十月三十日 『最後の審判』まであと一日
日付が変わったことに気が付いたのは、日が昇ってからだった。ホテルで死んだように横になったまま、最後の審判まであと一日となった今日を迎えた。眠ることはできなかった。
安食に背を向けてから半日以上経って、俺の心は深い海の底から浮上していた。怒りは、もうない。ただ、呼吸だけはなぜか苦しいままだった。なにかを口に入れればそのまま窒息してしまいそうで、俺はあれから食べ物も飲み物も口にしてはいなかった。
昨日のことは夢だったのかもしれないと思ったけど、それはただの願望であることはわかっていた。目を閉じれば、安食のあの蔑むような目が、今でも鮮明に思い出すことができる。ただ、別れ際の安食の表情は、それだけは、どうしてか思い出せない。
もうすべてがどうでもよかった。
俺の中にあったはずの感情たちは、深い海の底に置いてきてしまったらしい。
虚無を抱くと、また別の虚無が生まれた。
安食のことも、バオバブのことも、罵り合いをしたことも、取り戻しかけた熱を再び失ってしまったことも、すべてが虚しかった。
結局、安食にとって俺と共に過ごしたあの一年間は熱でもなんでもなかった。バオバブやそれに附随するすべてのことは子供の頃に見る夢のようなものだったのだ。俺の存在なんて、なくてもいいものだった。
俺にとっての人生の熱であるあの瞬間をごっそり否定されると、自分の存在そのものが甚く無意味なものだと思えた。いや、自分自身が無意味なんて、何年も前からそう思っていた気がする。そういう風に、冷めた毎日を過ごしていたはずだ。俺が勝手に、熱を取り戻したと勘違いしていただけ。一度でも、あの熱を抱く感触を思い出していしまったのが厄介だ。無駄をはっきりと自覚してしまった。
無駄だから、もう、どうでもよかった。
明日隕石が落ちてこようが、恐怖の大王が降臨しようが、どうでもよかった。学者によれば、エニグマは明日の日の出前に地球に最接近するらしい。つまり、もう人類の終末まで二十四時間を切っているということだ。
だからなんだ、と思った。
もう、隕石の行方に意識は行かなかった。
落ちてくるのか来ないのか、非常にどうでもよかった。
ただ、明日が俺の人生最期の日かもしれないな、とは思った。エニグマが落ちてこなくても、明日が最期になるかもしれない。死にたいと思っているわけではないけど、生きたいとも思っていない俺だった。
そのまま死体のようにベッドに横になっていると、身体から異音が鳴った。
空腹を身体が訴えているのだと理解した。
理解したが、どうでもよかった。食べるのは生きるためだ。生きる理由を持たない俺が食事をとらなければならない道理はなかった。自分の生理欲求を無視してやると、死に一歩近づいた感触があった。
そのまま一時間が経った。
当たり前のことだが、空腹は満たされない。時計を見ると、十五時になっていた。二十四時間以上、なにも腹に入れていない。だから腹が減るのは当たり前だったのかもしれないけど、一丁前に生き足掻こうとしている自分の身体のことが、反吐が出るほど嫌いになった。
とうとう俺は、苦痛に耐えかねて食事を摂ることにした。
ホテルの部屋にはなにもなかったので、コンビニに買い出しに行くことにした。エレベーターのボタンを押して地上に降りるとき、心の感触に身体が追いついた感覚があった。それで、俺の心は落ち続けているのだと理解した。
街は喧騒を失っていた。最期の審判まであと半日と少し。最期のひと時は、家族と過ごそうと思って、みんな家で過ごしているのだろう。
ふと、俺も瑞樹と最期の瞬間を過ごす世界線があったのだろうか、なんて考えて、その考えを霧散させた。それ以上考えてはいけないと叫ぶ本能の訴えに、耳を貸した形である。
コンビニは無人だった。
客はもちろんいなかったし、店員すらも。こんなときに悠長にバイトしてくれる人間なんて、さすがにいなかったということだろう。俺はおにぎりをふたつとペットボトルの水を手に取って、一万円札をレジに置いた。
ホテルの部屋に戻って、モソモソと食事を開始する。
ひとまず水を飲んでみたが、渇きが癒える感触はなかった。ツナは味がしなくて、ベチャッとした食感が気持ち悪かった。
気を紛らわせるためにテレビを点ける。民法はどれも機能していない。国営放送だけがニュースを垂れ流していて、街が静かだった理由を教えてくれた。緊急事態宣言が発令され、外出禁止令が布かれているらしい。
ニュースはエニグマのことばかり放送していた。
心底どうでもいい隕石のことなんて見ていてもつまらなかったけど、他にやることもないからそれを見続けていた。時間は湯水のように溶けていった。
しばらくして、エニグマ接近まで残り十二時間となった。外は既に夜だった。
どうでもいい。
空っぽな目でテレビを見続ける。一度だけ、ニュースがエニグマ以外の情報を発信した瞬間があった。バオバブのことだった。占拠していた小学校から撤退したらしい。人員不足により、テロリストたちを捕まえることは叶わなかったそうだ。
それを見ても、どうでもいいとしか思えなかった。
ニュースは再び、エニグマの話題に戻った。国営放送は、ひたすらに衝突の心配はないと繰り返している。だが、それが治安を維持するための方便でしかないことは、誰の目から見ても明らかだった。
プロパガンダじみた放送にだんだんと嫌気がさして、テレビを消した。テレビはリモコンの命令に逆らうことなく一瞬で消えた。黒い画面だけが、そこに映っている。
ふと、そういうふうに、ボタンひとつでぷつりと消えてしまうものの気楽さが羨ましくなった。
例えば俺の人生が誰かの書いた物語で、この時点で終幕してしまえば、この痛みや虚無感も大したものではなくなる。それどころか、なにかの教訓としてこじつけて、美化してもらえるかもしれない。
そんなことを思って、矢庭に、エニグマが俺の人生を終わらせてくれないかと思った。自殺なんて大それたことができるわけもない俺の意味のない残りの人生を、強制的に終わらせてほしいと、思った。
むしろ、明日隕石が落ちてこなかったらどうしよう、と不安にすらなった。
俺の人生は、美化されることもなく、いつ終わるかもわからないまま、空っぽで冷たく、痛いまま続く。
終わってくれればいいのに。そうすれば楽なのに。
「……ああ」
今さら気付いた。
安食との関係も、あのときに終わらせるべきだったのだと。
バオバブを抜けたとき、もう安食と関わることをやめたとき、彼女の存在を俺の中で完結させ、美化させ、二度と関わるべきではなかった。
そうしていれば、こんなにも傷付かずに済んだ。
会って、ただ傷付いただけだ。
もしもエニグマが世界を滅ぼさなかったら、俺は傷付いたこの心と共に、普通に日常に戻り、普通に教師を続けるのだろう。瑞樹との関係を修復して、結婚もするかもしれない。そのどの時間軸の俺にも、本来必要のない傷がある。
安食の人生もそうだ。バオバブは続き、俺という存在はどんどん風化していき、いつかなくなってしまう。俺のことも、いつか忘れてしまう。
そのことを想う度、俺の傷は広がっていく。
なんて、遠いのだろう、人生は。
もしかしたら、エニグマは救済なのかもしれない。
いつ終わるとも知れない人生という果てしない旅に、終末というわかりやすい形での終わりを設けてくれた、神からの恵みなのかもしれない。
そんなことを、思う。
いつの間にか眠っていて、そして起きていた。
時間が飛んだような睡眠だった。時計を見ると、二十三時を過ぎた頃だった。もうすぐ、最後の日が訪れる。そのことについて自分がなにを思っているのか、もう、自分ではわからなくなっていた。
意味もなく寝返りを打つと、ベッドの隙間に、一台のスマートフォンを見つけた。俺の物ではない。柴田のものだ。投げつけたまま、そこに放置されていたらしい。
なんとなく拾って、スリープを解除してみた。メッセージが一件、飛んできている。五十嵐からのものだった。『バオバブ結成の場所』の文字と共に、なにかしらのURLが添付されている。
警戒心なんてものはもうどこにもなかった俺は、なんとなくそのURLをタップしてしまう。連れていかれた先は、ひとつの動画ファイルだけが置かれたページだった。
もう一度、なんとなくその動画ファイルの再生をタップする。
その瞬間、目が奪われた。
場所は、どこかの小学校の体育館だった。
そこに、いた。
安食真澄がいた。
『こんにちは、改めまして、バオバブの代表を務めています、安食真澄です』
世界が揺らぐ。
俺は自分の感情の波に酔っているのだと自覚した。
『この度は』
俺は慌てて動画を停止した。
なんだ?
これは、なんだ。
安食とはもう二度と会うことはないと思っていたのに、こんなにも早い再会。心の準備などできようはずもない。
代表としての挨拶。
五十嵐はなにを思っている?
続きを聞くべきなのか、そもそも聞いていいのか。
迷った末、俺は本能に身体を乗っ取られたまま、再生ボタンを押していた。
『こんなときに、このようなことになってしまい、本当に申し訳ありません。皆さんが感じた恐怖、皆さんが失った時間、それらはすべて、代表である私の責任です。本当に、本当に申し訳ありませんでした』
なにを謝っているのか、誰に謝っているのか、文脈からなんとなく察することができた。
ニュースでやっていた。バオバブは、占拠していた小学校から撤退したらしい。その、撤退する前に、安食は拘束していた児童や教師に対して謝罪のスピーチを行ったのだろう。
そう思ったけど、違った。
安食がスピーチを行ったのは、児童や教師に対してだけではなかった。
『あの』
言いづらそうに、言葉が紡ぎ出される。
『バオバブは、本当は、たったふたりの口約束で始まった、小さな、小さな団体でした』
誰もが理解できないようなことを、安食は語り出した。
五十嵐が、俺にこの動画を送ってきた意味がわかった。
この痛みを、五十嵐は俺に与えたかったのだろう。
『夢見がちな大学生の、本当はなににもならないはずの、ただの仲良しチームみたいな、そういう……私の、居場所でした』
心臓が血液を送り出す感触が、具に感じられた。
それは甘い痛みを伴って、全身を駆け巡る。
『その頃から、今に至るまで、私は本当にこのバオバブが好きで、楽しくて、上手くいかないことがあっても、それでもなお、真っ直ぐじゃなくても、けれど確かに前に、進んできたつもりでした』
画質の悪い動画の中で、安食は涙を流している。その涙は、痛々しいほどに透明だ。
『だけど』
数秒の沈黙。
『私は』
安食は団体の代表として、必死に感情の手綱を握っているようだった。
『私は、たくさんの人に力を借りてきたのに、その人たちになにも恩返ししないまま、前だけしか見ずに進んで、置き去りにして、裏切ってきたのだと、思います』
痛い。
痛い痛い痛い。
『本当は特別でもなんでもない私を、たくさんの人が支えてきてくれたのだけど、それを私は無碍にして……誰も傷付けないはずだったのに、いつのまにか、積極的に被害者を作る団体になってしまっていて』
俺は。
『私は、間違っていた』
息をすることも忘れる。
『もちろん、バオバブの理想に賛同して、真剣に、本気で、世界をよくしようと思って、ついてきてくれた人がいることも、わかっています。感謝してもしきれません。だけど、私はもう、ただ、ごめんなさい、私が傷付けてきた人たちの存在を、もう、無視できません。ごめんなさい』
ごめんなさい、という言葉は、こういう場で使うには相応しくないということを、大人になった俺は知っていた。だから、それが、そのひと言ひと言すべてが、彼女の本音なのだと理解できた。
『世界を少しでもよくしようって思ってました。離れていく人も、納得してくれているんだって、勝手に押し付けていて、いつか理想を実現できればって……でも、バオバブは離れていった人を、ただ利用して、犠牲にしていたことを知って。私も、バオバブを利用してきただけだって、やっと、わかって』
浅い、呼吸。
『本当にごめんなさい。無責任だと、自分でも思います。でも、これ以外に、これまで犠牲にしてきた人たちに報いることも、これから犠牲になる人たちを守るために、私に、できることが思い浮かばなくて、だから、ごめんなさい』
涙で何度もえずきながら、安食真澄は、言った。
『バオバブは、解散します。ごめんなさい、私にはもう……』
そのスピーチは、やはり、バオバブの面々に向けられたものだったらしい。
最後に周囲のどよめきをマイクが拾って、それで、動画は終わった。
俺は、久しぶりに呼吸の存在を思い出し、慌てて息を吸った。
内臓が、抉られたように痛い。喉元から不快感がせり上がってくる。これがなんという名前の感情なのか、俺は知らなかった。
身体が、熱い。なのに、震える。熱を忘れたはずの俺の身体が熱を持って、震えている。寒い。熱くて、寒い。身を焦がすほどの熱が、身体を焼き尽くそうとしている。
その正体を、俺は時間をかけて理解した。
それは後悔と、恥だった。
今さらになって、すべてを理解した。自分のすべてを。
俺は安食のことが大好きだったのだ。真っ直ぐで、痛々しい彼女のことが。特別でなくても、俺と語り合った理想と違うことをしていたとしても、今も昔も、安食のことが大好きだったのだ。
なのに、傷付けてしまった。
子供がそうするみたいに、大切なものをわざと蔑ろにしてしまった。
どうしてだろう。
傷付ければ、自分のことを見てくれるとでも思っただろうか。
わからない。
わからないけど、後悔と恥辱だけが、身体を支配する。
痒い。
全身を苛むその感触に、俺は頭を掻き毟った。
やっと理解した。
自分の本音を、やっと。
どんな理想を掲げていても、どんなことをやっていたとしても、何年経っていたとしても、本当は、安食が傷付くところなんて、見たくなかったのだ。




