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窓辺


――敬虔な子であった。


 親はおらず、金もなし。その日その日の宿もなく、身を寄せ合う連れもそうはいなかった。


 静かに、楽しげな声を辿っていたように思う。家族の会話を、窓から眺めていたのだ。


 丘上、海辺に構えられた小さな町。潮風の通る小道では野良猫が丸まり、欠伸を伴って道行く人に擦り寄る。そうした長閑な町があった。


 孤児であったあの子は、何時だって、救いはあるだろうと信じていたようだ。それはどうも、幼いながらに『声』を耳にしていたからに他ならないだろう。


 孤児を助けた。悪魔が無数に降り立った、瓦礫の中で。


 あの海に近い町の一角、花売りが子連れに声を掛ける。そうした眩しい世界でも、裏道で野垂れ死にそうな孤児が存在するものだ。


 悪魔が跋扈すれば、身寄りなき少女は捨て置かれるものだろう。当然に。


「おや……来客かな」


 カレイル・フォン・ガーデン――辺境伯は思考を切り替え、襟を正すように身を整える。彼の穏やかな眼差しと、流行も知らぬとばかりに切られた髪は黒い。


 静かな眼差し、対するは、窓辺。


 風に靡くカーテンの隙間に、それは羽根を休めていた。勇ましく、美しい鳥である。カレイルと目が合っても、慌てるでもなく翼を丁寧に畳んでいた。


「……使い魔、ではないな。さて、なにか……」


 執務室を見渡せど、焼き菓子もない。あるのは数枚の書類と書籍ばかりだ。


「君をみると……マリアくんを思い出すな」


 机を指で叩き、思わぬ訪問客を見やる。使い魔でもなく、悪魔でもない。なんでもない白い鳥。


 彼が思い起こすマリアは、孤児であった。


 小さな拳で、悪魔にて滅んだ町を彷徨って、果てはこの町にまで歩んだ孤児。唯一の生き残り。


 友人らしき子を抱えて、ボロボロな裸足で、手は真っ赤で、当時のマリアは酷く痩せていた。


 それが、つい昨日の出来事にも思えた。


 カレイルの人生で凄惨な出来事は他にもあったが、あれでも、あんなにも酷くとも、美しいと感じたのは初めてであった。


 白い鳥が毛繕いする様子に、カレイルは瞬く。


 マリアは今や聖人だ。


 否、聖人であったのだろう。


 滅びた町の原因も、悪魔の目的はマリアであろうから。


 弱く、理を理解もしておらず、幼い聖人は利用価値が高いものだろう。正色教会の上層は腐敗している、とは言えない。


 寧ろ健全で潔癖だ。悪魔に対して温情を向け、手を差し伸べてすらいる。


 ならば、幼い少女の思いはどうなる。否。


「……私も歳か?」


 カレイルは机に並べた書類を一つ手に取り、もう一度瞼で雑念を拭った。


 なんにせよ。


 マリアは決して悪魔を許さず、然し同時に悪魔を忘れられない。行いこそに罪や罰が宿るならば、彼女の行いは律せねばならないのだろう。だが、確実にあの鉄拳は悪魔を滅ぼす為に振るわれる。


 悪魔と神の違いとは、なにか。それはきっと詳らかに語れば味気ない。


「……」


 カレイルはつい、神の正気に疑いの指を掛けそうになった。振り払う。当然に。


 論点は、マリアが悪魔に対して異常に執着する点だけである。


 きっと彼女はまた、学園でも悪魔を探し回っているのだろう。ならばそう、学園に棲む悪魔は大変に苦労をしているに相違ない。


 フォルカロルを筆頭に、悪魔であれば考えなしに直球であろうから。幸い、苦情は屋敷に届いてはいない。


「ふむ……」


 悪魔を滅ぼさんとしている。


 知っていて、学園に差し向けたのだから。


 必然的に、自己を蔑む言い訳こそ控えるべきである。カレイルは脳裏に走らせ、短く息を吐いた。


「……」


――ややもすれば、鳥は窓辺から発つ。


 カレイルの思惑は至極簡素、帝都の泰平だ。マリアは、諍いを好みはしない。悪道を赦さない。


 そして、聖人らしく強大な力を持っていた。小さな身体に収まらぬ程に。


 もし仮に、悪魔を見る度に傷付くのを知っていたとして、立場と損得を加味すれば『学園に送り込む』以外に選択し得ないものではある。


 カレイルの懸念は、親心にも似ている。


「さて、マリア。君は悪魔を、どうするのかな……?」


 机にひらひらと落ちる羽根を透かし、カレイルは言葉を青空に向けた。


――。


――――。


 魔徒(まと)には魔徒の掟があるように、魔女にも魔女の掟が存在する。なにも不思議な理ではない、隣合う者と手を取り合うには、線引きが必要であるだけの些末な話である。


 この学園に窓はないけれど、手持ち無沙汰になると目が壁を伝って探してしまうもので。黒猫が欠伸をし、魔女の太腿からすとんと降りた。


 マリアは、目の前で浮かぶ魔女を眺めるだけであった。仄かな珈琲の香りの中にあって、紫水晶の瞳は不機嫌そうに横に向いていた。


 唐突ではあった。


 自らに非があるのではないか、と、マリアは一通り思案したが、慮るにせよ理解が及ばない。


 魔女は急にむすっと黙って、宙に浮いているのだ。不機嫌そうになったから、料理を呑気に突っつくのも憚られている。


 察そうにも付き合いは短く、性格も掴めてはいないのだから首を傾げるしか道はない。当の魔女はズレたモノクルを指で弾き、尊大に宙でふんぞり返っているのだから尚更に。


 マリアの釈然としない顔に気付いたか、魔女は口元を緩めた。


「なに、そう頭を傾けるものではない。君は思うままにし給え」


 銀髪が揺れる。光を浴びた水面のようで、その水底を通さぬ姿だけがはっきりと分かる。そうして、海月に似た魔女がゴーレムを撫で見た。


「どうやら、私はなにかに巻き込まれたようだな」


 表情を切り取れば、随分と愉快そうであった。


 足元では薄く積もっていた埃が銀色の量子に掬われ、小さな渦を巻いている。魔女の銀は静かに、そして淡く。輪郭を曖昧にして、ゆらりゆらりと浮いている。


 騒々しい昼食時、食器が擦れる音や生徒の談笑、加えてゴーレムの歩む音。


 近場の学徒らは、一口大のパンを手にしたまま、食い入るように『異物』に意識を向けていた。


「ふ、風紀会(ふうきかい)だと?」

「友よ、少し距離を置くべきではないか?」

「しかしな友よ、好奇心には勝てんさ」

「いいや、引き際だ」


 二人の男子学生が距離を取る。


 ぞろぞろと、硬質な足音が生徒の波を不躾に割った。


 黒いローブの裾を広げ、時間に追われたように足早に歩む者達。


 忽ち、マリアと魔女は取り囲まれた。


「な、なんでしょう……?」


 マリアの問いに、集団は答えない。


 ぞろぞろと規律正しい足音に対し、魔女は酷く億劫でいて興味深そうにしていた。


 床より浮遊する魔女を取り囲むのは、黒いローブを羽織った者達だ。一様にかっちりと金具でローブを留め、髪は利発に切り揃え、革靴は汚れなく磨かれている。


 最上級生の装いだ。その中でも、背に掲げた『規律の証』は一握りの者達であるのを示している。


「『風紀会』がお出ましとは、些か穏やかではないな」


 黒いローブの背には『天秤』の徽章が縫われていた。彼等は魔女を取り囲み、飯処に広まる騒々しさを隔てる壁となっている。


 集まる視線、注目もなんのその、かっちりとした集団は魔女の仔細な動きにだけ注力していた。


 緊迫した空気に、魔女は器用にも空中で片肘を突く。片手には魔導書を携え、傍らに珈琲を踊らせ、側には美しきゴーレムを控えさせたままに魔女はくつくつと喉を鳴らした。


 男子学生、風紀委員会の一人が歩み出た。


「オリアナ・アクワリウス・トンプソン伯爵――貴公には生徒の拉致監禁の容疑がかけられている。なにか、弁明はあるか?」


 オリアナ・アクワリウス・トンプソン、魔女はマリアをちらっとゴーレムを確認してから肩を竦めた。


「さて、どうだろうな。私は知らんと述べはしないし、抵抗もしない。私は私を知るがゆえに、知り得る事に責任を持つべきでもある」


 魔女、オリアナは固まるマリアを安心させるように「中々に有意義な時間だったよ、小さな君」と付け加えた。銀髪は変わらず艶やかで、冷たい。


「え、あ、はい……」


 マリアは矢継ぎ早に進む現実にやや遅れ、風紀会と呼ばれた者達を見送るだけとなった。眺めるしか出来なかったのだ。


 決して、納得は出来ぬものの、厳格な空気で圧力を振り撒く者達へ口を挟めなかった。罪人である可能性と、部外者である自覚がある。


 更に言えば、マリアに覚えがあったからだ。


 聖人として、信徒として、似た経験があった。であれば必然、オリアナが犯した罪過に頭を悩ませるもので。


「……」


 辺りを見渡せど、他の生徒は声を潜めて目を逸らすばかり。マリアは冷めつつある食事を見詰めて、ゆったりと目を伏せた。


 答えは直ぐには出ない。無論、それはテーブル下をとたとた歩く黒猫も起因する。


「……そろそろ、喋ってはどうです?」


 黒猫は尻尾をゆらゆらさせ、空いた席を駆けるとテーブルに着地する。マリアの食事、魚の揚げ物を前に鼻をひくひくと動かしてから、平坦な琥珀の瞳にヒゲを揺らした。


 肉球がフミフミとして、喉をゴロゴロ鳴らしたか。


『先んじて申し上げますがね、種明かしが早う御座います《空気を読め小娘》』


 黒猫は大口を開け、欠伸を一つ。周囲の学徒の視線は不思議とない。勝手に魚の揚げ物を齧り、自らの懐に引き寄せた。咀嚼して、片足を魚に預けた。


「魔女さんを貶めたのですか」


『吾輩が? なにゆえ? なんの利と得がありましょう?』


「損得ですか」


『おや、意外です?《馬鹿にしてません?》』


「いえ、悪魔ならそうですよね」


『吾輩は利のない悪戯も企ても致しませんとも、あ、神に誓って』


 黒猫は悠然と尻尾をふりふり。魚の強奪も終え、上品に毛繕いを始めるその姿は、嘗てマリアが目にした野良猫とは違う。錆びた鉄や、消えたばかりの蝋燭の如く不吉を纏っている。


『利害の絡まぬ契約は致しません、あ、神に誓って。フロイライン? 吾輩とて全能でもなければ全知足り得ないのです』


 黒猫はふと、風紀会がオリアナを連れ去った方向に鼻先を向けた。厳格な者らの足音は既に遠く、食堂には再び日常の雑音が戻りつつある。


 依然、オリアナが漂わせていた微かな銀色の粒子がこの場に漂っていた。空気中に滲むエーテルを見透かせば、鼻先を睨む女の子に戻すのだ。


 愛らしい猫をこうも厳しく睨むのには訳がある。マリアからすれば悪魔は悪魔であるからだ。


「つまり、知らないのですね?」


 黒猫はにゃあ、と鳴いた。マリアのパンを掠め取ると、満足げに尾を遊ばせているではないか。


『カレイル辺境伯――彼は随分と回りくどいことをなさりますね。あゝ、マリア、この学園に放り込まれた意味、そして魔女が拉致を疑われるような状況でさえ……それら全てが、これから起こる必然に向かうのでありましょう』


 マリアは無意識に握り固めていた拳から力を抜き、溜息を一つ。


 カレイルの懸念、聖人としての己の立ち位置、そして正に目の前で罪過を問われた魔女。


 悪魔の嘲笑を前にして、魔女の太腿に乗っていた事を思い出していた。


「魔女の味方ではないのですね……?」


『吾輩が? 味方? 誰の? 人と? はっはっはっ、傑作です。単位を差し上げたい程ですとも? まあ? 吾輩は人ではなく契約の味方ではありますがね』


 黒猫はそう言い捨てると、軽やかにテーブルから飛び降りた。床に音も立てず、そのまま人混みの中へと溶け込んでいく。


 声が響く。マリアの鼓膜にねっとりとへばり付く声だ。女とも男とも断言させない、歪な声色。


『努々、忘れてはなりませんよ、フロイライン。吾輩はなんら関係がなく、吾輩はなんら味方に非ず、吾輩はなんら敵に非ず、あくまで悪魔なんですから』


 マリアが独り残された食堂で、冷めた珈琲の香りが強くなった気がした。


 風紀会に連行された銀の魔女はどうにも脳裏から離れない。最後に残した言葉。それは、マリアに対して向けられた助言だったのか、それとも別の布石だったのか。


 マリアは空になった皿を重ね、静かに立ち上がる。


 学園という名の箱庭で、中心に立つ自分自身の足元で、何かが静かに、けれど確実に動き出しているのを肌で感じていた。


 争いを好まぬ聖人が、戦わねばならぬ理の前に立たされている。とでも言い回せば誠実な信徒であれるだろうけれど、小さな彼女の頭にあるのはどう悪魔をぶん殴るかにあった。


「むう……」


 あの日の町と同じように、穏やかな風が吹き抜けていれば気は変わったのだろうか。否、悪魔は絶対にぶん殴る。


 正悪も、有るに非ずも関係はない。困ったら一発殴って、それから祈るのみである。

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