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逃した魚は大きいですか?


 マリアが教会の関係者であるのは疑いようがない事実だ。


 香炉の回す香りを跳ね飛ばし、剰え、こうも容易にエーテルを焼く。


 年端もいかない乙女でありながら、一度彼女を前にすれば並み居る魔導師達では魔法が溶けてしまうのは想像に難くない。


 現にヨシュア、及び上級生であるグエルはマリアによってのされていた。


 ソドム教授は止事なき事例――頬や頭をぶん殴られた学徒――を反芻しつつ、やんわりと香炉から立ち昇る香りを杖に絡めた。 


「黒猫は……使い魔としては有名ですね。他には鴉、梟、鼠、蛇に蝙蝠。小動物を使い魔にする方が多いものですが」


 マリアの語る黒猫には覚えがない。まるでそれでは悪魔である。


「使い魔は、なにゆえに必要なのですか?」


「索敵、補助、エーテルの備蓄、生贄、用途はそれぞれありますね。近頃は使い魔自体が減ったものです」


「そうなのですか?」


「ええ。使い魔の授業は必須科目ではありません、近年はゴーレムや式神の会得に力を入れていますから」


「ゴーレムさんは分かります、あの、オリアナさんのみたいなものですよね」


「おや、オリアナ嬢をご存知で?」


「お昼の食堂で、席を同じくしたのです。風紀会が来て、連れていっちゃいました――あの、これってよくある話なのですか?」


 ソドム教授の瞳は、杖先で広げる香炉の甘い香りに向いている。


「あまりないでしょうね、今回は『裁判』が行われるそうですから。前回はたしか……グエルさんが対象でしたかね?」


 杖が延べた翡翠の煌めきを、琥珀がゆっくり追った。


 グエル・ホーキンスは問題児である。度々問題を起こすもので、遂に風紀会から『備品破損』を問題視されたのである。彼は最後まで反省はしなかった。


 なんでも、投げ付けた卵が試作ゴーレムに直撃し、オリアナ嬢の逆鱗に触れたようで。結論から言えば物的損害が出た為に『行動を慎め』と釘を刺されたのだ。


 結果、グエル・ホーキンスは新入生の案内を罰に科された訳である。


 ソドム教授は少々楽しそうに頬を緩めた。


「『天秤』の徽章を背負う彼らの規律は、我々教師の理屈とは少々違いまして。学園長の方針もあって生徒任せなんですよね、色々と」

「生徒任せ、ですか?」

「ええ、学園の風紀です」

「えっと、校則です?」

「もっとざっくりしてます。苦情から動いたりですとか」


 前回はオリアナ嬢からの苦言で動いていた。今回は偶々『行方不明』の生徒に絡む問題が発生し、解決の為に動いているようだ。


「なるほど?」


 礼節、節度、戒律に似ているのだろう。そうマリアは解釈する。


 マリアにもある。


 一日一回は経典を読みなさい、だとか、祈りを捧げなさい、だとか。破ればシスターローズにくどくど叱られるので、毎日欠かさずにいる。ローブ下に仕舞う経典の重さを感じ、マリアは風紀会を記憶した。


「学園における『風紀』は、なにもマリアさん達だけを咎めてはいないんですよ。教師陣も対象です。校則、よりもっと柔軟ですねあの子たちは」


 ソドム教授は杖先をくるりと回し、宙に浮かべた翡翠を霧散させた。鼻先を擽る甘さに、マリアはきょろきょろと確認して、緑のローブ下にある経典を確かめるように手を結った。


「風紀会が動いたのであれば、教師だからと『裁判』を有耶無耶には出来ませんからね。時として、学園の中では私達を越える『秩序』になります」


「秩序、ですか?」


 マリアは左に首を傾げた。


 表情は相変わらず世の中の芥を知らぬ幼いもの。琥珀の瞳からは機微を読み取れず、唯、燻っていた【金】の残滓が翡翠のエーテルをじりじりと焦がすのをソドム教授は見守った。


「オリアナさんは、きっと善き隣人でした。でも、風紀会の方々の行いは、清く正しいものなのですか? もし、主を知らぬまま行うのであれば、それは、とても良くないと思うのです」


 論理の飛躍に、ソドム教授は黙った。カレイルならば窘めるのだろう。ヨシュアならば肩を竦めるのだろう。グエルなら笑うのだろう。


 然し、ソドム教授は担任であってもマリアを知悉してはいなかった。ちっちゃなマリアの方針は実に短絡であり簡素である。


 迷ったら取り敢えず一発『ぐー』を叩き込んでから考えよう。殴れば答えが出る、極端に結果論に寄っている節があるのだ。


「……マリアさん? まさかとは思いますが。なにを試みるおつもりで?」


 ソドム教授は杖を指先で回す。


「主は行いこそを罰し、罪を罰するのですから。ゆえに、オリアナさんの件は横暴ではないかと」


 嘗て少女が起こした『鉄拳制裁』が脳裏で過る。上級生や同級生を撃滅したのは、あの小さな手であった。


「あ、そうでした。先程の黒猫の話になるんですけど、ソドム教授はどう思います?」


 マリアは立ち上がり、綺麗に畳んだ教科書を胸に抱いた。


 白雪の髪を靡かせて柔和に微笑むのだ。なにがどう思うか、小さな彼女の問いは畢竟するに『行いか、黒猫か、どちらが悪か』である。ソドム教授はゆるりと杖を回す。


「黒猫は悪さをしましたか?」


 聖母を彷彿とさせる微笑と、小さな唇から(まろ)び出る言動だけは噛み合わない事はままあるけれど。


「行いは悪しきものではないかと」

「ではマリアさん、貴女にとって悪とは?」

「悪……ですか?」


 マリアは教科書の束を持ち直し、指先で唇を叩く。


「主の導きに反する事、ですね」

「ふむ……要するに主は必ず正しいと?」


 マリアが教会の関係者であるのは教師陣内で共有されてはいたが、神学生とはまた違って正色教会に役職が存在する『現役の神官』は貴重だ。


 学園の聖堂には正色教会の神父が配属されているものの、学徒はあくまでも『正色教会の信徒』であり『正色教会』を背にはしていない。


 神学生と大きく違うのは、正色教会に属する者達の信仰心にある。主へ疑いがない。疑わない、のではない、最初から考えにないのだ。


「はい、その通りですっ」


 頬を染め、強くマリアは頷く。


「では、魔徒狩りが行われた背景をご存知ですか?」


 ソドム教授は教卓を杖で小突いて、意地の悪い話題を振った。


「ええ、存じております。教皇様が『主は行いこそを罰し、之、人を裁くに非ず』と、そう正したのです」

「では、その過ちを自覚した『出来事』はご存知ですか?」

魔徒(まと)が関係する、とは耳にしてますね」


 神学生なら、その辺りの歴史を把握してはいるのだろう。


「悪魔と人が恋をしたそうです。彼等は、悲劇の中で子をなしました。しかし、人はこれを咎めました」

「……」


 マリアは答えず、考えているのか視線は足元にあった。伏せた睫毛にランタンの光が掛かって、深い琥珀に細い影を落とす。瞳の奥にあるのは神気か、虹彩は複雑な陰陽を湛えていた。


「子に罪はありません。当時、生きているだけで罰であったそうですがね?」

「主ではなく、私達が過つのです。いつだって、人が疑い、人が欺き、主を試さんとするのです」


 正色教会の信徒は、今でこそ『悪魔を認めている』が、この『認める』とは即ち『許す』ではなく『存在する事は認識し、存在を肯定する』にある。


 神学生が時折履き違えているが、正色教会は『悪魔を許してはいない』のだ。悪魔だからと断罪してはいないだけで、本質はもっと冷徹である。


「他学徒には内密な話ではありますが、マリアさんは聖人(・・)なのではないですか?」


 マリアは教科書を抱えたまま、少し歩いた。言葉を探して、見付けて、ソドム教授に振り返る。


「ソドム教授は聖人を真に知っていらっしゃいますか?」

「門外漢なもので、はっきりとは。ただ、魔法が使えない様子からするに、とても恩寵を受けてらっしゃる」


 主からの加護、恩寵と呼ばれる『金』のエーテルは、他の色と相容れないものだ。聖人とは、内に秘めた御光が膨大で『テトラグマトン』を掲げる主の使徒である。


 神学生や牧師とは、土台が違う。ソドム教授はまた杖を回す。


「正式には私は……いえ、忘れてください。えっと、つまり……? 気付かれないよう音を立てず素早く解決するには、やはり『風の魔法』を使うべきなんですね?」


 確認する口振りである。ソドム教授は杖を再び回し、指を遊ばせる。


「他にもあると思いますがね……? また、なぜ? そのような物騒な覚えがおありで?」


 使い道は限られるだろうに、琥珀の瞳を真摯に輝かせる様は冗談の口振りではない。大真面目に用途を見出しているのだ。


「いえ、特には。私の疑問に答えてくださり、ありがとうございます。あ、テリトレーヴさんが私を探しちゃうかもなので、そろそろ」


 ぺこりと。優雅にお辞儀をするマリア。所作だけを見れば、深窓の令嬢そのものであるが。


「そうですか、お気をつけて」


 とたとた、足早に学寮に向いた足音。


「ああ、そうでした」


 教室の扉に手を掛けた所で、マリアはくるっと振り返った。華やかな所作に、太陽の笑顔、小さな背丈に白い肌。仄かに赤い頬と、透き通った唇。


 白い髪を引いて、マリアはソドム教授に告げる。


「私は信徒の一人として悪魔を罰したいのではなく、行いを問うておりました。いつも、いつも。それはきっと、私が誰よりも悪魔を知っているからです」


「そうですか、それは正しいのでしょうね」


「ええ、勿論。主はあらゆる影に御光を注ぐものです。ですので、今はこの問いを預けますね?」


 花のように咲って。それだけを言い残し、ちっちゃな問題児は明るい足音と共に教室を後にする。扉に消える背のなんと小さい事かと、ソドム教授は天井に憂いを手向ける。


 後には、甘いお香と、教卓で静かに頭痛を堪えながらこめかみを揉むソドム教授だけが講義室にぽつんとあった。


 彼は杖先を休め、誰もいなくなった事を好機とし、力みを吐息に任せた。


「これは……看破されましたかねぇ……?」


 口元を歪め、杖を回す。エーテルによって形作られた好青年は、主の御光を前に亀裂が走っていた。袖口に隠した傷跡を一瞥し、彼は肩に自然と入る力も抜いた。


 三つ揃えのなんと窮屈な事か、襟元に伸びそうな手を止めて思慮を巡らせる。


 今後の方針、それから、小さな聖人との付き合い方を。


「契約は契約、私もまたこの唯一の理に準じる他もなし……ですかね。あくまで『悪魔』ですからねぇ……困った困った」


 ぼやきは軽く、翡翠の香りに消えていく。

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