十月二十四日 『最後の審判』まであと七日――其の参
どこか空々しい気持ちで七時間目を終えると、授業よりも面倒な業務が俺を待っていた。
教職の仕事はブラックすぎる、なんて俺が教師になりたての頃に世間で流行ったが、それに関しては大いに頷きたい気分だった。ただ、多分大変じゃない仕事なんてこの世にはないのだろうな、と警察官の恋人を持つ俺は理解している。
「……ちっ」
今日行った小テストの採点をしながら、俺は無意識に舌をひとつ鳴らした。
英語の小テストなんて、なんの役にも立たない。英語話者と話せるような教育は日本では行われていないし、強いて言うなら受験に役に立つが、その受験が行われるかもわかったものではない。
無駄だなと思いながら、またひとつ丸を書く。この作業ひとつひとつに給料が発生しているのだと思うと、身の内から湧き出る不快感も容易に飲み下すことができた。そういう大人に俺はなっていた。
金なんて、使い道があるのかもわからないのに。これに関しては、隕石が降ろうと降るまいと。俺が熱意を持てないのは、仕事に対してだけじゃない。人生に対しても同じだ。
人生には誰でもひとつの熱がある、というのが俺の理論だ。
人は誰しも人生で一度は熱を帯びる。身体が燃え上がるような熱情をなにかから得る。それは趣味だったり恋だったり仕事だったりするかもしれない。なにに熱を感じ、なにから熱を得るかは人それぞれだ。ただし、その最高の熱を感じることができるのは、誰でも人生で一度であることだけは変わらない。
そして熱が冷めれば、待っているのは長い長い余生だ。余生と言うと老後をイメージされるかもしれないが、そういう意味ではない。老いるという意味ではなく、腐る。歩く死体、ゾンビになるというのが表現としては適当かもしれない。
死生観という哲学の永遠のテーマがある。
人はいつ死ぬのか。
心臓が止まったときに死ぬ、脳が機能を停止したときに死ぬ、認知能力がなくなったときに死ぬ、人に忘れられたときに死ぬ。
どれもそれぞれの考えだ。そして俺にとっての死は、熱を失ったときがそれになる。
ゆっくりと、熱したフライパンが冷めていくように、じわじわと、眠りに落ちるように死んでいく。
世の中には、一生熱を持ち続ける幸運な奴がいる。逆に、早いうちに熱を失って数十年もゾンビをする不幸な奴がいる。
俺の熱は大学生の時分に、青春と共に置いてきた。今の俺はその余熱を楽しんでいるだけにすぎない。生きる屍。仕事にも、恋人にも熱は感じない。
だからといって、おざなりに日々を生きているわけではない。
熱を感じないからといって死のうとは思わないし、瑞樹を粗末に扱おうとは思わない。熱を失ってしまった俺だからこそ、他人の熱を大切にしてあげたい。瑞樹の熱が仕事にあるならそれを応援してもいいし、俺との恋にあるなら付き合って上げてもいい。
ああ、そうだ。いいことを考えた。
もしもエニグマが地球に激突することなく通り過ぎたら、その時は彼女にプロポーズしよう。
そんなことを考えた。
そんなことを考えても、緊張ひとつしない自分の醜悪さを吐き捨てるように、赤ペンでまたひとつ丸を書く。電灯で侘びしく照らされた職員室に、赤ペンの走る音だけが虚しく響いた。なんの意味もないのに。
生徒たちは、どうなのだろう。
彼らは人生の熱を既に感じているのだろうか。これからなのか、真っ最中なのか。もしも既に過ぎ去ってしまった奴がいるのだとしたら、それはとても気の毒だ。
「お疲れ様、寺島先生」
デスクに、コトリとカップが置かれた。黒色の液体が、電灯を反射して揺れる。
顔を上げると、飯島文香の顔がそこにあった。日本史の教師だ。歳は俺より少し上。泣き黒子に秘められたどことなく艶っぽい魅力が、男子生徒に大の人気だと聞き及んでいる。
「飯島先生も、お疲れ様です」
「酷くつまらなそうにしてるわね。採点?」
「そうです。飯島先生はもう採点終わったんですか?」
「自分の担当教科のはね。世界史の方はまだ」
「飯島先生はいいですよね。日本史と世界史なんて、似たような教科じゃないですか」
「まったく別よ。それで言うなら、寺島先生だって、英語と現国でしょ? どっちも語学じゃない」
「正反対の語学ですよ」
「ま、お互い、日本と世界を教えてるって感じかしらね」
「教えてるってほどじゃないですけどね。小テストやって、採点してるだけです。これであっちも学費払ってるんだから、給料泥棒って言われても文句言えないですよ」
「文句は言えるでしょう。こんなときなのに、律義に出勤してやってるんだから」
飯島先生はシニカルに笑って、脱色した長い髪を掻き上げた。それから勝手に隣のデスクの椅子を拝借して、深く腰を掛ける。
「寺島先生はまだ若いのに、律義に出勤するのね」
「俺、若くないですけどね。二十八ですよ、もう」
「充分若いじゃない」
「ですかね? あ、飯島先生もお若いっすよ。ははっ」
「ぶっ飛ばされたいのかしら? 寺島先生は他にやりたいことはないの? たとえば、最後に海外旅行に行きたい、とか」
「海外は物騒ですからね、今は特に」
右手の中で赤ペンを弄びながら、テキトウな答えを口から吐く。こういう、ある程度の社交性も、余熱の中で身につけたものだった。
「というか、最後? 飯島先生って終末論者だったんですか?」
「別に。落ちてくるか落ちてこないか、半々だって思ってる。でも、特にやることもないから仕事してるのよね。高校生の相手するのも嫌いじゃないし。寺島先生は? ただの偏見だけど、それほど教職を愛してるってわけでもないでしょ?」
「……よく見てますね」
「得意なのよね、人間観察。それで? どちらかというと子供が苦手な寺島先生は、どうしてそれでも仕事を続けるの?」
手の中で回した赤ペンが、すっぽ抜けて足元に落ちていった。床に赤い線が走る。それをウェットティッシュで拭いながら、俺は飯島先生の質問に対する回答を頭の中で考えていた。
厳密には、正直に答えるか、テキトウを答えるか、を。
色々考えた末、俺は結局、正直に答えることにした。どっちでもいいからだ。どっちでもいいし、どうでもいい。
「まあ、惰性ですかね。他にやることもないし、みたいな」
「寺島先生は、エニグマ、落ちてくると思う?」
「どうでもいい。それが俺の回答です。人類なんて滅べばいいなんて思ったりはしませんけど、人類は滅ぶべきではないとも思わない。そこまで壮大な思考ができないってのもあります。もっとミニマムに、自分の命だけのことを考えるなら、まあ、それこそどうでもいいって感じですかね」
「老成してるわね。年上と話してる気分」
飯島先生は「はあ」と細く息を吐いた。感心しているようにも、呆れているようにも見える嘆息だった。
「きっと、熱が冷めてしまったからです」
「熱?」
ああ、口を滑らせたと思った。
熱の説明をするのは面倒くさいなと思って、だけど会話の流れ的に説明しないわけにもいかないなと溜め息を飲み込んだ瞬間だった。
電話が鳴る。
職員室の電話ではなく、俺のスマートフォンの着信だった。非通知。保護者からの連絡かもしれないので、もちろん無視するわけにはいかない。俺は飯島先生に目で断って、きっちり三コール目で電話に出た。
「はい、寺島です……あ、存じています。瑞樹の……はい、瑞樹がお世話になってます。それで、今回はどのような……はい、はい…………………………瑞樹が…………そうですか。はい……はい、では、そちらに伺います……はい、では……はい、失礼します」
電話を切って、なぜか背筋を伸ばしていたことに気が付いた俺は、ゆったりと全身の力を抜いた。背もたれに欠けたスーツがずり落ちそうになるのを、横目でなんとなく見る。
焦りや戸惑いはなかった。
「電話、なんだったの?」
「瑞樹の……恋人の先輩からでした。警察官なんですけど、デモ隊との衝突で、怪我したみたいで」
飯島先生が目を見開いた。そして、言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「それは、えっと……」
「俺、ちょっと病院に行かなくちゃならなくなったんで、今日は早退します」
「……ああ、うん。お疲れ様」
「はい。お先に失礼します」
頭を下げて、スーツを着て、荷物を纏めて学校を発つ。
夕暮れの赤いキャンバスを見ながらゆっくりと歩いた。俺はバスで通勤しているから、足はバスしかない。あとにしてみればタクシーを呼ぶ選択肢もあったが、その選択肢はそのときには思い当たらなかった。
茜色のキャンバス。目を閉じると、黒いスクリーンに映し出される、あの日々。
安食真澄。
彼女と日が暮れるまで世界平和について議論したことがあった。喫茶店で。途中で喧嘩になって、仲直りして、ぎこちない距離感で一緒に店を出たあのときも、こんな空の色だった気がする。
酷い彼氏だ。こんなときなのに、思い浮かぶのは瑞樹の顔じゃない。
俺は唇を噛む。恋人が怪我をしたというのに、別のことに意識が取られている自分に、激しい自己嫌悪が襲ってくる。そしてその自己嫌悪に、一切苦しみを覚えない自分にほとほと呆れ果てる。
先ほどの、戸惑ったような表情を浮かべる飯島先生の顔が頭を掠めた。ああ、なるほど……。全身から力が抜けていく。飯島先生は、俺が戸惑っていないことに戸惑っていたのだろう。さすがに人間観察が得意なだけある。
俺はもう、恋人の不幸に戸惑えない自分にも戸惑えなかった。自分がそういう人間であることを骨の髄まで理解していた。冷めてしまったから、なのだろう。
秋風が一陣吹いて、また、俺の熱を奪っていった。




