十月二十四日 『最後の審判』まであと七日――其の肆
秋の日は釣瓶落とし。
病院に到着したころには、すっかり夜になっていた。頭上には、僅かに星が瞬いている。秋の星座を探すこともなく、俺は病院に足を踏み入れた。
まずは総合受付で病室を確認する。
面会時間はとっくに過ぎているようだったが、話は通してあるのか、自分の名前と瑞樹の名前を告げると簡単に病室を教えてくれた。
「301号室です」
「ありがとうございます」
社交的な笑みを返して、案内板を確認。
それからエレベーターで三階へ。廊下に出ると、病院特有の静けさがあった。それから、過剰なまでに清潔な匂い。今さらになって、自分の恋人が病院に運び込まれたという事実が心に追いつく。
廊下の一番奥が301号室だった。
外のネームプレートにはたしかに『舞元瑞樹』と綺麗な字で書かれている。
なんとなくネクタイの位置を直してから、ノックを三回。
「どうぞ」
ドア越しに聞こえてきたのは、瑞樹の声だった。少し沈み込んだような、瑞樹の声。
あまり音のしないスライドドアを開ける。
病室は個室で、広くはないが狭くもない空間だった。真っ白な部屋を真っ白な電灯が照らし、世界が白く溶けてしまうような錯覚を得る。
瑞樹は、ベッドの上で身体を起こして座っていた。
ただ、俺はすぐに彼女が瑞樹だとは気付けなかった。顔の半分を包帯でぐるぐる巻きにされているからだ。光を僅かに失ったような彼女の片眼が、俺を捉えた。俺はどういう表情をしていいのかわからず、無表情を顔面に張り付けていた。
数瞬の沈黙のあと、瑞樹は破顔する。
「もう、いつまでそこに立ってるの? 早くドア閉めてよ、恥ずかしい」
「……ああ、ごめん」
ドアを閉めて、病室に一歩踏み出す。
俺は真っ直ぐと彼女に向かって歩いて、ベッドの横にあった丸椅子に腰を下ろした。
「えっと、俺に電話くれた人は?」
「彼女の心配より先にそれぇ?」
「ああ、悪い」
「ホントに悪いと思ってる?」
「ぶっちゃけると、思ってない」
「サイテー」
瑞樹は苦笑した。そしてその表情を苦痛に歪めた。傷に障ったのだろう。
「桜井先輩は仕事に戻ったみたい。今、警察って最高に忙しいから、同僚の見舞いなんてしてる暇ないんだよね。デモとかテロとかで大忙しだし、あたしとしても、こっちに構う暇があるなら仕事片付けてーって感じ」
「寂しいな」
「寂しくないよ。紅葉が来てくれたし」
瑞樹はふっと、窓の外に視線をくれた。
三階の窓だから、それほど眺望は良くない。幹線道路を走る車のヘッドライトと向かいに立つ無表情なビルがひとつ見えるだけだ。だが、瑞樹が見ていたのは風景ではなく、街そのものだったのかもしれない。
いつだったか、瑞樹に警察官になった理由を訊いたことがある。
答えは単純だった。ただの憧れ。
弱者の味方になり、善人の利益を守りたいと、そんな正義の味方に憧れる子供みたいな青臭いことを彼女は言っていた。
「隕石さ、落ちないよね?」
「……急にどうした?」
瑞樹は再び俺を見た。
その、いつだって正義に燃えていた彼女の瞳の中に翳る、淀み。それは、正しいと思って邁進した道の先に隘路を見つけてしまった人間の眼。絶望。大人なら誰でも知っている、それを知って人は大人になるとすら言える、ありふれた、夢の結末。
市民を守るために警察官になった彼女が、その市民に傷付けられた。その心境は、俺ごときでは計り知れない。計り知れないが、しかし、目を見ればある程度はわかる。察することができる。
ああ、消える。彼女の火が消える。熱が……熱が冷めてしまう。
「エニグマ、落ちてこないよね?」
繰り返し、同じ質問。
「落ちてこないよ。当たり前だろ」
「そう、だよね」
瑞樹はなぜか、少しだけ残念そうな顔をした。半分の顔で。
そしてまた傷が痛んだのか、小さく呻き声を上げる。それは引き攣るような心の悲鳴にも聞こえた。
「ブサイクな顔でしょ?」
瑞樹は自嘲的に言う。
俺は本心かどうかもわからず、ただ、大人として積み上げてきた体面として首を振った。
「そんなことない」
「そんなことないことない……って言っても頷くわけないか。紅葉、意外と気にしぃだし。そもそも傷、見てないもんね」
「……酷いのか?」
怪我が、という言葉を省略した。
瑞樹は頷いたともそうでないともとれるような動かし方で首を縦に振った。
「一応、目はやられてないけど、痕は残るみたい。額から頬にかけて、ズバッとね。蚯蚓腫れみたいな線が残るだろうって、先生は言ってた」
先生、というのは医者のことだと解釈した。一応、というのは眼球に傷がなくてよかったとは思っていないということだと解釈した。
「デモ隊と衝突したって?」
「うん」
「殴られたのか?」
「切り付けられた。ナイフで。掠っただけだけど、スパッといったね。素人は困るよ。やたらめったら振り回すんだもん。突いた方がいいのに。でも、お陰で生きてる。ラッキーってやつかな」
「そいつは?」
「そいつって?」
「瑞樹を……切り付けた奴」
「取り押さえた。桜井先輩がね」
「そっか……」
「うん。そう」
ひょっとして自分で捕まえたかったのではないかと瑞樹の表情を伺ったけど、別段そういう雰囲気はなかった。
そういう熱意は、彼女にはもうなかった。
「デモって武器とか持ち出していいんだっけ?」
「そもそもデモじゃないんだよ、あれは。日本ではデモを起こすには事前に警察の許可を取らなきゃいけないの。あれは無許可。だから、暴動だよ。もしくは……テロ」
「テロ、ね……向こうさんはなんだって暴れ回ってたわけ?」
「今、日本って外国人の流入を絞ってるでしょ? 移民の受け入れを事実的に完全にシャットアウトしてる。世界的に不安定な時期だし、テロも流行ってるし、外からの脅威を警戒する政府の方針も理解はできるけど……そうは思わない人もいるみたい。リベラリズムって言うのかな? 外国が大変な今だからこそ、もっと移民を受け入れるべきだっていうのが、あいつらの主張」
あいつら、という言葉に隠し切れない敵意の色が見て取れた。
仮にも市民に対して、警察官が敵意を滲ませている。
「なんでもないときだったらまだしも、エニグマが近付いてるってときにそんな活動してる奴らがいるのか? よほど暇なんだな」
「落ちてくると思ってないんでしょ、あいつらは。絶対に落ちてくるわけがないと思い込んでるし、それを他人にも押し付けてる。馬鹿みたいに楽観的で、現実が見えてない。そういう集団だよ」
馬鹿みたいに楽観的で、現実が見えていない。
その言葉が耳の奥で何度もリフレインする。違和感が臓腑を満たして、血管に溶けて、全身を巡る。
「もしかして……暴動を起こしたのって、バオバブ?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
血潮が逆流したのかと思った。
バオバブ。連日テレビでも報道されているテロ組織。一年ほど前までは小さな活動団体だったのに、ここ最近ひと息に勢力を伸ばした、日本最大のテロ勢力。
それが、俺の恋人である瑞樹を傷付けた。
一生癒えない傷を顔に。
指先が、震える。
「日本を乗っ取って、国家を足掛かりに世界を変える。それが目的なんだっけ? 壮大すぎて笑えちゃうよね。それを実行に移そうとしてるんだから、本当に笑えちゃう。なんだっけ、バオバブのスローガン。なんか、怪しいカルト宗教みたいな」
バオバブについて語る瑞樹は軽佻浮薄な口調で、しかし醜いものを蔑むような視線で病室の虚空を見ていた。
「……世界をよくする」
俺は呟くように答える。
この言葉を、久しぶりに口にした。
「そうだ。それだ。さすがに、漠然としすぎてるよね。できるだけ多くの人間の共感を呼びかけるためなのかもしれないけど」
胸にチクリと棘を刺されたような痛みが走った。思わず身を捩るが、不快感は身体から抜けていかない。
普段の俺なら。
普段の俺なら、確実に瑞樹に同調するような言葉を発することができた。大人になってしまったから、考えなくても相手に阿ることができたはずだった。
しかしそれはできなかった。
なぜなら……なぜなら。
「………」
ふと、瑞樹に話そうと思った。
この事実を隠しておくのは恋人に対する不貞だと思った、からではない。単純に、俺がその重荷に耐えられなくなっていたからだ。いつか決定的なことが起こる前に、自分から教えておかなければならない。
瑞樹に話す。
そう決意したはいいものの、口の中が嫌に乾燥していて、声が上手く出なかった。
唾液で口内を少し湿らせる。瑞樹がこちらを見たタイミングで、「あのさ」と切り出すことにした。
彼女は片方の目を開いて返事をする。なに? と。
「ちょっと、真面目な話がある」
「今までの話はふざけて聞いてたの?」
「………」
「ごめん、茶化すところじゃなかったか。真面目に聞く。話して」
長らく油を差していないブリキ人形のような首肯をしながら、俺は改まって、されど深刻な空気を作りすぎないよう、あえて彼女の視線を外して、口を開いた。
「バオバブ、あるじゃん?」
「顔に傷までつけられて、ないとは言えないよね」
「実は、あれ」
こういうとき、どんな表情をすればいいのかわからなかった、から、曖昧に微笑んでいるような表情をしていた。
「俺が、作ったんだ」




