仰げばなお青し
初めて障碍者福祉のシンポジウムに参加して以来、世界をよくするための足掛かりと称して、俺たちは様々な場所に出かけた。
具体的には、戦場カメラマンの個展に行ってみたり、いじめ専門のカウンセラーの講演会に行ってみたり。
誘ってくるのはいつも安食で、その日はふたりで精神病についてのドキュメンタリー映画を観に行っていた。終わってからの帰り道、テキトウなカフェに入って、映画の感想を交え、話が雑談へと移行しそうな段階で、俺はふと安食に訊いてみた。
「安食は世界をよくするって言うけどさ、それって具体的に、世界をどうしたいとか決まってるのか?」
彼女の見据える未来を、俺は知っておきたかった。
同時に、俺は少し、彼女が将来について明確なビジョンを持っていないのではないかと疑っていた。もしそうなら、実現可能な未来をこの場で構築してほしいと思っていた。
写真展、講演会、映画鑑賞。目的だけが高尚でも、やっていることは遊んでいるだけにすぎない。手広くやり過ぎていた。世界平和を達成するために、まずは戦争の根絶だけに的を絞るとか、そういうことをするべきだというのが、俺の意見だった。
しかし、それが安食の安食たる所以で、彼女は俺の想像の斜め上の回答を提示した。
「もちろん、世界の平和だよ。それも恒久的な。戦争のない世界を作るだけじゃなくて、戦争の生まれない世界を作りたい。それから、いじめもなくしたいし、差別もなくしたい。これも恒久的にね」
「ああ、そう、なるほどね」
俺の人生のテーマは、他人を否定しないこと。
だから、俺は彼女の意見を否定しないように言葉を構築する。
「とはいえ、全部を一気にとはいかないだろ? 戦争、いじめ、差別、その他諸々。安食は、まずはどの問題に着手したいと思ってるんだ?」
「難しいことを訊くね」
安食は真剣に考えるようにした。そういう時に、彼女は自分の耳朶を触る。そういう癖を知るくらいの時間を、俺は彼女と過ごしていた。
「私は、人と人との間にある問題はすべて同じなにかに起因していると思う。戦争も、いじめも、差別も……全部、人と人とを争わせる、個々人の心に問題があるんだと思う。私の最初の目標はまだ決まってないけど、最後の目標は、その心の病巣の根絶にあると思うな」
「心、ね……」
「難しいのはわかってる。だけど、不可能じゃないと思うの。だから、講演会に参加したり、映画を見たり、知識を増やすことって絶対に無駄にならないと思う。苦しんでる人の存在を知らなければ、その人のことを助けられないから。今日知ったことを、私や紅葉が、いつかどこかで活かす日が来るかもしれない」
誤魔化しの一切ない口調で安食は言った。
彼女は勘違いしている。不可能じゃないと唱えれば、どんなことでも不可能じゃなくなると思い込んでいる。人類の心の在り方を変えることが可能だと、彼女は本気で信じ込んでいる。そんなことは絶対に不可能なのに。
そして、俺も勘違いしていた。理想という言葉の意味をはき違えていた。彼女の理想は理想であり、地に足をつけることをよしとせず、叶う叶わないにかかわらず、どこまでも大きく空へと羽ばたいている。
理想とは、本来はそうであるべきなのだろう。現実的じゃないなんて、当たり前だ。理想と現実は対義語なのだから。
「ガラスの家に住む者は、石を投げてはならない……か」
「急にどうしたの?」
「そういう諺があるんだよ。ガラスの家に住む人間が、他人に石を投げてみる。すると石を投げ返されて、家はすぐに粉々になる。言い換えて、『他人の欠点を責めてはいけない。なぜなら、自分にも同じ欠点があるはずだから』っていう戒めなわけ」
「えっと……つまり、私のことを言ってる?」
「そういう自覚があるのか?」
「ないこともないかな」
安食は困ったように頬を掻いた。どうやら彼女は俺の言葉を自分への非難だと受け取ったらしい。それでも彼女の表情に、俺への敵意はなかった。自分の理想を貶されたと思ったなら、人は憤るべきなのに。
どうにしろ、それは誤解だった。
「逆だよ」
「逆?」
安食が首を傾げる。
「お前には石を投げる権利があると思う。お前はガラスの家に住んでないから」
安食はまた、反対方向に首を傾げた。
「まあ、そりゃあ、私の家はコンクリートのアパートだからね」
「お前、鈍いなぁ」
「よく言われるんだよね、それ。私ってそんなに鈍いかな?」
俺はニヒルな笑顔を作って、コーヒーをひと口啜った。
恨みや辛み、敵意なんてものを心の底から持たないお前だけが、世界からそれらを消すことができるのかもしれない、なんて、そんなむず痒いこと、まだ十代だった俺の口からストレートに言えるはずがなかった。
きっとこの時だと思う。俺が安食との関係を決めたのは。彼女にとっての俺、という存在の意義を俺の中で定めたのは。
俺は、彼女の理想と現実との橋渡しになろうと思った。理想を追いかける彼女が、今後、現実とのギャップに苦しむことは容易に想像できたから、その間に立って、彼女が世界をよくする手伝いをできたらと思うようになった。空を見上げるあまり足元の石に躓かないように彼女を支える。それが俺の役目なのだと思った。
仄かに、しかし確かに、胸の裡に熱が灯ったのを感じていた。
「そういえば、あれはどうなった?」
「あれって?」
「頼んでおいたじゃん。私たちの名前。活動名、っていうか……団体名? 考えておいてって言ったよね」
「ああ、それね。言ってたな、そんなこと」
「まさか、考えてなかったの?」
「まさか」
「じゃあ、考えてあるの?」
「それこそまさか」
「え、どっち? 考えてあるの? ないの? どっちなの?」
「今から考える」
「じゃあ、考えてないんじゃんっ。ねえ、テキトウに決めないでよ? いや、マジで。世界を変える組織だからね。名前の重要性は今さら説くまでもないでしょ? 意味のない名づけなんて論外だからね」
気色ばむ彼女に俺は手を払いながら、「じゃあ、世界を逆さまにひっくり返すのが目的って意味で」と言って彼女の鞄から覗く『星の王子さま』を指さした。
「バオバブ」
俺たちの関係に名前が付くと、なぜか絆が深まった気がした。
そして俺の決意も深まった気がした。
彼女と共に世界をよくしよう、と、そんな熱が身を焦がすほどに内側で燃えていた。安食のことを笑えないほど、俺も痛々しい人間だった。その痛みが、また、当時の俺にとっては心地好いものだったのだ。
彼女の理想と現実の橋渡しをする。二十八歳になった今、その役目を、俺はもう果たしていない。




