十月二十九日 『最後の審判』まであと二日――其の壱
目が覚めた瞬間、今日の予定が思い浮かび、喉元が締められるような感触を抱いた。
緊張しているのだと、理解する。
今日の午後十三時、安食と再会する。指定された場所は、今泊まっているビジネスホテルからそう遠くない植物公園だった。
それまでの予定は、特にない。
だからベッドで横になって、ただ、物思いに耽っていた。
たまに、俺の人生とはなんだったのかと考える。
俺の人生というのはつまり、俺の人生の最大の熱、大学時代のあの時のことだ。
俺はあの瞬間、あの季節のことを、人生の意味そのものと表現するが、果たしてそれはなにか意味のあるものだったのだろうか。誰かのなにかになれたのだろうか。世界をよくすることは、できなかった。
ならばせめて、安食に影響を与えることはできただろうか。
そう思いたいところだが、そうではないことを、俺は知っていた。
安食の人生に、俺は必要なかった。バオバブは、俺と安食で作った組織だ。でも、安食なら、俺がいなくてもバオバブを作ったに違いない。名前が違っても、メンバーが違っても、バオバブと同じものを、きっといつか作っていただろう。
ならば、俺の人生は無意味なものだったのだろうか。
俺はどこにでもいる誰かでしかなくて、誰でもよかった誰かの代わりでしかなくて、俺の存在意義なんて、どこにもなかったのだろうか。
いや。
いいや。
そうじゃない。そうしないために、俺は安食と会うのだから。安食と会って、俺の人生の熱を、必ず、意味のあるものにする。
「理想を、取り戻す」
言葉にすると、大義を抱いた気分になれた。
失ったもの、奪われたもの。
理想。
それを取り戻し、また、バオバブを作り直す。そこには俺の存在意義があって、もしかしたら、居場所があるのかもしれない。
エニグマ接近まで、あと二日。
終るかもしれない世界の末端で、俺は意味のあるのかないのかわからない行動をしている。
どうして?
どうして、終るかもしれない世界で、こんなことをしているのだろう。
俺が安食を説得して、バオバブが元の姿を取り戻しても、すぐに世界は終わるかもしれないのに。理想が再び完全な姿で現れても、エニグマによって、星と共に粉々に砕かれてしまうかもしれないのに。
俺はなんのために、こんなことをしているのだろう。
いや、なんのために、ではなく、どうして……。
「……ああ、そうか」
やっと、理解する。
これはそうか。そうなのだ。
俺はもう、隕石が落ちてもいいなんて思っていないのだ。いつからか、落ちないでほしい、落ちるわけがない、と思うようになっていた。
それはきっと、俺が人生の熱を取り返したから。
二度目の熱、ではなく、あの時の熱が。
俺の魂の熾火は完全に消えてしまったと思っていたけど、本当は、十年の時を心の底で燻っていた。
それが、再燃した。
人類滅亡の可能性という絶望は、俺の熱を吹き消すことなく、新鮮な空気を送り込んでくれた。
「熱い」
身体が、熱というエネルギーを得て歓喜しているのがわかる。
心臓の鼓動が身体を前へ前へと動かそうとする。
現在時刻、十時半。
起床から二時間と少しの時を経て。
「やっと、目が覚めた」
テレビを点けた。
世界は今日も、絶望に浸っているのだろうか。世の情勢を知りたかったわけではない。ただ、世の感情を知りたかったのだ。
世界がどれだけ絶望しているか、言い換えると、世界のどれだけの人が熱を失っているか、それが知りたかった。
だけど、テレビは俺に、もっと直接的に、絶望的な情報を垂れ流した。
『……山小学校には依然、指定テロ組織「バオバブ」が立てこもりを続け、三時間が経過しました。今のところ死傷者の発表はありませんが、約百名の児童は解放されておらず、膠着状態が続いています。「バオバブ」は総理との直接対話を要求しており、この状況を受けて内閣官房長官は……』
唖然とした。
立てこもり……それも、小学校で。
エニグマ最接近まであと二日という今に至っても児童を登校させている小学校にも驚いたが、そんな思考が吹き飛ぶくらい、バオバブの横暴に驚いていた。
人質を取って国家転覆なんて、いよいよもっていよいよだ。
ふつふつと怒りが湧いてきた。
その怒りに任せて、柴田のスマートフォンを掴み、五十嵐に電話をかける。しかし、繋がらなかった。
「くそっ!」
スマートフォンを投げつける。
物に当たっても、怒りは発散されなかった。
安食に会わせてくれる約束はどうなったのだろう。
焦りが脳内を支配する。
焦っても、もう俺にできることはない。ただ、約束の場所に向かうことが俺にできる最善のことだ。
そんなことがわかっても、怒りは収まらない。
ぐちゃぐちゃした心に整理が付かないまま、俺は予定よりも早くビジネスホテルを出た。本来は、昼食を摂ってから向かうつもりだったが、なにも腹に入る気がしなかった。
線路沿いの住宅街を、息を弾ませながら進む。気持ちが前のめりになって、足取りは速まっていく。
線路の向こう側に、低い柵に囲まれた敷地が見えてきた。百メートル四方の敷地に、様々な種類の木が植えられた植物公園。地面は天然芝で、昼間は無料開放されている、市民の憩いの地だった。
そういえば。
大学生の頃、安食はこの公園が好きだと言っていた。一緒に訪れたことはないけど。
どこで線路を渡ればいいだろうか? 俺は周囲を見渡す。住宅街だというのに、ほとんど人気はなかった。ゴーストタウンを歩いているかのようだ。世界の時が止まってしまったかのようにも思えた。
そういえば、先ほどから線路沿いを歩いているが、一度も電車が通っていない。電車の車掌がストライキを起こしたのだろうか。それなら、線路を横切ってしまおうか? そんなことを考えながら歩いていると、線路の下を潜るトンネルを見つけた。
トンネルの中を歩く。
俺の焦りは足音となって、トンネルの中を反響し、俺の耳朶を揺らした。
とうとう植物公園の正門に辿り着いた。待ち合わせは公園の中心。ここから三百メートルほど先にある。
左右に様々な種類の樹木が植えてある遊歩道を、息を整えながら歩いて行く。されど、呼吸は加速していく。
目的の広場には、数分で辿り着いた。
芝生が敷き詰められた空間。その中心には、直径五メートルほどの丸い花壇があり、色とりどりのコスモスによって彩られていた。
ベンチに腰を下ろし、目を閉じる。
安食は来るのだろうか。
不思議なことに、来てほしい気持ちと同じくらい、来てほしくない気持ちがあった。
安食は、来ないかもしれない。
今はバオバブにとって忙しい時期だ。
五十嵐が言っていた。
その通りだった。俺が思っていたよりもずっと、バオバブは忙しかったらしい。小学校に立てこもるなんて、予想できるはずもないけど。
総理を呼びつけて対話するなら、安食は小学校に詰めてないといけない。
だから、ここに現れるはずがなかった。
それでも安食なら、なんて、甘えた考えが俺の中にあったことは否定できない。俺は事ここに至ってまだ、安食に幻想を抱いていた。真っ直ぐで純粋な彼女を、俺はまだ夢見ていたのだと思う。
そのまま、数時間の時が過ぎた。
雲が流れ、コスモスが風に戦ぐ姿を、俺は眺めていただけだった。
約束の時間からは、三十分が過ぎていた。
安食はもう、俺のことを見切ったのだと理解して、少し悲しくなった。
やり直せると、思っていたのに。
本気でそう信じていたのに。
バオバブは、もう、取り返しの付かないところまで行ってしまった。ここに安食が現れたとしても、なにか変わることはなかっただろう。
それでも、最後に彼女に会いたかった。
苦い、苦い後悔だけが脳裡に残留する。それに反比例するかのような熱い思いが、身体を灼き尽くす。気温が上がっているような気がした。さすがにもうそろそろ帰ろう。帰る家もないけれど。
これから先、どうしようか。
それでもしつこく、安食を追いかけることはできた。
可能不可能は措いて、バオバブの凶行を止める方法を模索することもできた。
だけど、俺はそれ以外の選択肢も頭に浮かべていた。安食に会いたくて、そして会いたくない自分の気持ちに気付いたとき、これが引き際なのではないかと思えてしまったから。
大人しく、大人らしく、すべてを諦めるべきなのかもしれないと。
とにかく、一度ホテルに戻ろう。
そう考えて踏み出した俺の一歩を、
「あの」
止められることもなく、俺は過去を踏んだ。
振り返るまでの刹那が、永遠にも感じられた。
安食と共に駆け抜けた一年が、その数瞬の間に脳裡を過ぎ去ったような気がした。忘れかけていた彼女との思い出を、その瞬間だけすべて取り返したような気がするけど、それが本当かはわからない。
わからなくても、人は目の前に突き付けられた真実から逃れることはできない。
振り返った先のことを、俺は受け入れなければならなかった。
安食真澄が、そこにいた。




