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かつてありし青春

プロローグのみ長くなりますが、よろしくお願いします

 正義の反対がまた別の正義なら、俺の正義は誰かの悪なのかもしれない。


 高校卒業までの十八年の人生でそんな真理に至った俺は、自らの人生におけるテーマをひとつ決めていた。つまり、誰にも自分の考えを押し付けないことと、他人の意見を容易に否定しないこと。俺にとっての正しさは俺にとっての正しさでしかない。また別の視点を持っている誰かにとっては、間違った意見なのかもしれない。

 俺は自分の意見を言わないことを正義として生きることにした。

 自己表現が苦手、なんてレッテルを張られてしまう考えであることは理解している。だけど、それでいいと思った。わざわざ他人と意見が衝突するようなことを口にする意味が圧倒的に見当たらなかったから。


 だから、大学で初めて安食あじき真澄ますみと会ったとき、俺は世の中にはなんとも自意識過剰で傲慢な人間がいたものだなと思った。


 大学一年生になって二週間目の月曜日。授業選びもほとんど終えて、今週からいよいよ授業が始まる、そんな若々しい意欲に燃えていた俺は、ごっこ遊びとしか思えなかったサークルにも属さず、大講堂の端っこにひとりで座っていた。

 友人がいないことを苦痛に思う性格でもなかった。

 三時限目、一般教養の哲学の授業だった気がする。

 講師の授業は酷くつまらなくて、始まって十分もしない内に教室に満ちた新入生たちの集中力は空気に溶けてしまったかのようだった。

 哲学というのは退屈な授業だな、と俺も思っていた。

 窓から外を見ると、同じくらいの歳の若者が和やかに会話して、時に笑顔を交わしていた。俺は授業そっちのけで、それを冷やかに見ていた。


 あいつらはわかっているのだろうか。


 そんなことを考えていた。

 時間が有限であることが、彼らには理解できていないように思えてならなかった。そして、俺は時間が有限で貴重であることを理解している、とそう思っていた。


 記憶の中のそのシーンでは、外はよく晴れていたように思う。だけど、実際は酷く曇っていた可能性もある。俺の深層心理が、モラトリアムを全力で満喫する彼らに日向のようなイメージを抱いているだけの可能性もあった。

 逆に、大講堂の中は暗かったように思う。そんなわけがないのに、雨が降っていたような気さえしてくる。


 とにもかくにも、彼らは明るくて、俺はそれを冷たく見ていた。

 そういう風に他とは違う感性を持つ自分を特別視する自分が、まだこの頃の俺にはあった。他人とは違う自分に酔っていた、という意味だ。自分のことを特別だと思っている、よくいるガキだった、俺は。


 そんな俺の退屈な日常をぶち壊す福音は、なんだか彼らを眺めているのが馬鹿らしく思えてきて、これなら授業を聞いた方がマシだと、そう思って視線を前に向けたときに横合いから飛んできた。


「ねえ……ねえ」


 盗みを働くような小声だった。

 俺の座っていた席から右にひとつ飛ばした席に座っていた女子から聞こえてきたものだ。始めは自分が呼ばれていると思わなくて、無視していた。


「ねえ。君だよ、君。緑のカーディガン着てる君」


 そこで始めて、俺は目だけを横に向けた。緑のカーディガンを着ていたからだ。

 頬杖を突いたまま声に視線を寄越すと、彼女と目が合った。黒い髪をボブカットにした、どこにでもいる容姿の少女だった。


「なに?」


 少し尖った声を向けた。

 それから、そんな自分を恥じた。不用意に他者に攻撃的になることが恥ずかしいことであると理解するくらいの分別は、その頃の俺にもついていた。

 だからすぐに頬杖を外して、彼女に向き直った。謝意を示したつもりだった。

 ところがなにを勘違いしたのか、彼女は座っていた椅子から腰を上げて俺の隣の席に腰を下ろした。縮まった距離をさらに詰めようと、俺に顔を近づける。


「あの話、どう思う?」


「……あの話って?」


 なにか、この大学で話題になっている話でもあるのかと思った。残念なことに、そういう話には疎い俺だった。

 けど、違った。


「教授の言ってる、自然説」


 彼女は教壇の方を顎で示しながら言った。

 自然説というのは、丁度そのときに授業でやっていた内容だ。

 戦争の根本的原因には様々な種類が想定される。神意説や人為説、そしてその中に自然説というものがあるという話だった。


 人と人とが争うのは自然なことである。


「……別に、どうも思わなかいけど」


「変だと思わない?」


「なにが?」


「人と人が争うことが自然なことなわけがないじゃん。万人の万人に対する闘争が自然な状態なわけがない。だって、私は君と初対面だけど、君に対して攻撃的な意思を持ったりしてないもん。君もそうでしょ?」


 君もそうでしょ、という押しつけがましい言葉に俺は眉を顰めた、と思う。


「人と人とは、手を取り会えるはずなんだよ。助け合って生きてきたし、そういう風に発展してきた生き物でしょ? 人間が言葉を発展させたのは、神様が授けてくれたからじゃない。その必要があったから。つまり私たちは、わかり合うための進化を遂げた生き物なんだよ」


 ふざけてるのか。

 そう思った。揶揄われているのかとも思った。人間がわかり合うための進化を遂げてきたなんて、あまりにも幼稚すぎる。いまどき、ニチアサの世界でもそんな空虚な理屈を展開することはないだろう。

 だけど彼女は真剣だった。

 そういう目をしていた。

 だから戸惑った。揶揄われているならあしらえばいいだけなのに、そうでないから無視するという選択肢も取れなかった。


「なら、それをなんで俺に言うんだよ。教授に言えばいいだろ」


「講義の邪魔をするのも悪いじゃん」


「俺の邪魔をするのは悪くないのか」


「だって君、どうせ聞いてなかったでしょ?」


 彼女は言って、舌を軽く出す。

 どこか気取ったようなその仕草につい見惚れてしまい、俺は目を逸らして憮然と答えた。


「講義の邪魔なんかじゃないさ。あっちも生徒の疑問に答えるのが仕事なんだ。わからないことがあったなら、手を挙げて質問すればいい。生徒にはその権利があるだろ?」


「たしかに」


「え」


 テキトウなことを言ったつもりだった。

 だけど、彼女は立ち上がって手を挙げた。自分の存在を主張するように。自分の正しさを主張するように。

 眼鏡をかけた講師が、いかにも面倒くさそうに彼女を指した。


「この世界に戦争は必要ないと思います」


 そんな言葉で始まった彼女の質問は、ただの意見表明だった。聞いていて恥ずかしくなるような、小学生の道徳の授業で習うような内容。それを彼女は押し付けるように講堂に響かせた。

 先のポリシーを持つ俺には、彼女はとても独善的な人間に思えたし、そうでなくても、随分と痛々しい奴に見えただろう。講堂のそこかしこから、嘲笑や冷笑が飛んできた。講師もそうだった。


「たしかに、そうなればいいですね」


 そんな風に講師は答えたと思う。

 つまり、相手にしなかった。相手にする価値もないと思われたのだろう。俺もそう思った。

 しかし着席して、全身に嘲笑を浴びる彼女の顔をちらりと見て、俺は驚いた。彼女は赤面していた。わかりやすいくらい顔に出して、恥ずかしがっていた。見ているこっちがむず痒くなってくるほど、彼女は羞恥に身を焦がしていた。


 俺の中にあった彼女を侮る気持ちは、その表情を見て霧散した。

 俺はどこかで、決めつけていたのだ。きっと、彼女は恥知らずで、自分の意見を表明することが恥ずかしいことだと理解もしていない、情操の発達が遅い人間なのだろうと。

 違った。

 彼女は恥を知っていた。理想論が理想でしかなく、それを語ることがイタいことだと理解していた。自分が絶対的に正しい人間だと思い込んでいる人間にありがちな、否定されて不機嫌になるようなこともなく、ただ、的を小さくするように肩を狭めていた。


 少しだけ、彼女に興味が湧いた。

 少しだけだ。自分から話しかけるようなつもりはなかった。顔を覚えるくらいの興味はあったかもしれないけど、名前を訊くほどの興味はなかった。だから、彼女に対する意識も、チャイムの音が鳴る頃にはどうでもよくなっていた。


 出席確認を兼用したひと言感想アンケートを書いて講堂を発つ。腹が空いて仕方がなかったので、食堂に向かうことにした。

 大学の食堂は、中途半端な時間でもそれなりに人がいる。日替わり定食をトレーの上に揃えた俺は、四人掛けの机を独占するのも悪いと思い、二人掛けの机にトレーを置いた。手を合わせてサラダに箸を伸ばす。


「ねえ、ひとり?」


 その声に今度は反応できたのは、今しがた聞いたばかりの声だったからだ。顔を上げると、さっきの彼女がカレーうどんを持って立っていた。

 どうして話しかけられたのかわからなかった。しかし、俺が声をかけられたという認識で間違いはないようだった。


「ああ、うん。そうだけど?」


「あ、よかった。じゃあ、失礼するね」


 そう言って、言うだけ言って、許可も取らないまま、彼女は俺の正面に腰を下ろした。俺は彼女のカレーうどんを見て、昨晩読んだミステリー小説を思い出していた。


「えっと……」


 彼女は俺の目を真っ直ぐと見ていた。

 人の顔を真っ直ぐ見ることができるなんて、自信に溢れていて、そして傲慢な性格をしているに違いないと思った。


「俺になにか用?」


「用がなかったら話しかけちゃいけない?」


 曖昧な表情で返事をした。

 用もないのに人に話しかけちゃいけないなんてルールは、たしかにない。でも、そういうマナーはある。

 そういう意味での苦笑いだった。


「冗談だよ。用はある。えっと……もみじ、くん、だよね?」


 くん、のところにイントネーションの置かれた言葉だった。

 どうやら、性別を訊いているらしい。たしかに俺の容姿は、どちらとも捉えられる見た目をしていた。髪を伸ばして後ろで一本に纏めていたのも、性別を誤認させる要素として機能していたかもしれない。


紅葉もみじって書いて、クレハって読むんだよ」


 俺は低い声を強調するようにして答えた。


「どうして俺の名前を?」


「これ、落とし物。さっきの講義室に忘れてたよ」


 彼女が俺に差し向けたのは学生証だった。眠そうな目をした俺の写真と、俺の名前が書いてある。ついでに読み仮名も振ってあるのだけど、彼女は見落としたらしい。


「寺島って苗字なんだね? 実家はお寺だったりする?」


 彼女は学生証を覗き込みながら言った。

 パーソナルスペースを弁えない人間なんだなと思った。きっと人の読んでいる本を勝手に読んだりするのだろう。俺はそういう人間が嫌いだった。


「いや、全然」


「お寺関係ないんだ。ま、私も安食って苗字だけど、別に定食屋さんとかじゃないし、そんなもんだよね」


「早乙女さんがみんな女の子ってわけじゃないようにな」


 なんの気なしに答えると、彼女はなぜか目を見開いて俺を見た。

 それから、小ぶりな八重歯が見えるほどに大きく口を開けて笑った。


「そんなに面白いこと言ってないけど……」


「いや、面白かったよ。ギャップって言うのかな? なんか、寺島くんってウェットな会話とかしないイメージだったから。なに言ってもマジレスしてきそうな感じ?」


「俺、そんなに感じ悪いか?」


「悪くはないけど、よくもないよ。それに、よくない意味で真面目そう」


 ほとんど初対面の人間にそこまで偏見をぶつけられるなんて、一周回って感心してしまった。


「あ、今さらだけど、安食真澄って言います。学部は法学部。同じ?」


「いや、俺は教育学部」


「え、すごっ。先生になるの?」


「いや、それは決めてないけど……」


 法学部の方がずっとすごい、という価値観を受験生感覚が抜けきっていない俺は抱いていた。

 内心で、ちょっとだけ驚いてもいた。彼女が法学を志すように見えなかったし、もっと言うと、それほど頭がいいようにも見えなかったから。


「ふーん。あ、ねえ、寺島くんは友達とかいないの?」


「はあ?」


「うわっ。ごめんごめん、訊き方ミスった。いつもひとりでご飯食べてるのか気になって。今日はたまたまひとりなだけ? それともいつも?」


「……いつもひとりだよ」


「あー、なんかごめん」


「謝るな。なんか悲しくなるだろ」


「悲しくなるべきなんじゃないかな? ひとりは寂しいし悲しいよ。友達は作らないの? 作れないの?」


 ずけずけと……。


「作らないし作れないの」


「なんで?」


「そのなんではどっちにかかってるんだ? 作らない方? 作れない方?」


「作れない方。私、友達が作れない人が理解できないんだよねー。友達って、呼吸してたらできるくない?」


「今から舌打ちしまーす。ちっ」


 彼女はゲラゲラと笑った。

 随分と笑いのツボが浅いらしい。


「冗談だけどね。友達作るの、私も割と苦手だし。よく引かれる人なんだよね、私」


 それはそうだろうなと思った。

 だけど、そんなことを気にするタイプにも、自覚するタイプにも見えなかったから、少し意外にも思った。


 彼女は急になにかに気付いたように「はっ」とした顔をして、自分を指さした。


「あ、もしかして私邪魔だった? お昼はひとりで食べたいタイプ?」


「いや、学生証届けてくれたし」


「邪魔じゃない?」


「まさか。恩人を邪険に思ったりはしないさ」


「ホントに?」


「ホントに」


「ホントのホントに?」


 なかなかしつこい。

 俺は白身魚のフライを摘まんだ箸を置いた。彼女を前にして、悠長に食事をする時間はなさそうだと判断して。


「ホントのホントに」


「ホントかなー」


 彼女は依然、疑るような視線を俺に向けている。

 そんなに邪魔だと思われているのが不安なら、さっさとカレーうどんを持って立ち去ればいいのにと思った。思っただけで、口にはしない。マナーとして。


「ねえ、なんで人の心って目に見えないんだろうね」


「急になに?」


「寺島くんのホントの心がわかったらさ、こんなにヤキモキする必要もないのになって思って。いつも思うんだ。他人の心が見えたらいいなって」


 彼女は真っ直ぐな目で俺を見た。

 まるで、本気で心を見ようとするかのように。


「見えないからいいんだろ。見えたら、喧嘩になる」


「そうかな? より仲良くなれる可能性もあると思わない?」


 性善説、という単語が脳裡に浮かんだ。

 彼女の根源にはそういう考えがあるように思えてならなかった。さっきの授業でも、その片鱗を見せていたことを思い出す。

 人の心が見えたら仲良くなれると、戦争がなくなると、本気で信じているような。


 否定したくなった。

 なにか、身体の手が届かないところが痒みを訴える。彼女を否定しなければ恥死してしまうのではないかと、そんな恐怖にすら襲われ、俺は思わず人生のテーマに反するような言葉を紡いだ。


「本音を曝け出し合って関係が深まるのは創作の中だけだ。現実は、そいつとは二度と関わることがなくなるだけ。SNSのフォローを外して、それで終わる」


「現代的だね」


「現代人だからな」


「ね、寺島くんはさ、私のこと好き?」


 またぞろ急に、彼女はそんなことを言ってきた。


「……どういう意味で言ってんだ?」


「いや、実験しようと思ってさ。私のこと好きじゃないなら、私に嫌われてもなんともないでしょ? だから試しにさ、私に本音を言ってみてよ。それでほら、本当に喧嘩になるか試してみよう」


「それは名案だ」


「でしょう?」


「今のは皮肉」


「じゃあ次は骨髄を言ってよ。私に本音を曝け出してみて。ねえ、寺島くんは今、なにを考えてるの?」


 依然、真っ直ぐと彼女は俺を見ていた。

 その真っ直ぐさを今でも覚えている。


「意味のあることは考えてない」


「意味のないことでも、言ってみて」


「アジャラカモクレンテケレッツのパ」


「ホントに意味のないこと言わないでよ」


 彼女は笑ったけど、俺は真剣だった。

 どうやら彼女は落語を嗜まないらしい。

 そんなことを考えながら俺はフライを箸先で摘まむ。


「今、俺が考えてるのは、アジフライは揚げ物の中でも最高ってことだよ。正直、安食のことなんてなにも考えてない」


 わざわざそんなことを言ったのは、きっと、自尊心の大きそうな彼女を傷付けることを言ってやろうという悪心が、俺の中にあったからだと思う。

 しかし、彼女はそんな俺の悪意には気付いた風もなく、「揚げ物ねー」と相槌を打った。


「私はカツが最強だと思うけど。カツカレーならなお最強」


「ああ、そう」


 いい加減我慢の限界だったので、彼女の視線も気にせずにフライに齧りついた。

 快音が口の中で弾ける。

 そんな俺を、彼女は理解できないものを見る目で見ていた。


「ああ、そう……って、それだけ? なんでアジフライが最高なのか、熱弁する場面じゃなかった?」


 俺はちゃんとフライを咀嚼して、飲み込んでから答える。


「なんのために」


「それは……まあ、私をアジフライ派にするために?」


「それになんの意味があるんだよ」


「意味はないけど、でも、人間ってそういう風にしたくなる生き物じゃない? 自分の好きなものを他人にも理解してほしいって感情は至って普通のものだし、悪いことじゃないと思うけど」


「どうかな」


 俺が意味深な返答を返すと、彼女は眉を顰めた。


「というと?」


 促されたので、俺は二口目を諦めて、水で口を潤して長い台詞の準備をした。


「人間は、なんて主語を大きくするつもりはないけど、好きなものを理解してもらいたいって気持ちが、いつの間にか好きなものを押し付けたいって思うようになることもあるんじゃないかと思う」


「押し付けたい……か。たしかにあるかも」


「俺の人生のテーマは」


 そこまで言って、俺は言葉を噤んだ。

 人生のテーマ。それをさっき会ったばかりの彼女に話してしまっていいのか、少し逡巡した。

 最終的に背中を押したのは、別にこいつになら話してもなににもならないだろう、という彼女を軽視する心だった。


 一度、空咳を払う。


「俺の人生のテーマは、押し付けないことと否定しないこと。自分の意見を表明することが大切って巷間よく言うけど、それと同じくらい、俺は争いを避けることが貴いと思う。自分の意見があるのはいいけど、それをわざわざ口にする必要はない。本当に大切なことは、心に秘めておくくらいがちょうどいいんだよ」


 俺の短くてつまらない話を、彼女は真剣な表情で聞いていた。理解に難い意見だということは理解していた。理解されなくてもいいとも思っていた。他人を否定しない俺は、他人の否定に耳を貸さない。だから、彼女が俺の考えを論破しにかかってきてもあしらうつもりだった。


「……なるほどね、寺島くんって、優しいんだ」


 それなのに彼女は、そんなことを言った。


「争いを避けることが貴いなんて、すごく素敵な考え。そんな風に考えてるなんて思ってなかった。ねえ、やっぱり人の心が目に見えたらいいと思わない?」


「なんで?」


「だって、こんな風に、人を好きになれる」


 その『好き』が恋愛的な意味を孕んでいないことはすぐに理解できた。

 だから、照れてしまった。

 そんな風に自分を肯定されることに慣れていなかったから。

 キラキラと子供のように純真で真っ直ぐな目で見つめられて、俺はどうしても彼女の言葉を無下にすることができず、もしかしたら自分の考えが素敵なのかもしれない、なんて、そんな恥ずかしいことを心のどこかで考えてしまった。


 彼女が俺をどれくらい『好き』になったのかは彼女しか知り得ないが、自意識過剰でなければ、どうやら俺に興味を抱いたようで、彼女はそのあと根掘り葉掘りと俺に質問をした。

 それに答える過程で、彼女の情報も入手した。


 栃木県出身、元吹奏楽部、独り暮らし、中華料理店でバイトをしている、映画が好き、洋楽が好き。


 聞けば聞くほど、彼女は普通の女子でしかなかった。だけど俺は、どうしても彼女のことを普通の女子だとは思えなかった。第一印象のせいだろうか。いつの間にか、俺は彼女のことをただのイタい奴ではなく、なにか特別な感性を持った人間だと思うようになっていた。


「じゃあ、またね」


 次の授業に向けて先に席を立った彼女に俺は手を上げて、「うん、また」と返事をしたのは、きっと俺が、この時点で既に彼女に魅かれていたから、かもしれない。また会えたら、そんな気持ちがなかったとは言えない。

 だから、次の週の月曜日。同じ哲学の授業で、ひとりで座る彼女の姿を認めたとき、俺は自然と彼女の隣の席に荷物を下ろした。


「おはよっ、寺島くん。久しぶり」


「一週間ぶりだろ」


「うん。だから、久しぶり」


 どうやら彼女の時間は、俺とは違う流れ方がしているらしい。

 そんなところも興味深いと思わされた。


 子守歌のような講義も、彼女の隣に座っていると幾分か真面目に聞くことができた。彼女は時折、授業内容について小声で俺に話しを振ってくる。それに彼女を呆れさせない答えを用意するためには、授業を真面目に聞いておく必要があった。


 一回目の講義で恥を覚えた彼女は、哲学の授業で手を上げることはなかった。その代わりのように、俺に意見を何度もぶつけた。

 それは戦争のことであったり、差別のことであったり、いじめのことであったりした。宗教の話だったこともある。


 全てにおいて共通していたのは、彼女は常に理想論を語っていたことだ。

 戦争は必要ない。差別はしない方がいい。いじめを根絶したい。他人の信仰を互いに尊重し合える世界にしたい。


「世界はさ、変われるんだよ」


 彼女の口癖だった。

 きっと彼女は現状の世界に不満を抱いていた。いや、それは俺だってそうだ。戦争や差別に溢れた世界が、完璧な姿を持っているとは思っていなかった。だけど、それについて論じることの無意味さについても理解していた。

 俺たちはただの学生。どれだけ世界の変革を謳っても、語っても、それらは言葉以上のなにかになることはない。無駄なのだ。なにもかも。


 一度、彼女にそのことを告げたことがある。

 理想ばかり見ている彼女に現実を突きつけたつもりだった。


「でも、理想を追い求めなくなったら、理想は理想ですらなくなっちゃうでしょ?」


 彼女はそう答えた。

 恬として迷いのない、痛々しいほどに真っ直ぐな目をしていた。


「誰かが理想を追い求めないとだめだよ。世界には色んな人がいて、色んなアプローチで世界をよくしようとしてる。私は、とことん理想を追い求める形で世界をよくしたい」


 世界をよくする。

 そんな漠然とした願いが、彼女のポリシーであり人生のテーマだった。


 やがて彼女と出会ってから、二ヵ月が過ぎ去った。早いものだった。

 俺はいつからか、彼女と哲学の講義以外の場所でも会うようになっていた。連絡先をいつ交換したのかは覚えていない。ただ、大学では一緒に昼食を摂る仲だったし、時には大学の外で会ったりもしていた。

 有体に言って、俺たちは友達になっていた。

 入学して二ヵ月時点、俺にとっては大学内で初めての友達で、唯一の友達だった。


「そういえば、楽器はもういいのか?」


 ある時、一曲歌い終わってマイクを置いた彼女にそんなことを訊いた。

 安食の歌は、元吹奏楽部だっただけあって音程がしっかりとれていて、とても聞きやすい歌だった。洋楽だったから評価はできないけど、きっと上手かったのだと思う。だから、音楽をやらないのはもったいないのではないかと思った。

 俺の手の中で、メロンソーダに浮かんだ氷がカラリと音を鳴らす。


「うーん、オケ部の見学には行ってみたんだけど、ちょっと空気が合わなくて」


 安食は項に薄っすら掻いた汗を拭いながら言った。苦笑いしながら。

 きっと、思ったようなサークルではなかったのだろう。本気で楽器をやる集団ではなく、ただの形骸化した飲みサーだったのかもしれない。安食は馬鹿みたいに真面目な奴で、二十歳になるまでは酒は飲まないと言って聞かなかった。


「ま、変な団体に入って青春を無駄にするくらいなら、真面目に授業でも受けてた方がマシかもしれないな」


「学生の本分は勉強だからね」


 そう言ったものの、安食の表情には多少なりとも残念そうな色が浮かんでいた。


 安食には信念があった。理想とも呼ばれるそれは、彼女の中で常に真夏の太陽のように燃え盛っていた。だけど、彼女にはその信念を実行する方法が欠如していた。胸の裡にある熱情のベクトルの向け方を、彼女は理解していなかった。

 出会って二カ月、俺はそのことに気が付いていた。だから。


「今度さ、俺の家の近くで障碍者福祉ついてのフォーラムがあるみたいなんだけど、参加してみたら?」


 そんな提案をしたのはほんの成り行きだった。フォーラムなんて、俺のような人間には縁がないと思っていたけど、どこかで小耳に挟んだその情報を、俺はどうしてか覚えていた。きっと、安食がそういうのを求めているのではないかと思って、日常的にそういったものを探していたからだと思う。

 そんな俺の提案に、安食はわかりやすいくらいにかんばせを輝かせた。


「それだ!」


「……ん?」


「さすが紅葉! そうだよ! それいいじゃん」


 この頃、安食は俺のことを下の名前で呼ぶようになっていた。彼女なりの信愛の表現だったのだと思う。


「自分たちの頭の中だけの平和や平等を口先だけで語るなんて、腐った大人みたいだなって思ってたんだよね。やっぱ、色々行動しなきゃ。平等について、他の人がどう考えてるのか勉強しよう。そっか、フォーラムか。その手は思いつかなかったな」


「もしかしたらそういう場所には、安食みたいな奴が沢山いるのかもな」


「かもねっ。ありがとう、アドバイスくれて」


 高揚でだろう、彼女は顔を赤らめる。

 俺は少し恐ろしくなっていた。


「いや、まあ……あんま期待しない方がいいと思うけど」


 安食ほどの人間がそうそういるわけがない。そう思ったから、期待の高さ故にその期待に裏切られたときの彼女の失意を懸念してしまって、俺はそんな風に予防線を張った。

 だけど彼女の熱意は、もう俺ごときには止められないところまで進んでいた。


「すごいな。楽しみ。きっと、そういう議論を重ねてさ、世の中ってよくなっていくんだよね。その一助に私がなれるなんて、こんなに興奮することはないよ。フォーラムってさ、意見とか言うんだっけ? それはシンポジウム? いや、どっちにしても自分の意見は纏めてから参加した方がいいよね。障碍者福祉、だっけ? 紅葉はどう? なにか考えてる?」


 安食はどんどんと前へと進んでいく。止まることも振り返ることもなく。俺はそれを特等席で見ていた。


「紅葉?」


「……ん? なに?」


「いや、なに、じゃなくて。だから、紅葉の意見。なにも考えないで呆然と参加しても意味ないし、恥かくかもしれないよ」


「え、待って。俺も参加するの?」


「当たり前でしょ?」


 訝しむような視線を向けると、驚いたような視線を返されたのだから驚く。その目はそのまま、「当たり前でしょ?」と言っているようだった。

 そんな表情をされると、断るのも難しい。


「まあいいけど」


 ぶっきらぼうにそう答えると、安食は向日葵のように笑って見せた。どことなくむず痒くて、俺は視線をそっぽに逸らした。


「じゃ、決まりっ。さっそく現状の福祉サービスについて調べないとね。インターネットじゃ心許ないし……図書館?」


「図書館じゃないだろ」


「じゃ、どこ行けばわかるの?」


「まあ、福祉は行政サービスだし、役所の福祉課に訊いてみるとか、かな?」


「へえ、福祉課……そんなのあるんだ。さすが紅葉。頼りになるー」


 褒められて悪い気はしなかった。頼られるのも嫌いじゃなかった。


 結局、当時の俺は『特別』に憑りつかれていただけで、誰かにそれを満たしてもらえれば、それでよかったのだと思う。

 安食が俺のことを認めてくれる。俺だけのことを。

 だから、俺は安食のことを特別な人間だと思っていた。特別な人間に認めてもらえる俺は特別な人間に違いないから、と、そんなことを意識的に思っていたわけではないけれど、きっと心の裏側にはそういう打算が満ち満ちていたはずだ。


 でも、だけど……それは俺の勘違いだった。


 大人になると、大抵のことはわかるようになる。だから、俺は俺が特別な人間じゃないことを知っている。特別な人間だったことなど、生まれてこの方一度もなかったことを、骨の髄から知っている。

 大人になると、世の中の大抵のことがどうでもよくなる。自分が特別でなければならないなんて勘違いは、真っ先にどうでもよくなることのひとつだ。特別でなくても生きていていいし、生きていかなければならない。

 世の中の大半の人間は、特別じゃない人間だ。当たり前のことだが。特別がありふれていたら、それはもう特別じゃない。

 俺は特別な人間なんかじゃなかったし、きっと、安食もそうだった。


 そうだった、はずなのに……。


「ねえ、紅葉」


「ん?」


「ありがとね」


 カラオケから出るとき、突然、そんなことを言われた。


「別に、感謝されるほどのことじゃないって。自分から探したわけでもないし。フォーラムの広告がたまたま目に入って、たまたま覚えてただけ」


「そうじゃなくて。私のこと、受け入れてくれてありがとうって、そういう話。照れるけどね。紅葉にはさ、私を拒絶する権利もあったわけじゃん? 実際、皆の反応を見るとそれが普通みたいだし。でも、紅葉が友達になってくれてよかった。紅葉がいなかったら、寂しい大学生活になってたよー」


 そういう痒い台詞を、臆面もなく吐けるのが安食のいいところだった。いいところだと思えるくらい、俺は安食のことを認めていた。


「安食……」


「ん? なになに?」


「俺たちただの知り合いだろ? 勝手に友達面すんなよ」


「照れ隠しにしても酷すぎる⁉」


 そう言って笑い合ったことを今でも思い出す。

 真剣に世界の不平等に関して議論を交わして、時に冗談を言い合って、そして、決してお互いの大切なものを否定しない、安食とはそういう友達だった。そういう友達になることができた。

 それこそが、俺が青春に残してきた唯一の後悔である。

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