結局何だったんだ?
『我々は、お前を迎えに来た』
そう言い残した幹部は、しばらく黙ったまま俺を見つめていた。施設内にはまだ緊張が残っており、警備システムも復旧していないため、何人もの職員や探索者が周囲を警戒しているというのに、目の前の男はそんな状況など最初から気にしていないかのように落ち着いている。
むしろ、俺がどう答えるのかをじっと待っているようだった。
「……迎えに来たって言われてもな」
俺は腕を組み、少しだけ眉をひそめながら目の前の幹部を見返した。
「俺、お前らのこと何も知らないんだけど」
幹部は答えなかった。ただ、仮面の奥の目をわずかに細めると、感情をほとんど見せない声で告げる。
『今は、それでいい』
「は?」
『お前は、地球の環境だけでなく、我々の世界――アビスの環境にも適応している』
「……適応?」
『そのうえ、人の姿と知性を保っている。異なる二つの環境に適応しながら、それらを失わない存在。それを我々は、完全適応個体――パーフェクトソルジャーと呼ぶ』
「何の話だよ」
『お前は、その可能性を持つ』
そう言うと、幹部はゆっくりと俺から視線を外した。
その瞬間だった。
黒い影が、足元からゆっくりと広がり始める。
まるで液体のように床を這い、やがて幹部の身体を包み込むようにせり上がっていく。周囲の空気まで妙に重くなり、警報が鳴り続けているはずなのに、その音さえ遠くなったように感じられた。
「……ちょっと待て!」
俺は思わず声を上げ、幹部へ向かって一歩踏み出す。
「せめて何者なのかくらい教えろよ!」
幹部は答えない。
ただ、黒い影に半ば呑み込まれながら、もう一度だけ俺を見た。
仮面に隠れて表情は分からない。
それなのに――なぜか笑われたような気がした。
『名乗る必要はない』
「いやいや、説明の必要はあるだろ! ちゃんと給料が出て、俺のヤバくなってるクレジット残高をどうにかするとかできるのかとかさ!」
「……」
さすがに神代も何も言わなかった。
「いや、本当に笑い事じゃないからな? カードが止まると電話もネットも使えないし、ネットが使えなかったら配信もできなくなるんだよ。配信できなきゃ金も入ってこない。だからマジで色々やばいんだよ」
「……」
神代は何とも言えない顔をしながら俺を見ている。
目の前の幹部も、しばらく何も言わなかった。
やがて、黒い影が幹部の胸元まで覆ったところで、低い声が返ってくる。
『……その程度のことを心配できるうちは、まだいい』
「……は?」
『いずれ、お前にも分かる』
短い言葉だった。
だが、その意味を問い返すより早く、幹部の身体が完全に黒い影へ沈んでいく。
「……おい!」
俺はさらに一歩踏み出した。
その瞬間、空間そのものが大きく歪んだ。
まるで目の前の景色が水面になったかのように波打ち、そこへ幹部の姿がゆっくりと沈んでいく。
最後まで残っていたのは、仮面に隠された二つの眼だった。
その視線だけが、消える直前まで俺から離れなかった。
「……っ」
思わず足が止まる。
次の瞬間――幹部の姿は完全に消えた。
黒い影も、空間の歪みも、何事もなかったかのように消えていく。
そこには最初から誰もいなかったかのように、何も残っていない。
「…………」
しばらく、その場には気まずい沈黙だけが流れていた。
だが、誰も口を開こうとしない。
俺も、何となくすぐには動けなかった。
さっきまで確かにここにいた。
確かに会話もした。
それなのに、痕跡が何一つ残っていない。
まるで――最初から、こちらの都合など関係なく、来て、話して、帰ることまで全部決まっていたかのようだった。
やがて誰かが小さく息を吐き、俺が思わず呟く。
「……帰った?」
「はい。反応も消えました」
神代が監視画面を確認しながら頷いた。
「……攻撃もなし?」
「なしです」
「何だったんだよ、あいつ」
俺は頭を掻きながら、今起きたことを整理しようとした。施設を一人で突破して、幹部だと名乗り、俺を迎えに来たと言ったくせに、肝心のところでは何もせず、そのまま帰っていったのだ。
意味が分からない。
いや、意味はたぶんある。ただ、それを俺がまだ理解できていないだけなのだろう。
けれど――。
最後に向けられた、あの視線だけが妙に頭に残っていた。
まるで、今の俺ではなく、その先にある何かを見ていたような気がする。
「……とりあえず」
俺は深く息を吐き、張り詰めていた肩の力を抜いた。
「疲れた」
神代が何とも言えない微妙な顔で俺を見る。
「感想がそれなんですか?」
「だって疲れるだろ。最近ずっと色々起こりすぎなんだよ」
ゴブリンに始まり、スライム、人狼、変身、身体から出てきた剣、謎の砲撃、そして今回の幹部。自分で思い返してみても、一体何がどうなっているのか、俺自身にもよく分からない。
しかも、それらの出来事はどうやら「適応」という一つの言葉で繋がっているらしい。だというのに、その適応が具体的に何を意味しているのかさえ、俺にはまだ理解しきれていなかった。
「……一度、普通に話したいな」
「誰とですか?」
「視聴者と」
そう答えると、俺は少しだけ苦笑した。
「ここ最近、色々ありすぎて、ちゃんと説明してないだろ?」
神代は少し考えるように黙ったあと、やがて小さく頷いた。
「そうですね」
「だから、雑談配信でもするか。多少は金にもなるし、うまくいけばスパチャも飛んでくるかもしれない」
「……雑談」
神代の口元がわずかに引きつる。
「黒瀬さんの場合、その言葉はもう信用できない気がします」
「ひどくない?」
そんなわけで――。
数日後、俺は久しぶりにカメラの前へ座っていた。画面の向こうには、配信開始直後からいつものように大量のコメントが流れている。
今回の配信タイトルは、
**『今日は雑談です、釈明配信じゃありません』**
だった。
ただし、タイトルを付けた本人である俺自身が分かっている。これはどう考えても雑談ではない。
「えー……久しぶり」
俺が軽く手を上げて挨拶すると、待っていたとばかりにコメント欄が一気に流れ始めた。
『待ってた』
『黒瀬きたー!』
『雑談(釈明)』
『絶対また何かある』
『今回は何をやらかすんです?』
『PON瀬待機』
「お前らな……」
俺は苦笑しながら画面を見る。
「今日は本当に雑談だからな」
『その言葉、信用できない』
『前にも聞いた』
『実演するなって言われて実演した人』
『まずそこから謝って』
「いや、それは……」
思わず言葉に詰まったあと、俺は少しだけ視線を逸らした。
「……あれは事故だ」
『また事故』
『三年前の事故も?』
『全部事故で済ませる男』
「やめろって!」
俺は苦笑しながら頭を掻いたが、こうして視聴者と話していると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。最近は研究者や探索者協会の人間と話すことばかりだったから、こういういつもの空気が少し懐かしく感じられた。
「まあ、今日は最近あったことを話そうと思う」
『ついに釈明会見始まった』
『来たぞ』
『まず人狼について』
『あと、あの黒い人』
「そういうことになるよな……って、その情報みんな知ってんの? なんで?」
『協会が必要だと判断した情報は出してるよ』
『流石にびっくりしたけどな』
俺は苦笑しながら椅子にもたれた。
「まず、人狼の件だな」
そこから俺は、ここ最近の出来事を話せる範囲で説明していった。ゴブリンとの戦闘、スライムとの遭遇、人狼との戦い、そして、俺の身体が勝手に変身したこと。その一つ一つを思い出しながら話していると、自分でも改めて妙な経験をしてきたものだと思う。
「ほんとに、俺にもよく分かってないんだよ」
苦笑しながら両手を広げる。
「危ないと思ったら勝手に変わるし、武器まで勝手に出る。人狼との戦いでは、最後には俺自身が止めるのに必死だったくらいだ」
『身体に意思ある説』
『完全に寄生されてるじゃん』
『黒瀬の身体が一番PON』
『でも強すぎる』
「強いのは……まあ、そうなのかもしれないけど」
俺は少しだけ視線を逸らしながら、苦笑する。
「俺自身としては、あんまり嬉しくないんだよな」
これは本音だった。
力があること自体はいい。昔だってSランクだったし、戦うことにも慣れている。
だが、今の俺の身体は俺の意思より先に動く。それがどうにも落ち着かないのだ。
「それと……」
俺は少し迷ってから口を開いた。
「最近、敵みたいな奴から色々と言われた」
『敵!?』
『さっきの黒いやつ?』
『幹部?』
『迎えに来たってやつ?』
「そう、それ。これも機密情報じゃないの?!」
俺は思わず画面を見返す。
「あいつ、俺が地球にも適応して、ダンジョン……いや、向こう側の環境にも適応してるとかなんとか言ってた。あと、俺がパーフェクトソルジャーとかって言ってたな」
『向こう側!?』
『さらっと世界観がヤバい』
『パーフェクトソルジャーって何?』
「そこも、俺にはよく分かってない」
俺は苦笑しながら肩をすくめる。
「ただ、あいつらからすると俺はかなり珍しい存在らしい」
画面の向こうでは、その言葉を待っていたかのようにコメントが一気に増えていく。
『自覚してください』
『いやもう十分ヤバい』
『Sランクでもそんなの聞いたことない』
『黒瀬、人間やめてない?』
「俺は普通にごく一般の人間だよ!」
俺は即座に言い返した。
『説得力なし』
『右腕から剣出す人が何言ってる』
『変身して巨大砲撃撃つ人間』
「……それは」
そこまで言われると、さすがに何も言い返せなかった。
「まあ、とにかく俺は人間だ。そこは変わらない」
そう言ってから、俺は椅子に座り直した。
「それに、さっきの幹部だって、俺を殺そうとしたわけじゃない」
『でも怖かった』
『Sランク部隊瞬殺だったもんな』
『あれはヤバかった』
「そうなんだよな」
俺は頷いた。
「俺も怖かった」
その言葉が意外だったのか、コメントの流れが一瞬だけ止まる。
「強さがどうこうじゃなくて、何をしたのかよく分からないのが怖いんだよ。それに、セナのライトセイバーまで封じたんだ。剣が壊れたわけでもないのに、急に能力が使えなくなるって……あれも相当ヤバいよな」
俺がそう言うと、配信画面の隅に、施設から通信で参加しているセナの映像が表示された。
「その件なら、私から説明するわ」
セナは少し険しい表情でカメラを見つめた。
「黒い波紋が剣に触れた瞬間、まとわせていた光が消えたの。それだけじゃない。その後、もう一度ライトセイバーを使おうとしても、まったく反応しなかった」
「剣が壊れたわけじゃないんだよな?」
「ええ。剣自体に異常があったわけじゃない。それなのに、能力だけが使えなくなったの。あの時は、本当に何が起きたのか分からなかったわ」
セナは一度言葉を切り、少しだけ眉を寄せた。
「相手に触れられたわけでもないし、能力を使うのを邪魔されたという感覚とも違った。普通に発動しようとしたのに、まったく反応がなかったのよ」
「……それは怖いな」
俺は思わず顔をしかめた。
「自分の能力が、いきなり使えなくなるんだろ? しかも、剣が壊れたわけでもない。どう対処すればいいのかも分からないじゃないか」
「そうね。少なくとも、あの時の私には対処できなかったわ」
セナは悔しそうに表情を引き締めた。
「だからこそ、あの現象については、もっと調べる必要があると思う」
「……私にも、まだ分かっていません」
隣にいた神代が静かに補足する。
「視えてはいるんです。ですが、何をどうした結果ああなったのかまでは……。セナさんの能力が使えなくなった原因も、まだ分かっていません」
『神代さんでも分からない』
『セナの能力まで封じたのか』
『それ一番怖いやつ』
『黒瀬逃げて』
「だから逃げるってどこにだよ。俺が今いるの隔離施設だぞ。なんでズカズカ踏み込んでこられんだよ」
思わず笑ってしまう。
それからしばらく他愛のない話を続けていたのだが、俺はふと、まだ一つ話していなかったことを思い出した。
「そういや、一個言ってなかったな」
『何?』
『また重大発表?』
「いや、そんな大した話じゃない」
俺は軽い調子で続けた。
「あの時、俺が異常空間から戻ってきた時さ」
その言葉だけで、コメント欄がまた一気にざわつく。
「あれ、俺が自分で戻ろうと思って戻ったわけじゃないんだよ」
『え?』
『じゃあどうやって?』
『待って』
「元の世界になんとか戻らないとなって考えたら、なんか勝手に移動したんだ」
俺は肩をすくめる。
「気がついたらこっちに戻ってた。だから、俺の中では『世界を移動した』っていうより、『勝手に戻された』くらいの感じなんだよ」
『それ超重要じゃん』
『雑談じゃねえw』
『また重大発言』
「まあな」
俺は苦笑する。
「でも最近は、そういうのないんだよな」
その瞬間だった。
「…………あれ?」
突然、視界が揺れた。
「黒瀬さん?」
神代の声が、少しずつ遠くなっていく。
「ちょっと待て」
俺は慌てて立ち上がろうとしたが、足元の感覚が消え、身体そのものが軽くなっていくのを感じた。周囲の空気までぐにゃりと歪み始める。
「おい――」
次の瞬間、俺の姿が配信画面から消えた。
コメント欄が一気に爆発する。
『え?』
『消えた!?』
『黒瀬!?』
『何これ!?』
『PON!?』
『世界移動した!?』
『雑談配信で何してんだw』
「黒瀬さん!」
神代が慌てて立ち上がる。
だが、そこにはもう俺の姿はなかった。
――そして。
俺は、真っ暗な場所に立っていた。
「……またかよ! ここ、あの異常空間か?」
思わず叫ぶと、暗闇の向こうに少しずつ灰色の景色が浮かび上がってくる。見覚えのある、あの異常空間だった。
「いや、待て待て!」
俺は頭を抱える。
「今、配信中だぞ!」
当然、返事はない。
それでも、さっきまで地球にいた感覚だけはまだ身体の中に残っている。
なら――。
「戻れ!」
一歩踏み出してみる。
「戻れって!」
だが、何も起きない。
「戻ってくれ!」
さらに力を込めた瞬間、身体の奥で何かが反応した。
周囲の空気が揺れ、景色そのものが再び歪み始める。
「よし!」
俺は思わず拳を握った。
「そうだ、そのまま――!」
次の瞬間、身体が一気に引っ張られた。
「うおおおおおおっ!」
叫び声を上げながら、視界が真っ白になる。
そして――。
「ぐあっ!」
俺は配信部屋の床へ転がり込み、そのままカメラのすぐ横に見事に突っ伏した。
「……っ、いてぇ……」
痛みに顔をしかめながら顔を上げると、神代が目を丸くして俺を見下ろしている。
「……黒瀬さん」
「……うん」
「今、どこに行ってました?」
俺は息を整えながら、さっきまでいた場所を思い返した。
「……ダンジョンの先にある、多分アイツらの世界だったと思う」
「…………」
神代が言葉を失い、配信の向こうでも一瞬だけコメントの流れが止まった。
そして――。
『PON』
『PON瀬』
『世界移動PON』
『雑談とは』
『今日の雑談:世界を往復しました』
『帰還に必死すぎて草』
『本人が言った瞬間に実演www』
「……お前ら楽しそうだな」
俺は床に座り込んだまま、ため息をつく。
神代は額に手を当てながら、呆れたように俺を見ていた。
「……黒瀬さん」
「何?」
「もう、今後『最近はない』とか『もう大丈夫』とか、そういうことを配信中に言うのやめませんか?」
「……俺も、そうしたほうがいい気がしてきた」
だが、その言葉の直後だった。
画面の端に、見慣れないコメントが一つだけ流れた。
『――向こう側で、何かがこちらを見ている』
「…………」
俺はそのコメントをじっと見つめたあと、ゆっくりと画面から目を逸らした。
「……今日は、もう配信終わるわ」
『逃げたw』
『お疲れPON瀬』
『次回も待ってる』
『今度は世界移動しないでね』
俺は苦笑しながら配信を終了した。
――だが。
配信画面が暗転したあとも、その映像を見つめている者たちがいた。
薄暗い部屋の中に置かれた複数のモニターには、先ほどまでの配信映像が並んでいる。その中央に表示されているのは、床に転がり込んだ黒瀬旭の姿だった。
「……戻ってきたか」
四人のうち、一人が低く呟いた。
「以前とは違うようですね」
別の一人がモニターを見ながら答える。
「ええ。あの場所へ行っただけではない。今度は、帰ろうとした直後に元の場所へ戻っている」
しばらく、四人は何も言わず画面を見つめていた。
やがて、そのうちの一人が小さく笑った。
「やはり……あの時の男か」
別のモニターには、三年前に記録された映像が表示されている。
深層へ向かう、まだ何も知らなかった頃の黒瀬旭。
そして――。
最後に映し出されたのは、あの事故が起きた瞬間だった。
「想定以上に変化している」
誰かが静かに言う。
「……なら、こちらも予定を早めるか?」
「まだ早い」
四人の視線が、現在の黒瀬へ戻る。
「今は、見ていればいい」
そう言って、一人がモニターの電源を落とした。
暗くなった画面には、最後まで黒瀬の姿が残っていた。
――三年前に突き落とした男の、その後を。
四人は今も追い続けていた。




