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歩み寄る崩壊の足音

 噂話というのは、どうしてか本人に伝わってしまうものらしい。俺は少なくとも誰かからその噂を聞かされたわけではなかったけど、どうしてか大学に流れるその噂については耳にしていた。噂というのは、どの年代にとっても最大の娯楽なのだろう。

 彼らはつまり、あの明朗快活で元気溌剌、そして爪弾き者である彼女と、大学随一の地味で根暗な俺とがよくつるんでいる理由を解き明かしたいらしかった。そんなものに答えがあるなら俺が知りたいくらいだったけど、他人と関わる機会の少ない俺には、それを訊く機会に恵まれなかった。


 視線と囁きが遠巻きに突き刺さる。気付かないふりをするのもひと苦労だ。噂は本人のいないところで転がっていき、そして勝手に着地するのだろうと頬杖を突きながら考えていた。中国語の授業だったと思う。おおかた、恋人同士と誤解されるのだろうな。そして彼らは身勝手に納得し、こちらに弁明の機会を与えないのだろう。

 くだらないなと思いながら、俺は彼らの不躾な視線を無視し続けていた。どうしてか、少し苛立っていたとも思う。


 そう思っていたから、彼女の登場には少し驚いた。噂話に花を咲かせていたうちのひとりが、とことこと俺のところに歩いてきて話しかけてきた。


「ねーねー、寺島くん……だよね? 寺島くんって、安食さんと仲いいの?」


 訊かれて、きっとこの人はグループで立場の低い人間なのだろうなと思った。理由は、彼女がやってきた方向の女子グループが遠巻きにこちらを観察していたからだ。この人は立場の低さを利用され、こうして前線に立たされているのだろう。

 俺は、名前も知らない学友に少しだけ同情し、答えてあげる。


「まあ、友達だね」


「付き合ってるわけじゃないの?」


「いや、別に」


「ふーん」


 善良なのか、そもそもそれほど興味がなかったのか、彼女は俺の言葉をそのまま受け取ったようで、「わかったー」と言いながらグループの輪の中に戻っていった。

 ひとまずの難はそれで去った。中国語の授業を聞くともなく聞いて、将来使うかもかもわからない中国語を少しだけ習得して、俺は特に誰ともコミュニケーションを取ることもなく授業を終え、帰りの支度をした。今日はもう授業を入れていないし帰ろう。そうやって構内を歩く俺を、大きな声が呼び止めた。


「紅葉!」


 振り返ると、不意の偶然を喜ぶような表情をした安食と、俺らふたりを訝しがる群衆の姿が目に映った。本当は噂に種を蒔きたくはなかったのだけど、仕方なく後者だけ無視して、歩み寄ってくる彼女を待った。


「や」


 俺の前に立った彼女に手を挙げて答える。


「お疲れ、安食。お前がこっちにいるの珍しいな」


「お疲れ。レポートの提出が上の教授室だったんだよね」


「なるほど」


「紅葉は、次授業?」


「いや、もう帰ろうかなって。安食は?」


「私ももうなくて今から約束が……あ、そうだ、今からご飯行かない?」


「また急だな」


 俺たちを遠巻きに観察していた群衆は、いつの間にか解散していた。やっぱり付き合っていると納得したのだろうか。まったくどうでもいいことだったので、すぐに意識から群衆の存在は消えた。


「実はさ、今からバオバブに興味あるって人と会うの。私が取ってる授業でたまたま知り合って、活動について話したら興味持ってくれたらしくて、それで今から会うんだけど、紅葉にも会ってもらった方がいいかなって。あ、もちろん、嫌だったらいいけど」


「嫌じゃないけど……バオバブに興味?」


「そうそう」


「それは、なんというか……珍しいな」


 俺は安食みたいに誰もが世界平和を目指しているなんて思っていなかったから、世界をよくするための活動が、誰かに興味を持たれるものではないことを充分に理解していた。


「あー、そいつって、もしかして女?」


「ん? いや、男の子だよ。医学部の一年生」


 ということは、もしかしてその男子はバオバブに興味を持ったのではなく、安食に興味を持ったのではないだろうか。

 そんな下種な勘繰りをして、直後に、それではさっきの奴らと同じ思考回路だと気付いて、群衆と変わらない価値観を持っている自分を呪った。まだ、その頃の俺は自分の特別性に執着していた。


「あ、もしかしてかわいい女の子を期待した? 軟派な奴めー。私というものがありながらっ」


「寝言は寝てからほざくのがこの世のルールだよ」


「寝言じゃねーよ。私、そこそこかわいいでしょ?」


「普通寄りの普通だろ」


「なんだとっ!」


 安食は笑いながら俺の肩を叩いて、「照れちゃってもー」と付け加えた。


 当たり前だけど、この時はまだこの先に待ち受ける未来を俺たちはなにも知らなかった。バオバブがどうなってしまうかなんて、誰も知り得なかった。

 この頃はまだ、痛々しい理想を語るだけのバオバブがあった。


 その日、俺は安食に誘われるまま近くのファミレスに行き、メンバー候補の男と会った。正直に言って、思っていたのとタイプが違った。安食を好きになるくらいだから、細身で眼鏡の男が出てくると思っていたけど、彼は俺より二回り以上も上背がある筋肉質な男だった。そしてどうも、安食に恋をしているわけでもなさそうだとわかった。

 五十嵐陸という名前の彼は、一重で唇が分厚く、荘厳な空気を纏っていた。見るからに実直で真面目で、また、同士を見るように俺を見る目から、恋なんてものに目が眩んでバオバブに入ろうとしているわけではないことがわからされた。


「俺は世界からあらゆる感染症を根絶したい。絵空事に思えるかもしれないが、人類が一丸となって協力すれば、それも不可能ではないはずだ。実際、人類はいくつかの感染症を根絶してきた」


 コーヒーを飲みながら静かに五十嵐は自分自身について話してくれた。彼もまた、同じだった。安食と同じ、理想の世界に生きる人間だった。感染症の根絶。素人ながら、それは戦争の根絶と同じくらい不可能に思えた。

 五十嵐は感染症の根絶には幾つかの障壁があると言った。それは貧困だったり、戦争だったりした。彼はまずはそこから着手しなければならないと唱えた。その部分で、安食と五十嵐の理想は重なっていた。


 安食は五十嵐の話を興味津々といった様子で訊いていた。ほどなくして、彼は三人目のバオバブのメンバーとなった。

 銀行強盗は四人に限る、となにかの本で読んだ。たぶん、世界平和のための組織はふたりで充分だった。しかし、門戸を開きふたりではなくなったバオバブは、流動しなくてはならなくなった。

 三人は四人になり、五人になり……いつのまにか、それなりの所帯を持った団体に膨らんでいた。

 大学に団体として申請することは、五十嵐の提言によって棄却された。大学に縛られるのを嫌って、俺たちは学校とは無関係な団体を作り上げていた。世界平和を目指す謎の団体は、その規模を大きくしていった。


 安食は嬉しそうにしていたけど、いつだかこんな話をしていた。


「これは紅葉と作った組織だからさ、なにか違うなって思ったらいつでも言ってね。紅葉は私のブレーキ役だから。壊れちゃってるんだよね、ブレーキ。だから、いつでも私が間違えないように見張ってて。それで、世界を少しでもよくしよう」


 それが安食の理想だったのだろう。

 理想が砕け、歪み、最終的にはテロリズムに堕ちるなんて誰も思っていなかった。


 短い秋の、葉の枯れだす季節の話である。

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