十月二十六日 『最後の審判』まであと五日――其の壱
「もしかして、プロポーズですか?」
自宅から徒歩で十五分ほど行ったところにある老舗の花屋、その入り口で花を吟味していると、店員の若い女性に話しかけられた。化粧の薄い、見たところ俺よりも歳下の女性だった。深い青色のエプロンには、店のロゴが入っている。
「はい?」
首を傾げると、店員はふわりと笑う。
「お花、随分真剣に悩んでいるように見えたので、プロポーズかなと」
彼女の口吻には少しばかりの揶揄うような色が含まれていて、しかし俺が不快感を覚えることはなく、そこに彼女の接客能力の高さが窺えた。
「もうすぐ世界が終わるかもしれないって、このタイミングでプロポーズする人なんていないでしょ」
「それが意外といるんですよ。プロポーズ用にバラの花束を買っていく人。もうすぐすべてが終わるから、今のうちにプロポーズを、と思ってるんですかね? 世の男性って、思ったよりロマンチックですよね」
「ですかね? 今ならノーとは言われまいって、そういう打算があるのかも」
冗談めかして答えると、彼女は口を開けて笑った。
「まあ、意外とそんなものかもしれませんね。私だって、バラの花が飛ぶように売れて、エニグマ特需に内心ウハウハですよ。世界が終わるかもしれない、なんてフワフワした考えより、今日の売り上げの方がずっと現実的に私を支配してます」
「生々しいですね」
「生花店ですから。お兄さんは、今日はなにをお探しですか?」
俺は少し悩んで、本当のことを口にした。
「実は、これから恋人のお見舞いに行こうと思ってまして」
推定歳下でも、俺は店員には敬語を遣う。理由は、若い頃のアルバイト経験で、おじさんにタメ口を利かれるのが嫌だったからだ。己の欲せざるところ人に施すなかれ。単純かつ当たり前の理屈だが、実践できている人は少ない。
俺の言葉に、彼女は両の掌を合わせて、華やいだ表情を見せた。
「まあ、素敵。あ、素敵とか言ったらいけないのか。入院しているってことですもんね。えっと、だから……お悔やみ申し上げます?」
「俺の彼女を勝手に殺さないでくださいね」
そそっかしい。
落着きのない女性だが、不思議と嫌いにはなれない。そういうところに、彼女の内面的な魅力というか、才能を感じる。その姿はかつての安食とダブって、俺は頭を振ってその面影を払い落した。
「今は、お見舞い用の花を選んでいたところなんです」
「それは彼女さんもお喜びになるでしょうね」
「だといいなと思ってます」
実際のところ、花程度で彼女が喜んでくれるとは思ってないけど、それをわざわざ花屋の彼女に告げる意味もない。
「えっと……たしか、お見舞いに鉢植えはダメなんですよね?」
「ですね。『根付く』が『寝付く』に繋がって、病気が長引くことを連想させるから、とかなんとか。馬鹿みたいなダジャレですけど」
「馬鹿みたいとか言っちゃいますか」
「馬鹿みたいじゃないですか、実際。まあ、嫌いじゃないんですけどね、ダジャレ。言葉遊びとか、迷信とか、そういうことを気にするの、日本人って感じがして私は好きですよ。面倒だとも思っちゃいますけど」
「他に見舞いに相応しくない花ってありましたっけ?」
「相応しくない花なんてありませんよと花屋としては言うんですけど、真面目に答えるなら、シクラメンはダメとされていますね。『死』や『苦』を連想させるので。これもダジャレですけど」
「なるほど」
「他にも、赤い花は血を、白、紫、青の花は葬儀を連想させるので避けるとも言われてるみたいですね」
「それ、何色が残ってるんですか?」
「黄色とかですね。でも、菊はダメですよ。供花の印象があるので。同じ理由でリンドウもダメです。他には、椿やチューリップも、花がぼとりと落ちる様子が『首が落ちる』ことを連想させるのでダメらしいです」
「連想しますかね、そんなこと」
「私に言われましても」
彼女はシアトリカルに肩を竦める。
「それから、ユリみたいな薫りが強いものも避けた方がいいでしょうね。これは迷信とは関係なく、病室みたいな密閉空間に飾ると匂いが籠っちゃうので」
「はあ、なるほど……」
なにがなるほどなのかわからないが、会話の隙間を埋めるためにそんなことを呟いた。
花屋の店先に並んだ花々を眺める。今の条件に合致する花を探そうとしてみたが、タブー条件が多すぎて見つけることができなかった。
「おすすめの花とかあります?」
こういうとき、俺はすぐに人を頼ることを厭わない。餅は餅屋、花は花屋だ。
彼女はまるで待ってましたと言わんばかりに、右手で店の片隅を指した。そこにはオレンジと黄色の中間色のよう花弁がまるで太陽のように放射状に広がっている花があった。プレートには『ガーベラ』と書いてある。
「個人的なおすすめはこちらのガーベラですかね。お見舞い用の花としては一番人気ですし。花言葉も『希望』ということで、見ての通り前向きな花なんです。でも、お見舞いする人が恋人なら、やっぱりバラもおすすめですよ」
「バラを推してきますね」
「私が個人的に好きなので。オレンジのバラは花言葉が『健やか』だから、お見舞いにもピッタリですし。いっそのこと、赤のバラで『情熱』を伝えちゃってもいいと思いますよ」
「赤い花は避けるべきって言ってませんでしたっけ?」
「迷信なんてくそくらえですよ。愛の力があれば、怪我も病気もすぐに治ります」
「愛の力、ね」
そんなものが今の俺にあるのだろうか、あったとして、それは正しく瑞樹に伝わるものだろうか、と、そういう意味での呟きだったのだけど、店員の彼女はなにかを誤解したらしく、片手でガッツポーズを作って、言った。
「愛の力ですよ。好きな人から愛を受け取ったら、女性の自然治癒力って上がるらしいですよ。なにかの本で読みました」
「それを迷信って呼ぶんですよ。くそくらえです」
「やだ、お兄さん、『くそくらえ』だなんて、はしたない」
「言ったのはそっちです」
言いながら、俺はガーベラの花に近寄る。近くで見てみると、それほど綺麗な花には見えなかった。ポジティブな印象は抱くが、個人的には好みじゃない。だけど、瑞樹のところにバラを持って行く勇気が俺にはなかったので、ガーベラを選ぶことにした。これでいいか、という妥協の心が俺の中にあったことは否定できない。
「じゃあ、このガーベラをください」
「はい。何本でしょう?」
「あー……五本でいいです」
「まあ、素敵」
「はい?」
「いえいえ、なんでも。ガーベラ五本で、計千円になります」
営業スマイルには見えない笑顔を浮かべる彼女に俺は快く千円を払って、礼儀として頭を小さく下げた。
「またのお越しを。日曜日以外はいつでも開いてるので」
「いつでもって、最後の審判の日も?」
「もちろんです」
彼女はなんの気負いもなく言った。
「……エニグマが落ちてこないって確信してるんですか?」
「いやぁ、落ちてくるかはわからないけど、これが仕事なので」
「人生が終わるかもしれないって日に、仕事するんですか?」
言ってから、言わなくていいことを言ったことを後悔した。
「人生が終わるかもしれないからこそ、ですかね。私は好きで花屋になったので。死ぬとしても、花屋として死にたいんですよ。それに、死ぬかもしれないって言うなら、人間、誰だっていつだってそうじゃないですか。今はたまたま隕石が近付いてきて、その確率が高まっているだけ。五日後に死ぬとしても、今日死ぬとしても、私は大好きな花に囲まれたこの仕事をやり続けるだけです」
彼女は迷いのない口調で言い切る。もうすぐ世界が終わるかもしれない現状を、ちょっと特殊なだけの日常と捉える彼女の価値観。それが正しいのかどうか、俺にはわからなかった。ただ、彼女の言葉には、花屋という自分の仕事への熱があった。
「……ありがとうございます。色々相談に乗ってくれて助かりました」
俺は再び頭を下げる。今度のそれは、儀礼的なものではなかった。彼女は「いえいえ」と笑みを浮かべると、俺の肩越しに視線を飛ばし、頭を下げた。
「いらっしゃいませ。なにかお探しですか?」
どうやら新たな客が来たらしい。
買い物の終わった俺はさっさと退散した方がいいだろう。
そう思って踵を返した瞬間、入れ替わるように店内へ入っていく男の横顔がちらりと見えた。本当にたまたま、視界に入っただけ、だった。
肌が、泡立つ。
そこにいた。
あと少し、ほんの少しでも振り返るのが早ければ、目が合い、気が付かれていたかもしれないと思う。
俺の記憶にある彼より幾分か大人になっていて、身体もさらに大きくなってはいたが、見紛うはずもなかった。
久しぶりにその姿を見て、感情よりも先に身体に異変があった。
悪寒のようなものが背骨を這い回り、鳥肌が立ち、寒いのに汗が首筋を伝った。無意識のうちに、手が拳の形を作っていた。吐き気もした。それが嫌悪と呼ばれる感情だと、その感覚を久しく忘れていた俺はすぐに気付けなかった。
そして感情がやっと身体に追いついて、俺は店の中にいる彼をこっそりと睨んだ。間違いない。
五十嵐陸が、そこにいた。




