深淵を覗くものは、深淵にも覗かれている
あの配信から、三日後。
俺は再びカメラの前に座っていた。
画面の向こうには、配信開始前からすでに大量の視聴者が集まっている。前回の配信で起きた「世界移動」の切り抜きが拡散されたせいで、いつも以上に人が多い。
しかも今回の配信タイトルは、前回のような軽いものではない。
**『先日の配信についての釈明』**
俺としてはかなり真面目に付けたつもりだ。
なのに、配信を開始した瞬間からコメント欄はいつもの調子だった。
『釈明きた』
『待ってました』
『今回は世界移動しないでください』
『まず何で消えたのか説明して』
『前回の雑談配信とは』
『釈明PON瀬』
「……まあ、そうなるよな」
俺は苦笑しながら、軽く頭を下げた。
「どうも。黒瀬旭です」
『知ってる』
『本人確認ヨシ』
『今日は床に落ちない?』
「落ちないよ!」
思わず即座に言い返したものの、コメント欄には笑いを示す書き込みがさらに増えていく。
その様子を横から見ていた神代が、わずかに口元を緩めた。
「……前回より緊張してますね」
「そりゃするだろ。前回は配信中に消えたんだぞ」
「その前に、雑談のつもりで重大情報をいくつも話していますけどね」
「それは……まあ……」
俺は視線を逸らした。
「今日は、ちゃんと話す」
『信用していい?』
『その言葉で何回裏切られたか』
『神代さん、監視お願いします』
『誰か黒瀬を縛っとけ』
「お前ら俺を何だと思ってるんだよ……」
俺はため息をつきながら背筋を伸ばした。
「まず、前回の配信で俺が突然消えた件について説明する」
コメント欄の流れが一気に速くなる。
「結論から言うと、あれは俺の意思じゃなかった」
『知ってる』
『そこまでは知ってる』
『でも戻ったのは自分の意思だったよね?』
「そう。そこが問題なんだ」
俺は少し表情を引き締める。
「最初に消えた時は、何かをしようと思ったわけでもない。突然、身体がおかしくなって、そのまま別の場所へ移動した」
「正確には、空間そのものが変化していました」
神代が静かに補足する。
「視覚的には、以前黒瀬さんが経験した異常空間への移動と、かなり似ています。ただし、今回はこちら側から向こうへ移動したという点が違います」
『やっぱり異常空間だったのか』
『あの灰色の場所?』
『三年前に行ったところ?』
「たぶん、同じ場所だ」
俺は頷いた。
「ただ、三年前の時は自分が何をしてるのか全然分からなかった。今回も最初は同じだった。でも、前回と一つ違うことがあった」
そこで俺は一度言葉を切る。
「戻れた」
『自力で?』
『そこ重要』
『世界間移動できるってこと?』
「正確には……自分で戻りたいと思ったら、戻れた」
自分で口にしてみても、やっぱり変な話だ。
「最初にあそこへ行った時は、戻る方法なんて分からなかった。でも今回は、戻ろうと思って力を入れたら、身体の中で何かが反応した。それで戻ってきた」
神代も静かに頷いた。
「少なくとも、こちらで確認した結果では、黒瀬さん自身が何らかの反応を起こした可能性が高いです」
『つまり進化した?』
『世界間移動能力を獲得?』
『それもう人間の能力じゃなくない?』
「いや、待て」
俺は画面を指差した。
「まだ『世界間移動能力を獲得した』なんて確定してないからな?」
『でも戻ったじゃん』
『実績解除』
『一回できたなら出来るだろ』
「ゲームじゃないんだから、そんな簡単に考えるなって」
苦笑しながら、俺は椅子へ深くもたれた。
「そもそも、俺だって何がどうなってるのか全然分かってない」
『またそれ』
『黒瀬さん、最近ずっと分かってない』
『本人が一番困惑してるの草』
「本当に困惑してるんだよ!」
思わず声を上げると、神代が隣で小さく息を吐いた。
「ですが、それは私も同じです」
「神代でも分からない?」
「分かりません」
神代は珍しく即答した。
「目では追えています。身体の反応も観測できます。ただ、黒瀬さんの中で起きている変化を、現在の知識だけで説明するのは難しいです」
コメント欄に、一瞬だけ真面目な流れが生まれた。
『神代さんでも無理なのか』
『協会は原因分かってる?』
『適応細胞って結局何なんだ』
「その話もする」
俺は小さく頷いた。
「もちろん全部は話せない。機密もあるしな」
『ですよねー』
『まあそうだろうな』
『でも言える範囲で頼む』
「俺の中に起きている変化について、協会側では『環境への適応』という表現を使ってる」
そこまでは、以前説明された内容と同じだ。
「俺自身はその言葉が正しいのかどうかもよく分からない。ただ、ダンジョンの中で俺の身体がおかしくなっていったこと、変身したこと、武器が出たこと、そして今回の移動。少なくとも全部、何かしら繋がってる可能性があるらしい」
『全部繋がってるの怖すぎ』
『じゃあ人狼化も?』
『剣も?』
『砲撃も?』
「……たぶん」
俺は少し困ったように答える。
「ただし、全部が同じ仕組みなのかまでは分からない」
「そこは重要ですね」
神代が補足する。
「同じ『適応』という言葉で括っていても、現象として同一とは限りません」
『神代さん真面目』
『黒瀬との温度差がすごい』
「俺だって真面目だよ」
『世界移動しながら?』
「……」
俺は黙って画面を見た。
「まあ……そこは否定できない」
コメント欄が一気に笑いで埋まる。
俺もつられて笑ってしまった。
「でもな」
しばらくしてから、俺は少し真剣な表情に戻る。
「今回のことで、俺自身も一つ気をつけなきゃいけないと思った」
『何?』
「自分の身体を、自分が全部理解してるつもりにならないことだ」
口にしてから、俺自身の中でもその言葉が妙に重く感じられた。
「前までは、強くなったとか変身できるようになったとか、そういうことを考えていた。でも、今回みたいに勝手にどこかへ移動するなら、話は別だ」
俺は腕を組んだ。
「配信中に消えたら困る」
『そこ!?』
『もっと他にあるだろ』
『命とか安全とかじゃなくて配信w』
「いや、大事だろ!」
俺は思わず身を乗り出す。
「俺が消えるだけならまだいい。でも、配信中に消えたら神代が大変だし、施設も大騒ぎになる。戻れなかったらもっと大変だ。そもそも、仕事にも行けないし、配信もできない」
「……結局そこなんですね」
「生活かかってるんだよ」
神代が呆れたようにこちらを見る。
だが、その表情には少しだけ安心したような色も混じっていた。
コメント欄も、そんな俺を見ているかのように少しずつ雰囲気が柔らかくなる。
『そういうとこは黒瀬らしい』
『妙に現実的』
『世界の謎よりクレカ』
『でもまあ生活大事』
「だろ?」
俺は満足そうに頷いた。
「だから今後は、変な兆候があったらすぐに配信を止める」
『フラグ』
『絶対止めない』
『次の配信で実演するやつ』
「だからやらないって!」
「……前回もそう言ってましたけどね」
「神代まで言うなよ!」
そんなやり取りを続けながら、俺はふと画面を見る。
一番下のコメント欄に、妙に気になる書き込みが流れていた。
『向こう側の奴らは、黒瀬が戻ったことをどう思ってるんだ?』
「……」
俺は一瞬だけ黙った。
「それは――」
前回、俺を迎えに来た幹部の姿が頭に浮かぶ。
そして、あの最後の言葉。
『いずれ、お前にも分かる』
俺は無意識に眉を寄せた。
「正直に言うと、分からない」
声が少し低くなる。
「ただ……俺を殺すつもりなら、あいつはあの場で殺せたと思う」
『Sランク部隊でも相手にならなかったしな』
『そこなんだよな』
「なのに、あいつは俺を連れていこうとした」
その事実だけが、妙に引っかかっている。
「だから、俺を必要としてるのかもしれない。でも、何のために必要なのかは分からない」
そこで俺は小さく息を吐いた。
「……まあ、分からないことだらけだ」
『黒瀬、質問いい?』
『もう一個だけ』
『聞いていい?』
「なんだ?」
『前回の最後に出たコメント、あれ誰だったの?』
「……」
俺は画面を見つめた。
『――向こう側で、何かがこちらを見ている』
確かにそう書かれていた。
「分からない」
『神代さんも?』
「私にも分かりません」
「だよな」
俺は苦笑した。
「ただ、あのコメントが偶然だったのか、それとも本当に何か見えていた人がいたのか。それすら確認できてない」
『怖すぎ』
『誰がコメントしたんだよ』
『運営調べられないの?』
「まあ……」
俺は少し考えたあと、肩をすくめた。
「深淵を覗くものは、深淵にも覗かれている、ってやつかもな」
『急に名言』
『黒瀬が言うと妙に怖い』
『それ笑えないやつでは?』
『覗いてるのは黒瀬のほうだろw』
「いや、なんとなくだよ」
俺は苦笑する。
「向こうがこっちを見てるなら、こっちだって向こうを覗いてるわけだし。俺も何か分かるまで調べるつもりではある」
その言葉を口にした瞬間、コメント欄の片隅にあった一つの書き込みが消えた。
俺は気づいていない。
だが、画面の向こう側では――。
誰かが、その発言を保存していた。
『深淵を覗くものは、深淵にも覗かれている』
短く入力された記録。
その下には、別の記述が続いている。
『対象、警戒心あり』
『敵対意識は低い』
『観測されている可能性を認識』
『ただし、接触者との繋がりは認識していない』
黒瀬旭。
三年前に深層事故へ巻き込まれ、その後も地球環境とダンジョン環境の双方へ異常な適応を続けている存在。
そして今回、自分の意思でこちら側へ戻る力を見せた。
彼らにとって重要なのは、能力そのものだけではない。
黒瀬が「見られている」と気づいた時、どう反応するのか。
恐れるのか。
敵と判断するのか。
あるいは、自分からこちらを探り始めるのか。
その答えを得るために、彼らは今回の配信にも手を入れていた。
前回のコメントも。
そして、配信終了直前に混ぜ込まれたあの声も。
どちらも偶然ではない。
「……反応したな」
薄暗い部屋の中で、四人のうち一人が小さく呟く。
モニターには、さきほどの黒瀬の発言が表示されている。
「ええ。こちらの存在そのものを完全に理解しているわけではない。しかし、『見られているかもしれない』という可能性は認識した」
別の男が淡々と答える。
「それだけで十分です。こちらの存在を確信させる必要はない」
「むしろ、今はそのほうがいい」
一人がそう言って、黒瀬の映像を再び再生する。
「気づいているのに、誰なのか分からない。その状態でどう動くのかを見る」
「以前より反応が変わっています」
「ああ」
画面の中で、黒瀬は神代と軽口を叩いている。
「三年前なら、もっと単純だった。だが今は違う」
男は静かに目を細めた。
「こちらを探ろうとするだけの余裕がある」
「次も仕掛けますか?」
「いや」
すぐには答えなかった。
しばらく黒瀬の表情を眺めたあと、男は小さく笑った。
「今回はここまでだ」
「反応は十分、と?」
「十分だ」
モニターには、最後まで黒瀬の姿が映っている。
「まだこちらの存在を確定させる必要はない。あれはこちらを知らないままでいい」
その声には、奇妙な確信があった。
「知らないままのほうが、次の反応が見やすい」
――アビス帝国。
その名すら知らない黒瀬旭は、ただ「どこかにいる誰か」に覗かれているのかもしれないと考えているだけだった。
一方で、その「誰か」はすでに黒瀬の反応を一つずつ記録し、次に何を与えれば、どんな答えが返ってくるのかを測っている。
そして当の黒瀬は。
「……まあ、今日はここまで」
何も知らないまま、再びカメラへ向かって手を振った。
「今度こそ普通の配信にするからな」
『絶対フラグ』
『世界移動待機』
『次回も期待してますPON瀬』
「だから、もうやらねえって!」
そんな視聴者とのやり取りを最後に、俺は配信を終了した。
――その直後。
暗い部屋の中で、四人の男たちが一斉にモニターを見つめる。
そして、そのうちの一人が静かに口を開いた。
「次は、もう少し近くで反応を見よう」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。




