十月二十五日 『最後の審判』まであと六日――其の壱
泣き喚くような目覚まし時計の音に、意識が闇の中から掬い上げられる。瞼を薄く開けると、真っ白な光が視界を埋め尽くした。
細めた目が光に慣れるにつれ、天井が見えてきた。住み慣れた部屋の天井。俺は腕だけを動かして、目覚まし時計を止めた。少し微睡を楽しんでから文字盤に視線を向けると、時計の針は七時過ぎを示していた。
瑞樹の入院している病院を後にしてから数時間経っている。それでも、彼女の顔に張り付いた能面のような無表情は鮮明に思い出すことができた。
別れの言葉はなかったけど、きっとそういうことなのだと思う。そのことに多少なりともショックを受けることができる自分に、俺は驚いていた。
ベッドから抜け出して洗面所で歯を磨く。まだ、部屋のそこかしこに彼女の痕跡が残っている。それらひとつひとつをまんじりともせず眺めた。愁いを吐き出すようにうがいをして、キッチンに足を運ぶ。しかし、自分ひとりのために朝食を作る気分にはなれず、インスタントのコーヒーだけを淹れてダイニングにUターンした。
時計を見て家を出るまでの時間を逆算しながらテレビを点ける。
『……の暴動は日没まで続き、最終的には機動隊によって鎮圧されました。「エニグマ」接近まで残り六日となった本日未明、連日各地で続く暴動に際し、防衛大臣は自衛隊の派遣を検討していると発表し……』
テレビを消した。
身体が水分を求めている気がしてカップを傾けた。しかし、それでは渇きは癒されなかった。
包帯を巻かれた瑞樹の顔、テロリストとなってしまった安食との思い出、最後の審判までまた一日の時間が過ぎ去ってしまったという事実、それらがすべて一体となって俺の精神を蝕んでくる。
頭を振って邪念を追い払い、いつの間にか温くなっていたコーヒーをひと息に飲み干した。それからスーツに着替え、部屋を出る。エントランスまで下りてから鍵をかけ忘れたことに気が付いたが、戻る気分にはなれなかったのでそのまま放置することにした。
駅まで歩いて十五分。ここから電車ではなくバスに乗って移動する。
駅には制服を着た学生や、俺と同じスーツを着た社会人たちが行き交っていた。一見したところ、彼らからあと数日で世界が終わるという悲壮感は伝わってこなかった。
俺はスマートフォンを操作し、ニュースサイトを開く。一年前まではどこかの芸能人のゴシップばかり掲載していたそのサイトも、今ではエニグマのことばかりだった。そしてその多くが、政府や専門機関が「エニグマが衝突する可能性はごく低いので、噂に惑わされず冷静な判断をしてほしい」と訴えているものだった。
ここ最近のニュースは基本的にそんなものばかりだ。世界の終わりが近付いたことで、逆に世界は停滞してしまった。そのことについて、特にどうこう思うことはない。
しばらくそんな風にニュースを眺めていて、ふと「おや」と思った。バスが遅れている。もう十五分以上も。始発のこの駅で十五分も遅れているのは普通ではないし、これ以上遅れられると始業に間に合わなくなってしまう。学生が遅刻するならまだしも、教員が遅刻するのはよろしくない。
どうしたものかと思ってそれらしいワードを検索窓に入れると、すぐに原因がわかった。
「ストライキかよ」
バスの運転手がストライキを起こしたらしい。理由は、要約するとエニグマに遠因を持つものだった。
ストライキというものを、俺は日本で初めて経験したかもしれない。
俺は溜め息をひとつ吐いて、まず教頭に連絡を取る。ストライキに関しては、既に教頭も了承しているところではあった。今日のところは遅刻してもいいから、なんとか学校に来てほしいと告げられた。
俺は礼儀正しく了承の意を伝えて、慇懃に電話を切る。それから、もうひとつ溜め息を吐いて学校の方向に爪先を向けた。タクシーを使うという手は頭にあったが、遅刻してもいいと言われたから遅れて出勤するつもりだった。
駅前の大通りをゆっくりと南下していく。スニーカーを履いてくればよかった、と途中で思って、それから、やっぱり革靴でよかったと思った。革靴の方が音が楽しい。
駅から学校までは一時間ほどの道のりだ。余裕かと思っていたが、学校に到着する頃には、身体はずっしりと重たくなっていた。いつまでも若くいることはできないのだな、と二十八にもなって実感する。
時計を見ると、始業から五十分弱の遅刻だった。職員室に入って、教頭に頭を下げる。それからデスクに荷物を下ろしてネクタイを緩めていると、後ろから肩を叩かれた。
振り向くと、飯島先生が立っている。
「おはよう、寺島先生。重役出勤ね」
「重役ですからね」
「あら、まだルーキーだと思っていたのに、いつの間に」
「いや、ルーキーではないでしょ。でも、まあ、遅刻してすみません」
「事情が事情だし仕方ないと思うわ。教頭に連絡を入れてたのもポイント高い」
「それくらい、大人として普通でしょ」
「その普通を無視して無断欠勤してる教員の、なんと多いことかって感じよね」
飯島先生は意味ありげに視線を教室の四方に巡らせる。
「もしも隕石が落ちてこなかったら、無断欠勤してる先生方はどうするのかしらね? 素知らぬ顔でまたしれっと出勤してきたら、逆に手を叩いて笑ってあげるのだけど」
「飯島先生は授業は大丈夫なんですか? 遅刻しといてこんなこと訊くのもあれですけど」
「バスのストライキで学校に来れなくなったのは、寺島先生だけじゃない。生徒のほとんどが登校できてないわ。だから、校長が今日は自由登校ということにしたの。授業も各学年をひとつのクラスに纏めてやってる。今は非番ってわけ。あ、寺島先生は、三限目から三年の英語の授業担当ね」
「了解です」
「それから、今朝の会議で決まったことだけど、明日からはこの学校も臨時休校ということになったから。さすがに学生の足がないんじゃあね」
「学校に在中する教員の当番は?」
「それもなし。最後の審判が過ぎるまで、生徒も教員も完全に自由の身よ。長期休暇だと思って羽根を伸ばすといいって、校長からありがたい言葉をいただいたわ」
「そりゃあ、ありがたい」
飯島先生はシアトリカルに肩を竦めた。
「そういえば、昨日の電話は? 彼女さん、大丈夫だったの?」
一瞬表情が固まった自覚があった。
それから、なんでもない表情を作って偽った。飯島先生を、そして自分を。
「大丈夫ではありませんでしたね。顔をやられちゃったみたいで。痕も残るみたいです」
「それは……」
「しかも、俺が色々デリカシーないこと言っちゃったせいで、フラれちゃいました」
「寺島先生が? そういうタイプには見えないけど」
「意外と甘えちゃうタイプなんですよ、俺。彼女の度量に甘えちゃいました。まあ、フラれたって言っても、言葉にされたわけじゃないんですけどね。でも、ま、顔見ればわかりました。だから、厳密には、フラれるまで秒読みって感じですかね」
言葉は軽々に、するすると出てくる。自分でも不思議な気分だった。
そして、飯島先生も不審そうな顔をしていた。俺が、恋人を失った話を世間話のようにしていることに困惑しているのだろう。困惑しても、口を余計な口を挟んでこないところは、彼女が大人たる所以なのかもしれない。
そういう彼女の大人っぽさみたいなものに、俺はまた、甘えてしまっている。
「すみません。こんな話、興味ないですよね」
「まあ、ぶっちゃけ興味はないわね」
「ぶっちゃけましたね」
「状況がよく理解できないのだけど、フラれたわけじゃないなら、まだすべてを投げ捨てる必要はないんじゃない? とりあえず男が謝っとけ、なんて中身のないことを言うつもりはないけど、どうせすぐに全部終わるんだと思って、彼女さんとの関係の修復に努めてみたら?」
「謝るとか、そういう問題でもないんですよね。向こうが俺を許せるかどうかって問題でしかなくて……難しいんですけど」
「ふぅん」
「飯島先生は、エニグマが落ちてくるかどうか、半々だと思ってるって言ってましたよね?」
「言ったわね」
「もし世界が六日後に終わるなら、飯島先生は思い切って行動するタイプですか? 天国に後悔を持ち込まないために、的な」
俺の急な質問に、飯島先生は顎に指を当てて考えるようにした。
「まあ、普通はそうするものだと思ってたけど、でもそれって考えてもみれば、創作物の影響よね。たしかに、もし世界が終わるなら、なにもかも、なにをしても無為になるってことで、思い切って行動する意味もない、って言う考え方があるのも理解できるかも」
「ですよね」
「どうもこれは、宗教観の話になりそうね。死後の世界があるなら、つまり、肉体が死んだ後も精神が別の世界で生き続けるなら、肉体があるうちにこの世界でしかできないことをやっておきたいと思うのは不自然じゃない。逆に、死んだらすべてが無に帰すなら、なにをやっても無駄ということになる」
ふと自分たちを俯瞰して、いい大人が雁首揃えて哲学的な命題を突き合わせている現状に、いくばくかの気恥ずかしさを感じた。
そういう議論は、人生に熱を感じている人間がやることだ。
再三言うように、俺の熱はもう過ぎ去ってしまったし、飯島先生も、俺の所見ではそのタイプだった。
「でも」
と、飯島先生は言う。
「それって隕石が落ちてこようとこまいと、同じことじゃないかしら?」
「同じ、ですか?」
「そう、同じ。だって人はいつか死ぬでしょう? 隕石が落ちてこなくても。誰だっていつかは死ぬ。どうせ死ぬならなにやっても無駄っていう理論は、人はどうせ死ぬんだから生まれた瞬間に死ぬのが一番効率的って言ってるようなものじゃない」
「それは極論じゃないですか?」
「極端にしたときに破綻したら、それは理論とは呼べないのよ」
理系の学徒みたいなことを、言う。社会科の教員のくせに。
「それに対して、死ぬまでにやりたいことをやる派閥は、人間はいつか死ぬからいつだってやりたいことをやろうって言ってるようなもので……ん? これはこれで社会的に問題のある考え方ね」
「………」
「ま、結論として、何事も中庸がいいということね。人道に正解はないけど、間違いもない。唯一間違いがあるとすれば、それはどちらかに極端に振り切れてしまったときだけ。道は真ん中を歩くものだから」
と、飯島先生は話を纏めた。
「はあ……なんというか、さすがですね」
「なにが?」
「教師に諭されてる気分でした。俺も教師なのに。同じ教師でも、俺にはそんな説法は到底できませんよ。職歴が違うと実力に差が出るものなんですね」
「わかりやすいおべっかありがと」
おべっかでもなかったのだけど、飯島先生は俺の肩を少し強めに叩いて去っていった。その仄かな痛みの感触が、じわりと残留する。
道は真ん中を歩くもの。
その通りだ。
そして、俺は道を外れてしまった友人の存在を知っている。彼女は今、どこでなにをしているのだろうか。
ふと、そんなことを思った。




