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十月二十五日 『最後の審判』まであと六日――其の弐

 いつから人の意見を素直に聞くことができるようになったのだろう。

 夜、自宅のリビングで天井を見上げながら独り想う。


 かつての俺は、人生にテーマなんてものを掲げていた頃の俺は、他人の意見に耳を貸すことなんてなかった。他人を否定しない俺は、他人の否定を無視し続けていた。自分と違う意見を持つ奴を、あいつはそういう奴だから、と自分を納得させて拒絶していた。

 だから、俺は孤独だった。

 いや、違う。

 俺は孤独じゃなかった。安食がいたから。彼女がいたから俺は独りぼっちではなかった。友達がいた。


 俺は、彼女と出会って人生のテーマを捨ててしまったのだ。

 他人を否定しない、はずなのに、安食とは何度も喧嘩した。

 彼女の掲げる理想と、俺が語る現実の間で、俺たちはいつも争っていた。

 どうして安食を拒絶できなかったのだろう。あるいは、どうして最後まで安食に付き添うことができなかったのだろう。俺なんかが中途半端に関わってしまったせいで、安食は、バオバブは……。


 缶のプルタブを開けて、発泡酒をひと口。胸の裡に沸き上がった罪悪感と一緒に飲み下したつもりだった。舌を苛む苦さはどちらのものだろう、なんて思考を微酔に浮かべながら。

 缶の中身を飲み干したころ、急に視界が揺れた。唐突に酔いが回ってきた感覚。疲れているのだろうと、考えるまでもなくわかった。ダイニングの椅子に全体重を預け、また、天井を見ていた。

 天井は白いままだった。煙草は一度喫ってみたことがあるけど趣味ではなかった。いや、瑞樹に止められたのだったか……。


 ふと思い出して、瑞樹に電話をかけてみた。酔っていたからできたことだと思う。アルコールの勢いがなければ、彼女に電話をかけることなんてできるはずがない。


 結論から言って、瑞樹は電話には出なかった。

 呼び出し音が、いつまでも虚しく鳴る。一分もすれば俺は諦めて、スマートフォンを机の上に投げ出した。瑞樹が電話に出ないことを悲しく思う自分がいる反面、そのことに安堵している自分も確かにいた。


 なんとなく、安食のことを想った。

 それは瑞樹のことをこれ以上考えたくなかったからかもしれないし、最近、バオバブのせいで昔を思い出す機会が多かったからかもしれない。

 十年近く、思い出さないようにしていた顔だった。胸が苦しくなるから。それでも彼女のことを想ったのは、酒と、隕石のせいだ。


 もうすぐ終わる、かもしれない世界の片隅で、彼女はなにをしているのだろうか。

 相も変わらず世界をよくしようとしているのだろうか。本気でそんなことができると思って。


 安食はきっと、世界が終わるなんて思っていないのだろう。楽観的で、ある種逃避的な思考をしがちな彼女だった。だから、世界が終わるなんて露ほども思っていなくて、ただ、この混乱に乗じて日本を乗っ取ろうとしている。

 世界をひっくり返そうとしている。バオバブの木のように。

 そんな奴、だっただろうか。

 思い出そうとして、愕然とした。


「……安食?」


 彼女が、いない。

 俺の頭の中に、彼女がいない。

 思い出せない。

 十年経った。十年前のことだ。詳細を思い出せないのは当たり前のことかもしれない。


 だけど、それは俺にとって当たり前のことではなかった。

 俺にとって十年前は、あの時期は、人生で最も熱を感じていた時期で……俺の人生のすべてのはずだから。


 脳が端っこからじわじわと腐っていくような感覚があった。

 消えていく。

 安食が俺の中から消えていく。

 危機感に、襲われた。

 取り戻さなければ、彼女を、俺の人生を。

 そう思って搔き集めても、彼女との記憶は茫洋として、端々を思い出すことはできても、すべてを想起することはできなくなっていた。

 世界をよくするために駆け抜けたあの日々が、俺の記憶から、春風に浚われた花びらのように、指先から零れ、すり抜けていく。


「安食」


 呼びかけても、当然のように返事はない。

 仕事に喜びを見出せず、恋人を失うことに痛みも感じることもなく、世界なんて終わってしまっていいと思ったまま、時だけが刻々と過ぎていく。

 世界をよくしたいなんて思えず、そもそもよい世界がなんなのかすらもうわからない。

 安食の語る、空に絵を描くような理想をもう二度と聞くことがないまま、世界が終わってしまう。

 終わるかも、まだわからないのだけど。


『誰も傷つかない世界を作りたい』


 安食がそんなことを言っていた。

 そのために、安食はテロルを選んだ。結果、瑞樹の顔に癒えない傷がついた。


『世界をよくする』


 世界は終わる。そうでなくとも、暴力で世界を変えることをお前は望まなかったはずだ。


『できないことなんてない。間に合わないことなんてない。だって私たちは生きてるんだから』


 また、安食の言葉がリフレインする。

 いや、果たして、彼女は本当にこんなことを言っていただろうか。

 もう、記憶もあやふやだ。


「安食……お前、世界をどうしたいんだよ」


 彼女なら、世界を変えることだってできると思っていた。若くて愚かな俺は、本気でそれを信じていた。

 いつか、小さくても、少しでも、世界をよくできるんだって。

 信じていた、のに。


『大丈夫。なんだってできるよ。私たち最強だもん』


 記憶の中の彼女は笑顔だ。

 だけど、彼女の笑顔以外の表情が思い出せない。

 世に溢れる理不尽に怒り、甘い食べ物に喜び、自らに向けられた侮言に悲しんでいたはずの彼女の表情が、もう、幽かにしか。


 それは、俺が逃げてしまったからだ。

 安食の理想と現実のすり合わせを担っていた俺がバオバブの辞めてしまったから、バオバブはテロ組織になってしまった。安食もテロリストになってしまった。

 世界をよくすること、ではなく、世界を変えることに主眼を置くようになってしまった。

 俺がいれば。

 なんて、そんな傲慢なことを思って、すぐにそんな自分を恥じた。


「間に合わないことなんてない……か」


 時刻は、もうすぐ十二時を回りそうになっていた。

 つまり、エニグマ接近まで、もうすぐであと五日になるということ。


「俺たちが、揃えば、なんだってできる」


 呂律の回らない舌を動かし、口にすると、不思議と身体が熱を持った。酔っぱらい過ぎだ、と思う反面、その熱がどちらなのか、俺は瞬時に断定することができなかった。じわりと目の端に浮かぶ熱を気のせいだと処理して、シャワーを浴びる。


 寝る前にスマートフォンを確認したが、瑞樹から折り返しの連絡はなかった。不意に思い立ってスマートフォンに記録された連絡先を引っ張り出してみたが、安食のそれはなかった。以前買い替えたときに、データを移すのをサボったせいだろう。

 俺は、安食との繋がりを完全に失っていた。そしてそのことに、今さら気付いたのだった。


 エニグマ最接近まで、もうすぐあと五日。

 その夜、俺は安食と話す夢を見て、また泣いた。

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