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魚は泳がせるべきである


 昼食を終え、不可思議な事態になった銀の魔女を見送って――午後の講義もやっとこさ終わったか。ゴーンゴーンと鐘が鳴り、余韻だけが広がっていた。


「ん……」


 マリアは唇を尖らせる。


 悪魔の頬をどうやったら打ち砕けるだろうか。白雪の髪に、円な瞳、幼気な眼差しは穏やかに鉄拳を夢想する。


 教科書を丁寧に畳んで、手を預けている。


 黒板には、走った魔力の残滓が光っていた。ソドム教授の操る杖先は演奏の指揮を熟すように踊る。なんでも、講義にて書き連ねた文字列を溶いていたからだ。


 今日の講義も閉じ、幕を下ろしていく。


 今や人もばらばらと退室し、夕刻は後にて控えている時刻となる。退室する学徒は和やかに談笑し、学寮へと流れていた。


「魔法記述は奥深いものですね、リィナ様」

「ええ。ワタクシはどうも『風』か『火』ばかりが強くなってしまうの」

「二つも。流石です! リィナ様!」

「そ、そうかしら? けれど、十全に操れてこそでしょう?」

「いいえ、そんな。私なんて『青』ですのに、水もろくに操れないのですよ?」

「それは、完成された絵がないのではなくって?」


 之、即ち――学徒は学びより遊びに興じるものだから――意気揚々と退室しようにも、ちっちゃなマリアは人波に揉まれたくはなく、流れが緩むのを待っていた。


「むう……」


 黒猫に鉄槌を叩き込むのは流石にどうか、いいや、あれは悪魔であるのだから追い詰めるべきであったのか。ふわふわとマリアは考えていた。


 結果、一団がすっかり過ぎソドム教授との二人っきりとなった。


 教授は黒板の記述を淡きつつ、杖で傍らの香炉を叩く。そうすれば仄かな甘い香りが漂った。それから、何時までも退室しないマリアに翡翠の瞳を向ける。


「……」

「……」


 マリアの琥珀と重なる。二人の考えだけは重ならず、時間だけは流れる。口を出すでもなく、目を外すでもない。


 琥珀の瞳がついっと怪しく光るランタンに向いた。考えを整理するように、畳んだ教科書を指先がなぞる。悩むように唇をうにうにして、小首を傾げた。


「……うーん」


 ソドム教授は穏やかに三つ揃えを整えつつ、先を敢えて促しはしない。


 マリアは学園にて、密やかに有名になりつつあった。密やか、であり有名とは、またなんぞや――矛盾ではない。


 (ひとえ)に、一部の学徒には強烈な記憶としてマリアは刻まれていたからであった。


 それは問題児であるグエルと度々行動を共にしていたり、なにかしらの諍いの中心にいたり、また白雪を思わせる髪にもあった。


 マリアは非常に珍しい髪質と瞳を有している、必然、(さぞ)や名家の令嬢に違いないと学徒は勘繰るもので。声こそ掛けられずとも、稀血の女の子である時点で姿に覚えを持たれるものだった。


 然し、マリアは不思議な子であった。


 付き人もなく、取り巻きもなし、行動力はあっても何処でなにをしているのかは分からない。盛んに口を開いて主張する人柄でもなく、授業態度も真面目で目立たない。


 見た目は目立つのに、チグハグなのだ。ソドム教授とて、一年生の担任であるのにマリアを知悉してはいなかった。


 表面的には静かな子である。


「ソドム教授さま」


「敬称は不要です、マリアさん」


 之は何回かした遣り取りではあった。


 マリアは数刻沈黙してから、目を迷わせた。なんぞかを確かめる為にか、教卓の側に座すソドム教授を認めると長い瞬きを挟む。


 琥珀の瞳は無機質で、感情の機微を察するには希薄に過ぎる。不意に、琥珀の瞳が鈍く見上げた。


「おたずねしたいのですが、良いですか?」


「課題について、でしょうか?」


 ソドム教授は一年生の担任である為か、妥当な返事を行った。然れどもマリアは首を振る。加えて困ったような顔で小首を傾げていた。


「魔法記述とか、術式は、どの章を学べばよろしいのでしょう?」


 香炉から昇る香り。ソドム教授は穏やかな表情を崩さなかったが、三つ揃えの袖口を整えた指先はぴたりと止まって。


「マリアさんは黒でしたね?」

「色は……不本意ですけど、魔法は使いたいのです」

「……であれど【黒】は教科書に記載がない、と……?」

「はい、どこにもないです」


 ぐっと頷くマリア。


 【色】は特殊だ。


 魔徒であれば少ないながらも【黒】は存在する。人間が【黒】を帯びる例は文献を漁れど、正確な記述を探すのは至難である。


 【黒】は本来、魔徒や悪魔が持つ【色】である。


 こてんと頭を倒すマリアを窺い、ソドム教授は杖先を空中に走らせた。すると翡翠に輝く文字が並ぶ。 


「【黒】が四大元素と如何様に関係するかは定かではありませんがね、『魔弾』は別です。空間に記述式を構築する手間もなく、エーテルを固め、放つだけですから」


 習得は容易い。エーテルの操作技術の延長だからだ。魔徒であれば、ソドム教授がぱっと思い付いたのは三年生のドロシー・コフェットになるだろうか。


 彼女は魔徒のなかでも、より原始的で、色は黒であった。操る魔法がなくとも、非常に優秀な生徒である。


「魔弾……ですか」


 マリアは魔弾を習得してはいない。


 それは魔法を使うより【金】でエーテルを焼き尽くした方が手っ取り早いからである。内に渦巻く主の意向は頼もしいもので、魔法に頼るより殴った方が早いのが問題であった。


 そも、信徒であればそれが定番であり、定石だ。使いたくもない色を前に、マリアは珍しくも不真面目に修練を積んではいなかった。


「あのー、その。ゆえあって音を立てず一撃で沈めたいのですけれど、魔弾では不可能でしょうか?」

「は、はぁ……」


 あんまりに透き通った声色に、ソドム教授は緩く息を流す。


 内容と見た目が合わないのは横に置くとして、魔弾の隠匿性は決して高いとは述べられはしない。ドロシー・コフェットの場合、落ち着いた振る舞いに反して過剰なエーテルで武装していただろうか。


 ソドム教授は誰よりも率先して挙手する生徒を脳裏に据え、何回か頷く。


「静音性を考慮するならば、風による音の断絶が代表的ですかね。魔弾は不適切かと」


 手にした杖を回した。


 描かれるのは記述式。空間を彩り、文字が完成するや否や、ふわっと空気に溶けた。すると不思議な事に、ソドム教授が教卓を杖で叩く音がマリアの耳には届かなかった。


「熟練者ならば局所で発動可能ではあります。こうして、音を選別するように」


 声はするのに杖が刻む音は響かず、なんとも方向がブレる感覚だ。マリアは室内を一通り見渡し、なにかを見て、こてんと首を傾げた。


「ソドム教授」


 ランタンの灯りがソドム教授の影を伸ばしている。黒い影の掴みようのない動きは昼間の黒猫と重なり、見覚えがあった。


 マリアは問う。


「あの、猫はお好きですか?」

「は、はあ。猫ですか……あまり動物には好かれてはおりませんね」


  想定外の問いに、教授は片眉を上げた。マリアは自分の手元に視線を落とし、小さく拳を握り込むと手をぐーにする。


「ええ、私も少し苦手です。猫は言葉を話し、人の弱みを握り、契約を迫るような……質の悪い黒猫とか」


 教室の空気が軋む。それはマリアが固めた拳の震えと、琥珀から漏れ出る【金】が宙を染めるエーテルを侵食しているからだ。


 ソドム教授は教師としての温和さを保って、肌を焼く【金】に目を細めた。

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