんで誰も、俺に普通にしてていいって言ってくれないんだ?」
神代は少し困ったように笑った。
「……それは、黒瀬さんが普通じゃなくなってしまったからじゃないでしょうか」
「そこを真顔で言うなよ」
「すみません」
謝っているのか、本気で納得させようとしているのか、よく分からない。
だが、実際のところ俺自身も分かっていた。以前とは違い、今の俺の身体は勝手に変身し、敵を相手にすれば俺の意思より先に戦い始める。新しい武器まで勝手に作り出すうえ、この前は戦闘のあとに世界そのものを飛び越えてしまったのだから、普通の生活を送れる状態ではないのかもしれない。
「……だからって、ずっとここに閉じ込められてるのも嫌なんだよな」
俺が小さく息を吐くと、神代が意外なことを口にした。
「私も、そう思います」
「え?」
思わず神代を見る。
「意外だな」
「どうしてですか?」
「いや、神代はもっと『安全第一です』って言うと思ってたから」
神代は少しだけ考えてから、静かに口を開いた。
「安全であることと、閉じ込めておくことは同じではありません。そもそも、最近は何が起きても、最終的には黒瀬さん自身が帰ってきていますし」
その言葉に、俺は少し黙った。
「……まあ、そうだよな」
そもそも、この隔離施設には俺以外にもいろんな人間が出入りしている。検査担当や警備担当、研究者に協会の職員、そしてウォッチャーのような、協会とつながりのある組織を名乗る連中までいる。
そのうえ、あれだけ警備を固めていた施設へ、アビス側の幹部まで一人で入り込んできたのだ。
「ここにずっといるから安全、ってわけでもないんだよな」
「はい」
「むしろ、ここにいるって分かってる連中が多すぎる」
神代は返事をしなかったが、その表情を見る限り、同じことを考えているらしい。
ウォッチャーとの面会の時も、妙な違和感があった。協会の関係者だと言っていたのに、組織について尋ねれば曖昧な説明が返ってくる。それなのに俺の過去については俺自身より詳しく、契約を断っても観測を続けると平然と言い切った。
「……協会も、なんかおかしいんだよな」
俺が呟くと、神代がこちらを見た。
「ウォッチャーの件ですか?」
「それもある。そもそも、俺をここに入れてくれた協会だって、全部信用していいのか分からない」
「それは……否定できません」
神代は慎重に言葉を選んだ。
「だよな」
俺は机の上に置かれた契約書へ視線を落とした。アビス、ウォッチャー、探索者協会。どこも俺に何かを求めているが、俺自身が望んでいるものはもっと単純だった。
「……俺、別に誰かの組織に入りたいわけじゃないんだよ」
「はい」
「アビスに行きたいわけでも、ウォッチャーに観察されたいわけでもない。ただ、普通にダンジョンへ行って、配信して、金を稼ぎたい。それくらいは自分で決めさせてほしい」
神代が少しだけ微笑んだ。
「それが一番、黒瀬さんらしいと思います」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
俺は苦笑しながら立ち上がった。
「よし、協会と話してくる」
「……やっぱりそうなりますよね」
神代はため息をついた。
「ウォッチャーとの契約を保留して、自分から協会へ交渉に行くんですか?」
「他にあるか?」
「ありませんね」
「じゃあ決まりだ」
俺はそう言って、契約書を鞄にしまった。それから、もう一つ気になっていたことを思い出す。
「そういえば、神代。さっきの電話、調べられないかな?」
俺が携帯を取り出すと、神代の表情が少し引き締まった。
「ウォッチャーと契約するな、と言ってきた電話ですね」
「ああ。発信元が分かれば、少しくらい何か分かるかもしれないだろ?」
「確認はできます。ただ、番号が表示されていただけでは、相手を特定できるとは限りません」
「まあ、そうだよな」
俺は携帯をしまった。正体不明の忠告をどこまで信用するべきなのか、それも含めて協会に聞いてみるしかなさそうだった。
そして、その日の午後。
俺は久しぶりに探索者協会の会議室へ呼び出されていた。
「……またここか」
以前、依頼の報告や事件の説明で何度も来た場所だ。今回は俺一人ではなく、神代も隣にいる。向かい側には協会の上層部らしい男女が数人並んでおり、その中には俺を隔離施設へ送った時に説明をした担当者の姿もあった。
「今日は何の相談でしょうか、黒瀬さん」
担当者が慎重な口調で尋ねてくる。
「俺から相談があります」
俺は椅子に座り、まっすぐ相手を見た。
「ダンジョン配信を再開させてほしい」
部屋の空気が止まった。誰もすぐには答えなかったので、やっぱりそう簡単にはいかないよな、と俺は内心でため息をついた。
「難しい問題です」
やがて担当者が口を開いた。
「現在の黒瀬さんは、通常の探索者とは異なる危険性を抱えています」
「分かってる。俺だって、自分の身体が勝手に変わるのは怖い」
「でしたら――」
「だから条件をつければいいだろ?」
担当者が少し驚いた顔をした。
「条件、ですか?」
「ああ。まず、浅い階層限定」
俺は指を一本立て、さらにもう一本立てる。
「神代の同行と常時監視。それから、変身したら即撤退。俺が制御できなくなった場合は、強制的に探索を中断してもいい」
協会側が顔を見合わせるなか、俺はもう一つ条件を付け加えた。
「配信機材も協会の監視システムとつないでいい」
「かなり譲歩されますね」
「こっちだって、好き勝手やりたいわけじゃない。ただ、ずっと閉じ込められてるのも嫌なんだよ」
俺は椅子に背を預け、少し間を置いてから続けた。
「それに、金も必要だ。これは切実に」
協会側が黙っているので、俺はさらに事情を説明する。
「ここ、飯は出るし医療費もかかってないけど、俺のカードの支払いは止まってくれないんだよ」
神代が隣で目を閉じた。
「黒瀬さん……」
「何だよ。大事だろ」
「……いえ」
どうやら、もう突っ込む気もなくなったらしい。協会職員の何人かが苦笑したが、すぐに表情は真剣なものへ戻った。
「黒瀬さん、我々としても、いつまでも隔離を続けることが最善だとは考えていません」
担当者がそう切り出した。
「じゃあ――」
「ただし、問題があります」
「何?」
「黒瀬さんの能力が未知すぎます。変身条件が不明で、解除条件も分からない。武装生成の条件も不明ですし、世界間移動まで確認された」
「……まあ、そうだな」
担当者は一度息を吐いてから、正直なところを口にした。
「我々としても、黒瀬さんをどう扱えばいいのか、まだ分かっていません」
意外な言葉だった。
「……協会も分からないのか?」
「はい」
その答えに、俺は少し考えてから口を開いた。
「じゃあ、なおさら閉じ込めておくのもどうなんだ? 分からないから隔離するってのは分かる。でも、分からないまま閉じ込めても何も分からないままだろ? それに、多分その気になれば誰にも知られずに移動できるし、敵は簡単に乗り込んでくるし」
会議室に沈黙が落ちた。神代が静かに俺を見ていると、やがて別の協会職員が口を開いた。
「……黒瀬さんの提示した条件であれば、試験運用として認められると考えます」
「本当か?」
「はい。ただし、いくつか確認させてください」
職員は手元の資料に目を落としてから、改めて俺を見た。
「配信は協会の管理下で行うこと。探索区域は指定された浅層のみとし、神代さんに必ず同行していただきます。また、黒瀬さんの異常反応が確認された場合は、直ちに探索を中断すること。この条件を守っていただけるなら、試験運用を認めます」
「分かった。それでいい」
俺が即答すると、担当者もゆっくりと頷いた。
「では、その条件で試験運用を進めましょう。具体的な開始日時や監視機材の接続については、準備が整い次第、改めてお知らせします」
「了解。よろしく頼む」
ようやく一歩前進だ。
俺が安堵しかけたところで、担当者がもう一つ付け加えた。
「なお、配信による収益については、通常の探索者配信と同様に、黒瀬さん本人が受け取れます」
「……!」
思わず身を乗り出した。
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、それで頼む!」
俺が即答すると、神代が横で小さくため息をついた。
「……本当に、お金の話になると決断が早いですね」
「だって大事だろ」
協会職員の一人が思わず笑い、会議室に少しだけ和やかな空気が戻った。
だが、俺はそこで笑って終わりにはしなかった。
「……ただ、一つ聞きたい」
「何でしょう?」
「ウォッチャーのことだ」
その瞬間、会議室の空気がわずかに変わった。
「俺、あいつらに勧誘されたんだけど。協会と関係がある組織って話だったよな?」
誰も口を開かない。俺はそんな相手を見回してから、改めて尋ねた。
「本当に、そうなのか?」
担当者が目を伏せる。数秒の沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「……協会には、複数の特殊案件を扱う非公開部門があります」
「ウォッチャーもそこに?」
「それについては、私の立場ではお答えできません」
「またそれかよ」
俺は思わず頭を掻いた。
「協会も、結局何か隠してるんだな」
「黒瀬さん、今はそこを追及しても答えは出ないと思います」
神代が静かに声をかけてきた。
「……そうだな」
俺は息を吐いた。
だが、もう一つ確認しておかなければならないことがある。
「それと、今朝の面会のあとに、知らない番号から電話がかかってきた」
「電話ですか?」
担当者の表情が変わった。
「ああ。ウォッチャーと契約するな、あいつらは俺を守りたいわけじゃない、ってな」
会議室が静まり返る。
「発信元は確認できますか?」
「番号は残ってる。すぐに切れたけどな」
俺が携帯を取り出し、着信履歴を確認して番号を見せると、担当者は別の職員に目配せした。
「一度、こちらでも確認します。ただ、番号だけで相手を特定できるとは限りません。発信元が偽装されている可能性もあります」
「やっぱり、そっちも簡単には分からないか」
「申し訳ありません」
「いや、いいよ。分からないものは仕方ない」
俺は携帯をしまった。警告してきた相手は、ウォッチャーの内情を知っている人間なのか。それとも、俺に契約させないために適当なことを言ってきただけなのか、今の段階では判断できない。
「とにかく、ウォッチャーとの契約は保留にする」
俺はそう告げた。
「情報を提供してくれるのはありがたいけど、あんな契約にすぐサインする気にはなれない」
「賢明な判断だと思います」
担当者は慎重に頷いた。
「……その言い方だと、やっぱり何か知ってるんじゃないか?」
俺が問い返すと、担当者は困ったように表情を曇らせた。
「現時点で、黒瀬さんにお伝えできることはありません」
「はいはい」
俺は肩をすくめた。どうやら、ここでも答えは得られないらしい。
「とりあえず、俺は協会の管理下でダンジョン配信を再開する」
俺が立ち上がると、担当者が頷いた。
「条件付きではありますが、試験運用として正式に認めます」
「ああ。それで金を稼ぐ」
「……そこが目的なんですね」
「当然だろ」
神代が呆れたように肩をすくめる。
でも、俺は会議室を出る前に一度だけ振り返った。
「……ただし」
自分でも驚くほど真剣な声が出た。
「俺は、誰かの兵士にも、誰かの実験材料にもなるつもりはない」
アビス、ウォッチャー、そして協会。どこに何があるのか、今の俺にはまだ分からない。それでも、自分の人生を勝手に決めさせるつもりはなかった。
「俺のことは、俺が決める」
そう言って、俺は会議室を後にした。
その背中を見送りながら、神代が小さく呟く。
「……やっと、少しだけ黒瀬さん自身の意思で動き始めましたね」
協会との話し合いが終わったあと、俺は事前に連絡していたセナと合流することにした。場所は協会の建物内にある面談室だ。隔離措置が解除されたわけではない以上、好きな場所へ出かけられるわけではないが、協会の管理区域内で短時間話すくらいなら、今回の交渉にも支障はないらしい。
面談室に入ると、セナはソファに座って待っていた。
「ごめん、待たせたな」
「ううん。協会との話し合い、どうだった?」
「とりあえず、配信を再開する方向で話がまとまった。最初は浅い階層限定で、神代が同行して、協会の監視システムにもつなぐことになったけど」
「そっか。よかったね」
セナはほっとしたように微笑んだ。
「ただし、試験運用だ。何か異常があれば即中断。俺の身体がどうなるかも分からないから、今までどおりに活動できるわけじゃない」
「それでも、ずっと隔離されているよりはいいと思う」
「ああ。俺もそう思う」
俺は向かい側のソファに腰を下ろしてから、少しだけ声を落とした。
「……それで、セナにも聞きたいことがあるんだ」
「ウォッチャーのこと?」
「話が早いな」
「御堂さんが、黒瀬さんにも話したんでしょう? 私には別の担当者が接触しているって」
「ああ。ただ、詳しいことは教えてくれなかった」
「そうだろうね」
セナは小さく息を吐いた。
「私も、まだ全部を話せるほど情報を持っているわけじゃないけど……黒瀬さんには伝えておいたほうがいいと思う」
「頼む」
セナは少し姿勢を正した。
「昨日、検証が終わって帰る前に、協会の関係者だという人から声をかけられたの。最初は、検証で見た内容について確認したいことがあるって」
「それで?」
「話を聞いているうちに、普通の協会職員とは違うと感じた。それで、どこの部署なのか聞いたら、ウォッチャーと名乗ったの」
「……なるほど」
俺は腕を組んだ。俺の場合は、最初から特殊事案調査室の人間として御堂がやってきたが、セナの場合は、まず協会関係者として接触してきたらしい。
「俺に来た御堂とは別人なんだよな?」
「うん。少なくとも、私に接触してきた人は御堂さんじゃなかった。名前も聞いたけど、今ここで言っても黒瀬さんが知っているとは限らないし、本人の許可なく担当者の情報を広めるのもどうかと思って」
「まあ、それはそうか」
俺は頷いた。別の担当者がいること自体は御堂から聞いていたが、こうして本人の口から聞くと、やはり気になる。
「具体的には、何を頼まれたんだ?」
「黒瀬さんの身体に起きている変化について、私が見聞きしたことを共有してほしいって。特に、検証中の反応や、武装が出現したときの様子ね」
セナはそこで一度言葉を切った。
「私が直接見ていたことは協会にも報告している。でも、その人はそれとは別に、継続して協力してほしいという話をしてきたの」
「契約は?」
「正式な契約書は渡されていないよ。だから、私も返事は保留にしている」
俺は少し安心した。
「そっか。じゃあ、セナもまだ契約してないんだな」
「うん。協力すること自体が悪いとは思わないけど、相手が何を目的にしているのか分からないまま、何でも引き受けるわけにはいかないから」
「……だよな」
俺も御堂から渡された契約書を思い出した。身体情報を常時提供し、異常があれば即座に報告する。場合によっては、本人の意思に関係なく拘束や隔離まで行うという内容だ。
俺の場合は、要求の重さに見合うだけの見返りもあった。ただ、それだけで信用できるかと言われれば、話は別だ。
「俺の場合は、隔離措置の緩和とか、医療費や生活費の支援とか、ダンジョン配信の再開とか。三年前の事故についても、段階的に情報を提供するって話だった」
「かなり具体的な条件だったんだね」
「ああ。その代わり、身体の情報は原則全部共有。変身や世界間移動が起きたら即報告。危険だと判断されたら、俺の意思に関係なく拘束や隔離ができる」
セナの表情が曇った。
「……それは、確かに重いね」
「だろ? まあ、俺の身体が勝手に変わる以上、危険性を調べる必要があるってのも分かるんだけどさ」
「うん。私も、黒瀬さんの身体については調べたほうがいいと思う。でも、調べることと、本人の意思を無視していいことは別だから」
「そうなんだよな」
俺は何度も頷いた。
セナは、俺の身体がどうなっているのかを知りたいと思っている。ワーウルフとの検証を見た以上、それは当然だろう。だが、だからといって俺を誰かの所有物のように扱っていいわけじゃない。
「それで、もう一つあるんだ」
俺は携帯を取り出した。
「今朝、御堂が帰ったあとに、知らない番号から電話がかかってきた」
「電話?」
「ああ。出たら、いきなり俺の名前を呼ばれてさ」
俺はそのときの声を思い出しながら、セナに説明した。
「『ウォッチャーと契約するな』『奴らは、お前を守りたいのではない』って言われた」
セナは目を見開いた。
「……そんなことがあったの?」
「すぐに切れた。発信元も分からない。協会にも調べてもらうよう頼んだけど、番号だけじゃ相手を特定できるとは限らないってさ」
「その電話の人がウォッチャーとは別の組織の人なのか、それともウォッチャーの内部事情を知っている人なのか……まだ分からないんだね」
「そういうこと。だから、あの警告をそのまま信じるつもりもない。でも、無視していいとも思えない」
「私もそう思う」
セナは真剣な表情で頷いた。
「私に接触してきた人は、少なくとも黒瀬さんをすぐに連れていこうとしたわけじゃなかった。だけど、それだけで信用できるとは限らないしね」
「御堂も、契約を断っても観測は続けるって言ってたよ」
「……それは、ちょっと怖いね」
「だろ? 契約したら協力する。契約しなくても観測する。どっちにしても、俺の知らないところで勝手に話が進んでるんだよ」
「でも、だからこそ、今は慌てて決めないほうがいいと思う」
セナは落ち着いた声で言った。
「私も協力の話は保留にしておく。黒瀬さんも、すぐに契約する必要はないんじゃないかな」
「ああ。俺もそのつもりだ」
俺は頷いた。
「とりあえず、協会の管理下で配信を再開する。まずはそれで、自分に何ができるのか確かめたい」
「うん。それがいいと思う」
「もちろん、神代の監視つきだけどな」
「それは仕方ないよ。今回の条件を受け入れたのは黒瀬さん自身でしょ?」
「まあ、そうなんだけどさ」
俺は苦笑した。神代がいないところでまで監視を受けるのは嫌だが、少なくとも今回の条件は、俺自身が納得して受け入れたものだ。ウォッチャーとの契約とは、そこが違う。
「それで、セナはどうする?」
「私?」
「ああ。ウォッチャーの話もあるし、これからのことも」
セナは少し考えてから答えた。
「私は、今までどおり探索者として活動を続けるつもり。ただ、黒瀬さんの検証や配信で何か気づいたことがあったら、ちゃんと伝えるよ」
「いいのか?」
「うん。ただし、ウォッチャーに報告するかどうかは別の話。それは、協力する条件をきちんと確認してから決める」
「なるほどな」
俺は納得して頷いた。何でも拒絶する必要はないが、相手の要求を全部受け入れる必要もない。そのくらいの距離感でいいのかもしれない。
「それと、黒瀬さん」
「何?」
「何か変なことがあったら、私にも教えてね。身体の異常でも、誰かからの接触でも」
「……分かった」
俺は頷いた。
「セナもな。ウォッチャーから何か言われたら、無理に一人で判断しなくていいから」
「うん。ありがとう」
セナは、いつもの柔らかな笑顔を浮かべた。
それで全部が解決したわけじゃない。ウォッチャーの目的も、電話の相手も、三年前の事故の真相も、俺自身の身体に起きていることも、何一つ答えは出ていない。
それでも、少なくとも一つだけ分かったことがある。俺だけが訳の分からない連中に振り回されているわけじゃないし、セナにも彼女なりの事情があるのだ。
だからこそ、これから何が起きても、お互いに情報を共有しながら考えていくことはできるはずだ。
「……よし、とりあえず配信再開の準備だな」
俺が立ち上がると、セナは少し呆れたように笑った。
「もう次のことを考えてるの?」
「当然だろ。いつまでも入院患者みたいな生活をしていられないからな」
「……黒瀬さん、まだ隔離中ですよ?」
「そこは分かってるって」
俺は苦笑した。
「それでも、ようやく一歩進めるんだからさ」
「そうだね。焦らずに、少しずつ進めていこう」
「ああ」
俺は頷いた。アビスにも、ウォッチャーにも、協会にも、俺の人生を勝手に決めさせるつもりはない。そして今度こそ、自分の意思でダンジョンへ向かう。
まずは浅い階層から、神代の監視つきで協会の許可を受けて。……できれば、余計な事件が起きないことを祈りながら。
その頃、黒瀬には知られていない場所で、一枚の報告書が読まれていた。そこに記されていたのは、**『黒瀬旭、協会管理下でのダンジョン配信を試験運用として再開することが決定』**という一文だった。
報告書を閉じた人物が「……予定より早いな」と低く呟くと、別の誰かが「ですが、観測は続けましょう」と答えた。
「当然だ」
暗い部屋の中で、モニターには黒瀬旭の最新の映像が映し出されている。
「次に、あれがどう反応するか……まだ見るべきものは多い」
その場にいた者たちは、それ以上何も言わなかった。黒瀬は知らない。自分がウォッチャーだけでなく、別の場所からも見られていることを。そして、その視線の主が、黒瀬自身の反応を確かめるために、まだ手を出さず観察を続けていることも。
今はまだ、彼らにとって黒瀬旭は「敵」でも「味方」でもない。まずは、何に反応し、何を選び、どこまで変化する存在なのか。それを確かめる段階だった。




