十月二十四日 『最後の審判』まであと七日――其の壱
気怠い朝に目を覚ますと、甘酸っぱい香りが鼻先を掠めた。無意識のうちに視線を向けると、そこには彼女の後頭部がある。呼吸の度に僅かに上下する肩は、触れれば壊れてしまいそうなほどに細い。
彼女を起こさないようにベッドから抜け出る。落ちていたズボンを拾うと、近くに目覚まし時計が落ちていた。昨晩のなにかの拍子にベッドから転げ落ちたのだろう。幸い壊れた様子はなく、午前六時半を示していた。
ズボンを穿いたらキッチンに向かう。
パンをトースターに突っ込んで、彼女が好きな硬い目玉焼きを作った。サラダを盛りつけたら、それをダイニングに運ぶ。テーブルに朝食のプレートを並べていると、ちょうど彼女が起きてきた。
俺のTシャツが股下までを隠し、そこから下は大理石のような白い肌。彼女は日焼けには神経質なくらい気を遣っていて、もちろんシミひとつない。利発そうな目と鼻の形をしていて、黒いショートカットがよく似合っている。
「おはよ、紅葉」
彼女が眠たげな目を擦りながら俺を呼んだ。
俺は微笑みを浮かべて彼女を迎える。
「おはよう、瑞樹」
彼女は――舞元瑞樹は、こくんと頷いて椅子に座った。
「朝ごはん、ありがと。あたしの当番なのに」
「別に。俺の方が早く起きたから俺が作っただけ」
「今日もひねてるなー。夜はあんなに素直な仔猫ちゃんだったのに」
少し悪戯気な流し目を向けながら、瑞樹が忍び笑う。
「警察官がセクハラとは、世も末だな」
言いながら、テレビを点けた。朝の報道番組は、ちょうどエニグマについて報じているところだった。
アメリカで大規模なデモが起こったらしい。政府高官はすでにスペースシャトルで宇宙に避難する準備ができていて、それを市民に隠している。そんな馬鹿げた噂に踊らされた国民が、俺たちも乗せろと主張するためにホワイトハウスの前に集結したらしい。
抗議には銃まで持ち出され、最終的には警察によって鎮圧された。死傷者多数。しかしこんなものは、今では日常だった。
「まあ、たしかに世も末かもね」
瑞樹が疲弊したような口調で言う。
多くの国で暴動が多発しているなか、日本は比較的に秩序を保っていた。たしかに犯罪は増え、デモも行われている。それでも、大量に動員されている警察官たちのお陰もあって、死傷者が出るような事態には陥っていなかった。
「世間では、日本人の民度が高いお蔭ってことになってるみたいだけど、そこのところどう思う、先生」
彼女の揶揄うような口調。
「先生って呼ぶなって思う」
「なんでよ」
「女として見られなくなるからだろ。仕事スイッチが入るんだよ」
ストレートに答えると、瑞樹は視線を少し彷徨わせた。
攻めっ気が強いのに、攻められると途端にしおらしくなるところは可愛らしい。そんなことを言っても彼女をさらに困らせるだけだとわかっているので、言わない。
「そういえば、紅葉ってやっぱり女の子にモテるの? つまり、学校の生徒に。紅葉ってルックスいいし、生徒に大人気なんじゃない?」
「かもな」
「うわ、自覚あるイケメンってムカつくー」
瑞樹がわざとらしく机をバンバンと叩いた。
「言っておくけど、女子高生に手ぇ出したら逮捕だからね?」
「警察官が言うと笑えないな」
「逮捕した上で、殴るから」
「警察官が暴行を働くな」
「警官である前に女なの、あたしは」
「じゃあ、俺も教師である前に男だから、生徒に手を出そうかな」
おどけて言ってみたら、机の下で脛を軽く蹴られた。
もちろん、冗談である。俺にとって高校生なんてまだまだ子供で、恋愛の対象にも性愛の対象にもなりえない。青すぎるんだ、高校生は。瑞樹には秘密にしているが、一度、生徒に告白されたことがある。もちろん断った。彼女の若さが、俺には痛かったのだ。
未来への希望に溢れた彼ら彼女らの目を見ると、青春に残してきた後悔がフラッシュバックする。
「……紅葉?」
「ん?」
「ごめん、強く蹴り過ぎた?」
「ああ、いや……別に。ちょっと生徒に告白されたときのことをシミュレートしてただけ」
「サイテー」
ちょうどそのとき、番組が次のニュースに移った。日本のテロ組織『バオバブ』についての報道だった。
エニグマが地球に落ちてくる可能性が指摘されて以来、世界ではテロリズムが流行り始めた。混乱に乗じて国家を乗っ取ってやろうとする人間や、人類の存亡を国に託せない人間が、世の中には思ったよりもたくさんいたらしい。その流行の波は、日本にも届いた。様々な理念を掲げた様々なテロ組織が、作られては潰れていった。
バオバブは、その中でも希少な《《それ以前》》から日本に巣食うテロ組織である。
つまり、彼らに終末思想は関係ない。エニグマが地球に落ちてくるなんて思ってもない。ただ、この混乱に乗じて日本を略取してやろうという目的だけがそこにある。
「中東から銃火器を密輸入だって。いつから日本はこんな殺伐とした国になったの?」
瑞樹が苛立たしげに食器を鳴らす。
「まあ、今回は水際で止められたわけだし」
「今回は、ね。実際、バオバブが現時点でどれだけの兵器を持ってるのか、誰にもわからないよ。もう既に、その気になれば国家を転覆させられるのかもしれない。それだけ大きいからね、あそこは」
バオバブは数年前まで、それほど大きな組織ではなかった。
そもそも、元々はテロ組織ですらなかった。ただの政治活動団体だったのだ。そこにどんな理念があったとしても、暴力行為を働かなければ定義的にテロ組織とは呼ばれない。
しかし、ここ一年ほど、バオバブは生まれては消えていくテロ組織を吸収し続けた。その結果、組織はどうしようもなく下品に膨れ上がり、いつの間にか標榜していた非暴力を失い、ただのテロ組織に成り下がってしまった。
そこにどんな理念があったとしても、暴力行為を働けば定義的にそれはテロルである。
「どうして……そんなことするんだろうな」
「国を手に入れたいんでしょ。欲望底なしっていうのは、バオバブの連中を指す言葉なんだろうね」
「国を手に入れてどうするんだよ。もうすぐ世界が滅びるって、こんなときに」
湖面に張った氷が割れるような音がした。もちろん、幻聴として。
空気が凍り付く。失言に気付いたのは、瑞樹が怒ったように眦を吊り上げたあとだった。
「なに言ってんの? 世界は滅んだりしないよ。エニグマは落ちてこない、絶対に。これだけ長く続いた人類の歴史が、そんな簡単に終わるわけないじゃん」
瑞樹は刺々しい声音で、俺を攻撃的に見つめる。
俺は自分を恥じた。あまりにも浅はかな発言だった。いい歳こいて、余計な口を滑らせた。誤ったら、謝らなければならない。大人として、そのくらいのことは知っている。だから、俺は籠められるだけの誠意を籠めて、頭を下げた。
「そうだな。ごめん」
「……謝らないでよ、馬鹿」
瑞樹は悲しそうに言って、テレビを消した。
じゃあどうすればよかったんだよ、なんて思考が泡のように頭に浮かんで、消えた。




