十月二十九日 『最後の審判』まであと二日――其の弐
目の前に俺のすべてがあった。いた。
安食…………、安食だ。
そこに紛れもなく、安食真澄がいた。
髪型も変わって、化粧も濃くなって、服装も高価なものになっていて、だけどその顔は他でもない彼女で、その声も誰でもない彼女で……しかし理想に目を奪われている彼女も、夢物語を熱心に語る彼女もそこにはおらず、ただ、俺のことを戸惑うような目で見る現在の安食がそこにいた。
対面するのは、九年半ぶりだった。出会ってから、十年と半年が経過している。
どうして遅れたのか、なんて訊く必要はなかった。その理由は、先ほどニュースで見た。とにかくここに来てくれたという事実があって、俺にはそれで充分だった。
俺が突然のことに立ち竦んでいると、安食が一度視線を空に移して、それからまた俺を真っ直ぐと見た。
「えっと、あの……」
言葉を慎重に選んでいるのがわかった。
言葉を選ぶこと。それが、彼女がこの十年で得た知恵なのだとわかって、少し苛立った。
「久しぶり、寺島くん」
寺島、くん。
「……うん」
「あの、ごめん、遅れて」
「いや、別に」
お互いの辿々しさに、心の距離が感じられた。俺たちは、まるで初対面のふたりに見えたかもしれないし、実際、それに近しい関係だった。
なにを言うべきなのか、考える。
「寺島くんは……なんていうか、変わらないね」
「そう?」
「うん。あの、若いまま」
それは、きっと安食がこの十年で覚えたお愛想だったのだと思う。だけど、俺にはそれが侮辱に聞こえた。
それも含めて、また、苛立った。
「安食は……色々、変わったな」
皮肉のつもりだったけど、伝わったかはわからない。
安食はただ「そうかな」と答えた。
「寺島くんは、今、なにしてるの?」
「一応、教師を」
一応、というのは、今は臨時休校になっているという意味だった。同時に、教師という職業に熱心に就いているわけではないという意味でもあった。
「すごいっ。先生に、なったんだね」
「教育学部だから」
「……そうだったね」
安食は、懐かしむように言った。
アンバランスだ。
俺は安食が法学部だったことを、ちゃんと覚えていた。
「元気、だった?」
「…………まあ」
「そっか…………あの、今日、呼び出した理由って……」
安食は耳朶を触りながら、言葉尻を濁す。
本題に入ろうとしていることがわかった。俺は、すぐには答えなかった。安食に言うべき言葉は、昨晩からいくつか考えていた。だけど、それらは彼女と対面した瞬間に、風に吹かれた砂山のようにサラサラと崩れて消えていった。
正面から見た安食の目に、あの日の透明度はなかった。猜疑の色で世間に汚され、濁った彼女の目がそこにあった。
「バオバブ、今、大変らしいな」
言葉は、意識したものとは違った形で出てきた。
責めるような色を孕んでしまったそれは、彼女を突き刺した。
「……うん、ちょっと、色々あって」
「小学校を、占拠したんだって?」
「……うん」
「安食は、今のバオバブについて、どう思ってるんだ?」
安食は、苦しむような表情をした。核心を突いた感触があった。
緘黙して言葉を返さない安食に、俺は畳みかける。
「武器で、暴力で、子供を人質にして……そんなの間違ってるって、お前も本当はわかってるだろ。今のバオバブは、理想を汚してる。誰もが納得できる形で、世界を少しでもよくするんじゃなかったのかよ」
「……今でも思ってるよ。誰もが納得する形で、世界をよくしたい。一緒にバオバブを作ったときから、それは変わってない」
「変わってないこと、ないだろ」
一緒にするなよ、と俺は言った。
「俺は、暴力を肯定したことは一度だってない」
「私だって!」
張り裂けるような絶叫。
俺は、被せるようにして言葉を継ぐ。
「だけど、小学校を占拠してる。理想を叶えるために、暴力を行使してる」
「誰も傷付けるつもりはない!」
「つもりがないだけだろ? 絶対じゃないし、現に、傷ついている人もいる」
瑞樹がそうだったように。
小学校の児童たちも、未曽有の恐怖に震えているだろう。もしかしたら、心的外傷になって、生涯悩まされることになるかもしれない。
「なにかあったら、私は責任を取る」
呻くように、安食は言った。
そんな、子供の言い訳みたいなことを言うなんて、いよいよ呆れる。
「責任を取る? どうやって? もしも人が傷付いたら、お前が癒してくれるのか? 人が死んだら、お前が生き返らせてくれるのか?」
「それは……」
「自分が法で裁かれればいいなんて、思ってるんじゃないだろうな」
裁かれるなら、罪を犯していい――そんなわけがない。
「そんな、つもりは」
安食が、見るからに怯んだ。言い返すことができないとわかったから、俺は彼女がまだ更生の余地を残しているのだと思った。
「お前は、間違ってるんだよ」
言葉を形にして、殴るように安食にぶつけた。
「暴力なんかに、頼るべきじゃなかった」
そんなことは、俺たちにとってただの前提だったはずだ。
「テロ組織なんかを、受け入れるべきじゃなかった」
ひとつひとつ、彼女の過ちを上げていく。
そのすべてを、彼女はきっと理解している。だけど、だからこそ、俺はひとつひとつ突き付けていく。なにが間違っているか、再確認させるために。
そんなことがしたかったわけではないのに。
「理想を謳って、誰も傷付けることなく存在していた頃はなんとも思われなかった。その組織が、下品に膨れ上がって日本中に広がって、善良な市民に迷惑をかけ始めた。理想を貫くのは、そりゃ、誰かの邪魔になるさ。だけど、そんなことは最初からわかってたことだろ。だからこそ、誰にも迷惑をかけない方法で理想を実現するための組織だったはずだ、バオバブは」
言葉がどんどん強くなっていくのは、安食の表情が気に食わなかったからだ。傷ついたような表情が被害者面に見えて、後悔しない顔が青臭く見えて、それが気に入らなくて、俺の言葉はただの暴力になっていく。
それでも、だった。
これまでを吐き出すように、喋り続ける。
「バオバブのせいで傷付いた人がいた。人生を歪められた人もいるかもしれない。それは禁じたはずなのに。誰も傷付けなかったはずなのに。バオバブは、理想を失ったんだ。自分から、捨てたんだ」
「捨ててない!」
いきなり大きな声を、安食が出した。
「理想は捨ててない! 誰もが幸せな世界を今でも目指してる! 戦争も貧困も差別も、この世から根絶したいと思ってる! その先で、恒久的な平和を目指せればと今でも思ってる!」
「平和のために、暴力を行使するのかよ!」
「願ってるだけじゃ無理なんだよ!」
安食がまた叫ぶ。
悲痛なまでに、願いが詰まっていそうな絶叫。
彼女の十年の重みが、そこにはあった。
「間違ってる? 暴力なんかに頼るべきじゃなかった? テロ組織なんて受け入れるべきじゃなかった? なにを、なにを偉そうに! バオバブのこと、十年も放置してたくせに!」
安食は突然顔を上げて、俺を睨み付けた。潤む瞳が、秋の麗らかな陽光を反射して鋭く煌めく。
その眼光は不思議なことに、積年の仇を見る目に似ていた。
「バオバブの中のこと、なにも知らないくせに! 私たちの十年の苦労をなにも知らないくせに! 逃げたくせに! 十年越しに急に現れて、私たちの結果物だけを見て、偉そうに、上から、自分の思考だけ押し付けて!」
呼吸も忘れていたのか、安食が肩で大きく息をした。俺は、安食の言葉を反芻する。何度も何度も。壊れたテープレコーダーみたいに。
自分の思考を押し付ける?
俺が? いつ、そんなことを……。
「バオバブが間違ってるのは、疑いようのない事実だろ。テロ組織だぞ。犯罪行為だ。そこにどんな理想があったって、法を犯していい理由にはならない。それにそもそも、誰もが納得できる形でって、それがバオバブの原型だっただろ。今のバオバブのどこにその理想があるんだよ!」
「変わったんだよ! 色々やった! 理想を追えるところまで追った! だけど、無理だったの! 叶えたいものに辿り着くために、手段と努力とチャンスがいるの! それを、考えてやってきた!」
「でも、結果として、やっぱり元の理想を失ってる」
「変わらないものなんてない! 十年も経った! 変わってしまうことだってあるよ。そりゃ、仕方ないじゃん。でも、変わらないものが偉くて、変わるものが悪いわけじゃない」
「……法に触れるのは悪いことだろ。なにを言っても」
安食は歯の隙間から音を立てて息を吸う。
「法律なんて、現状の価値観でしかない」
そして安食の口から転び出てきたのは、そんな言葉だった。
「……は?」
「法律なんて、あくまで現代の道徳規範だよ。時代によってころころ変わるものでしかない。それどころか、現在の法律こそが格差を生み、差別を助長してるかもしれない」
安食の言ってることの意味は、よくわかった。
わかったからこそ、わからなかった。
「かもしれない、で、お前は人を傷付けるのかよ」
「仕方ないじゃん! それ以外の方法はなかった! 私たちの十年を知らないくせに、今さら現れて、否定だけするなんて、そっちこそ間違ってる!」
「言い訳するなよ!」
「言い訳じゃないっ!」
「言い訳だろ! 誰かを傷付けることを正当化するための言い訳だ! 現在の価値観がどうとか、それ以外の方法がなかったとか、そんなの、傷付けられた人間からしたら関係ない! わかってるだろ! 十年前のお前は、わかってた!」
「それは」
安食がなにかを言いかけたが、一瞬の間も待てない俺は追撃をした。
「変わることが悪いことじゃない? そりゃそうだよ。でも、お前は悪い方に変わった! 昔のお前は、なにがあっても他人を傷つけることをよしとする奴じゃなかった。仕方ないなんて言って武器を振り回すような、そんな下衆な人間じゃなかった」
安食が悶えるように身体を捻った。
心の柔らかいところを突いている感触があった。
そして、彼女もまた、その柔らかい部分を自覚できることを、俺は覚った。
ふと。
言葉を吐き捨てたあとにふと、俺は彼女の反応にひとつの可能性を見出した。
それは俺のただの願望だろうか。
いや、きっと違う。
安食は、気付いているのでないかと、思った。
自分の犯した過ちに、間違いに。
そうだとして、それは今さらだ。
すべてが遅い。現行の日本の司法に照らし合わせてみれば、彼女はきっと、向こう数十年は檻の中だ。もしかしたら、一生。
だけど、俺はそんな安食のことも支えるつもりだった。
そうだった。
俺は、そういう覚悟でここに来たのだった。
「おかしくなったんだよ、バオバブは」
俺は話の向く先を、希望ある方に変えようと思った。
安食が考えを改めてくれたら、ハッピーエンドすらそこにはあるかもしれないと思ったから。
「お前も、変わったんだ」
安食も被害者だったのかもしれない。
急成長する団体の代表として忙殺されるうち、理想を折られ、砕かれ、膝を屈するしかなかった、可哀想な勇者だったのかもしれない。
だとしたら、俺は安食の味方になれる。
彼女は、なにも言わない。
「だけど、もう一回やり直せるんじゃないかと、俺は思ってる」
安食は、依然として悶えるように身を揺らしながら、しかし、俺の話をじっと耐えるように聞いていた。
涼やかな風が一陣過ぎ去る。影に波紋が広がる。
「もう一回、作り直したらいい」
俺の正直な心を、飾ることなく、告げる。
「バオバブを、作り直したらいい」
照れ臭さがあった。真っ直ぐに想いをぶつけることが恥ずかしいことだと、すっかり忘れていた。
細められた安食の目を、俺は真っ直ぐに見る。潤む瞳の中に映る俺の目は、痛々しいくらいに真っ直ぐで、焼け付くほどに熱を孕んでいる。もしかしたら俺も、安食も、あの頃からなにも変わってないのかもしれないと、思えた。
「もし必要だったら、手伝うから……」
言葉を差し伸べると、安食は俯くようにして視線を切った。
なにを思っているのか、なにを考えているのか、わからないけど、想像してみた。
なにかを思い出してくれていればいいと、そう思った。
やがて、安食は再び俺を見た。
それは恥辱に震える目だった。細められた大きな眼に怒りと嫌悪を滲ませて、彼女はひとつ戦慄いた。
「ふざけんな」
一瞬、意味を受け取れずにいると、安食はもう一度唇を震わせた。ふざけんな。だけど一度じゃ足りなかったのか、何度も何度も。
「ふざけんな、ふざけんなっ!」
なにかが噴き出すかのようなその剣幕に、俺は慄いた。
「安食?」
「この十年、君がバオバブにいたらって、何度も思った! だけどそんなの、全部、全部間違いだった!」
「はあ?」
「やり直す? 作り直す? 馬鹿じゃないの! そんなの、できるわけない! 今までの私たちの努力を無駄にすることなんて、できるわけない! そんなこともわからないで、一方的に、上から、助けてあげるみたいな態度で! ふざけんなっ!」
慟哭のような、声。
俺のそれとはまた違う、腹の底から絞り出した、本音。
「私のこと、悪い方に変わったってさっき言ったけど、そっちもじゃん! 君も、嫌な大人になった! 君みたいな奴に、私の十年を否定されたくない!」
金切り声を上げた安食は、いやいやをするみたいに、頭を左右に振った。
君みたいな奴。
十年前の安食は使わなかった言葉だ。そんな、相手の人格を否定するような言葉、安食は、絶対に使わなかった。
変わってしまった彼女のすべてが、突然、気に食わなくなった。あのときとは違う髪型も、あのときとは違う化粧も、あのときとは違う服装も、すべてが気に食わなくて、苛立って、どうしようもなかった。
冷めていく。
彼女は怒ると熱くなるタイプのようだった。俺とは逆だ。俺は、心が怒りに沈むほどに、海の底に落ちていくように、冷たくなっていく。
「俺みたいな奴に否定されるくらい、お前の十年が薄っぺらいものだっただけだろ」
感情を吐き出したら、それは棘だらけの言葉だった。
安食の、表情が変わる。彼女の中で、怒りが、その他のすべての感情を塗り潰したのだと、わかった。
「なにも、なにも知らないくせに」
すめくような、声。
「知らないよ。知りたくもない。お前の十年なんて、結局、暴力に落ちるだけの薄っぺらい犯罪者の事情なんて、興味もない」
「さっきから、暴力がどうとか、誰かを傷付けるだとか、そもそも、バオバブが誰を傷付けたっていうの! 君には関係ないでしょ!」
「小学生に害をなしている最中だろうが、今。それに、関係なくない。俺の彼女が、お前らの馬鹿騒ぎに巻き込まれて怪我させられてんだよ、顔に。一生癒えない傷を付けられてんだよ。お陰で瑞樹との関係も微妙だよ。お前らの掲げた平和のせいで、少なくとも俺たちの関係には亀裂が入った」
彼女ができるだけ傷付くように、恨みを交えてそう言ったところで。
「…………は?」
一音だけ漏らした安食のその反応は、俺の思っていたどれとも違うものだった。張りつめた緊張の糸が、ひと息に切られてしまったような、そんな表情だった。
「……え、ちょっと待って、え?」
安食は自分の髪をくしゃくしゃと掻き回す。その行動に、さっきまで彼女のすべてを満たしていたはずの怒りはない。
ただ、困惑している。
彼女の困惑に、俺も困惑していた。深い海の底から引き上げられ、なにか自分がおかしなことを言ってしまっただろうかと、不安になった。もしかしてなにかの誤解があって、俺たちの言い争いは茶番だったのではないか、なんて思った。
もちろん、違った。
彼女が俺に抱いた怒りも、俺が彼女に抱いた怒りも、なにも誤解ではなかった。ただそこに、また違った誤解が転がっていた。
「え、まさか……」
安食の頬が、小さく痙攣しているように見えた。
「彼女に、フラれた、八つ当たりで?」
意味が、わからなかった。
「…………は?」
今度はこちらが困惑する番だった。
なにを言っているのか、本当にわからなかった。
「彼女にフラれて、そのことで逆恨みして、私に当たってたの?」
安食は、なにを言ってるんだ?
逆恨み、って。
「え?」
この怨嗟に、順も逆もない。
というか、安食のことは別に恨んでもない。強いていうなら、彼女を変えてしまったすべてを恨みはしたけど。
というか、そもそもとして、彼女の言ってることはまるで的外れだった。俺は瑞樹にフラれてないし、よしんばそうだったとしても、そんなことで、安食に八つ当たりなんてするはずもなかった。
「そんな、わけ」
言いかけた俺の目を安食は見ていた。
また、彼女は彼女らしくない表情をした。
「……ダサっ」
蔑むような目が、俺を見ている。
目の前の彼女が、あの大学生の安食と同一人物だとは思えなかった。
だけど、誰がなにを言っても彼女は安食真澄で、安食真澄でしかなかった。
「俺が、そんなことで」
怒りに、再び沈んでいく。
暗くて、静かな海の底。
音はなく、誰もいない、孤独な海の底に沈んでいく。思考が明瞭になって、感覚が鈍くなって、だけども息苦しい、そんな世界に落ちていく。引き込まれていく。
溺れながら口を開くと、水泡は毒の塊となって、水面へと上っていった。
「間違ってた」
冷気と毒を孕んだ声が、他人の声のように聞こえた。
「……なにが」
「安食真澄なら変われるって、勘違いしてた。戻れるって、取り戻せるって、勘違いだった。お前には端から理想なんてなかったんだ」
安食が面食らったような顔をした。
白々しい反応に思えた。彼女にとって、自分のことのはずだから。
「あの頃のお前は、ただ情操が未発達だっただけで、ガキみたいに青い理想を語ってただけ。語って、酔ってただけだ。他とは違う自分が、特別な存在だと勘違いしてたんだろ?」
「ちがっ」
「そんなお前を、俺も、特別な人間だと勘違いしてしまったばっかりに」
ドロドロと溢れ出す俺の泡に、安食はその表情を痛ましいものに変じさせていった。傷付いているのだと、容易に理解できた。
どうしてお前が被害者みたいな顔をしているんだと思い、また感情が怒りに沈んだ。
「なにが理想だ。なにが平和だ。お前は自分のことしか考えてない。誰かのためになることをしてるわけじゃない。だから簡単に、人を傷付けることもできる」
本当の本当は、これが言ってやりたかったのだと、本気で思った。
安食の本当の姿を暴いているのだという実感が、感触が、水圧みたいに身体を圧し潰そうとしてくる。
「お前にもう、理想を語る資格はない。お前にとっての理想は、子供のときの夢みたいなもので、大人になったお前はそれを、とっくに忘れているから」
否定されたら、その言い分を聞いてやるつもりだった。
「…………」
だけど、安食はなにも言い返してはこなかった。ただ、苦しみぬいた表情で、歯を食いしばっていた。それが、俺にとっては肯定に等しかった。
安食は忘れているんだ。あの理想を。
大学の中庭や、カフェや、イベントで語り合った理想を、もう、忘れてしまったのだ。あの熱は彼女にとってはなんでもない子供のお遊びでしかなく、十年経った今、俺だけが忘れることもできずに覚えている。
そのことがどうしようもなく、とてもとても、悔しかった。
「間違ってたんだ、お前がやってきたことも、お前と俺が出会ったことも」
その否定を、俺はなぜかずっと拒んでいたけど、今の俺にとって、それが偽らざる本音のすべてだった。
立ち去る前に、安食の表情を見た。
誰かの心ない言葉を本気で受けとめ、本気で傷付いていたあの頃の安食がそこにはいた。
その表情が見たかったんだと、いつかの俺が思っていた気がするけど、もうどうでもよかった。
安食に背を向けた。振り返ることはなかった。




