プロローグ
神は死んだ。
かつて人類が宗教を捨て科学的精神を獲得したとき、フリードリヒ・ニーチェはそう言ったという。宗教批判よりも虚無主義の宣言だった、と答えればテストで丸をもらえること以上のことを俺は知らないが、彼の哲人にもなにか深い思惑があっての言葉だったのだろう。
ニーチェの死去から百年以上経って、結局間違っていたのはニーチェだった。
つまり『神は死んでなどいない』のだ。
今は懐かしき哲学の授業から数年経って、二十八歳になった今、俺は実感していた。
たしかに、神はいるのだと。
別にこの数年間で急に信仰に目覚めたわけじゃない。俺なんて、掃けば棄てるほどいる塵芥のような、どこにでもいる普通の高校教師だ。大抵の日本人がそうであるように、俺は信仰を持っていない。
そんな俺がどうして神なんて虚構的なものを信じているのか。答えは単純、神の意思を知ってしまったからだ。
家の窓から空を見上げる。雲ひとつない朝の秋空。この蒼穹のどこかに、有形の神の意思が存在している。もう数日もすれば肉眼で見えるようになり、そして空を覆い尽くす、かもしれない。
『小惑星エニグマ』。形を持って降り注ぐ神の意思。
三年前、アメリカ人のアマチュア天文家によって発見されたその巨大小惑星は、観測するたびに微妙に形状を変化させる不思議な性質から『エニグマ』と名付けられた。すぐに専門機関によって軌道が計算され、二〇二八年の秋に地球から数千キロまで接近するが、衝突の危険はないと発表された。
その時点では、一部の天文ファンだけが知る、ちょっと珍しいだけの天体だった。小惑星が描く壮大な天体ショーの予測は、SNSでも少しだけ話題になった。
状況が劇的に変化したのはちょうど一年ほど前のことだった。地球に向かうエニグマの軌道を再計算すると、以前とはまったく異なる値を示したのだ。専門家によると、非常に脆い小惑星であるエニグマは、自らの表面を削りながら宇宙空間を進行しているため、軌道を不規則に変えているということだった。
そしてこの時点で、人類のほとんどがエニグマの存在を知ることとなった。地球に衝突し、人類を滅ぼすかもしれない危険な隕石として。
世界はすぐに混沌に陥った。
まだ衝突するかも正確にはわかっていないはずだったが、まるで人類が滅びることが確定しているかのように喧伝する人間もいた。終末思想、というのだろうか。インターネットでそういうのを面白がっている奴らも心のどこかに、人間なんて滅ぶべきだ、という想いがあったのではないかと思う。
エニグマが地球に激突するかは誰にもわからない。
まるで見当違いな方向に飛んでいく可能性、地球の大気を僅かに剥ぎ取って通り過ぎていくだけだとする可能性、大気と衝突した瞬間に粉々に砕けて千々となって雨のように降り注ぐとする可能性、世界中の専門家から様々な可能性が提言された。つまり、確かなことなどひとつとしてないということだった。
わかっていることがあるとすれば、エニグマが激突すれば人類は確実に滅びるということ。
二〇二八年十月三十一日――ハロウィーン。その日があるいは人類最後の日と予測されている。
誰ともなくその日のことを、キリスト教における終末論にちなんで、『最後の審判』と呼び始めた。
最後の審判、つまりは人類への裁き。
俺たちは神、あるいは神の子によって裁かれ、楽園か地獄かに送られる。狂気的なことに、その日を待ち望んでいる俺が、心のどこかにいる。待とうが進もうが、最後の審判は淡々と無感情にやってくるのだけど。
当たるかも定かではない隕石に、神の意思を感じるのはおかしいだろうか。
神の存在を信じているわけではない。ただ、もしも神がいるのなら、神は地球にエニグマを落とすだろうという確信だけがある。人類は裁かれなければならないこと、それだけは確信している。
最後の審判まであと一週間。どこかの国が小惑星の破壊や軌道の変更に成功したというニュースは聞こえてこない。
人類の存亡は、ただ、神の御心の随に。




