空中分解するオラトリオ
時を経るにつれ、俺は大人になっていた。
きっと、皆そうだった。大学生活というモラトリアムの中で、俺たちは少しずつ、蛹が蝶になるように少しずつ、自分という存在を社会に適合できる形に変化させていく。
安食が理想を捨ててしまったように、俺も自身の特異性を捨ててしまった。特別を求めることを、少しずつやめてしまった。他の誰でもない自分、ではなく、他の誰かの代わりになれる自分の方が、社会に求められていると理解し始めていたから。
俺は自分の『特別』を求めなくなったし、誰かの『特別』に惹かれなくなった。
ゆっくりと熱が冷めるように、俺は変わっていった。
だから、もはや特別ですらなくなってしまった安食に、俺が興味を失うのも道理だった。最後に俺と安食が対話したのは、二年生の、夏のことだったと思う。
もう、なにも特別ではなくなってしまったバオバブと、安食に、俺が決別の言葉を告げた日。
その意思は計画的に伝えられたものではない。
タイミングは偶然だった。そのとき、俺たちは珍しくキャンパス内で遭遇した。駐輪場から講義棟に向かう途中の道。蝉時雨をよく覚えている。
「あ」と一瞬だけ戸惑いの声を上げたあと、安食は誰にでもできるような自然な愛想笑いを浮かべて、「お疲れ」と俺に近づいてきた。
「……お疲れ」
「なんか、会うの久しぶり? 十年ぶりくらいに感じるなー」
「かもね」
十年前は俺たち出会ってもないだろ、なんて、ツッコミを入れてあげる気分ではなかった。
俺はただ、安食から半歩だけ距離を取った。開いたその距離を、安食が再び詰めてくることはなかった。
「紅葉は、次、授業?」
「うん」
「哲学?」
「うん」
「じゃあ、一緒だ。久しぶりに隣に座る?」
「それも悪くないかもね」
口先ではそう言ったが、本当に隣に座るつもりは俺にはなかった。安食がどう思っていたのかは、知らない。
先に歩き出した安食の背中を、会話がギリギリできる距離で追いかける。そのときの俺たちを傍から見ていた人間は、俺たちの関係をどう思ったのだろう。友人や恋人には見えなかったはずだ。一緒に世界平和のための組織を作った関係にも。俺たちの感情は、それよりも一歩遠いところにあった。
先にその会話を切り出したのは、安食だった。
「紅葉さ」
「うん」
「最近、バオバブ来ないね」
それは事実だったから、俺はただ「うん」とだけ答えた。
「どうしてとか、訊いてもいい?」
どうして。
その言葉が、決定打だったように思う。
誰に理解されなくても、その言葉が俺の感情を揺り動かした。迷いを打ち払った。どうして、なんて、他の誰に言われても構わないけど、安食にだけは言われたくなかった。わかっていて欲しかった、のだと思う。
「……あのさ」
きちんと誠実に意思を伝えるために、俺は立ち止った。
その気配を察したのか、安食も足を止めて振り返った。十歩ほどの距離が、俺たちの間にはあった。
「俺、バオバブ辞めるから」
そのときの、安食の表情を今でも覚えている。
怒ったようでもあり、悲しんだようでもあり、困惑しているようでもあった。色々な表情を含有した、彼女特有の表情がそこにあった。
でも、俺はもう知っていた。
彼女が特別ではないということを。
きっと、彼女はちょっと情操の発達が遅いだけの人間だった。理想を失わない心の強さを持っていたわけではない。子供みたいな夢を、十八歳になっても見ていただけだった。
そして、様々な経験をして、大人になって、変わってしまった。
どこにでもいる、ありふれた大学生に。
どこにでもいるありふれた人間に、世界平和が達成できるとは思わなかった。誰にでもできることは、誰かがやってくれているはずだから。だから、俺は安食の理想を共に追いかけるのをやめた。無駄な時間を過ごすことになるのは、ごめんだと思っていたから。
冷酷だと、思われてしまうだろうか。
しかし、結局は俺が正しかったということは、その後のバオバブの活動によって証明された。戦争も、貧困も、差別も是正されないまま九年が経ち、十年目にして、テロ組織を吸収し始めてしまった。
安食に見切りをつけた反面、俺は少しだけ安食に期待していた。安食なら、あるいはなにかを変えてくれるかもしれないと。いつか理想を取り戻して、世界をよくしてくれるかもしれないと。そのとき、そばにいなかった俺が出しゃばるつもりはなかった。ただ、一時だけ彼女と共に理想を追いかけた存在として、密かにそのことを誇りに思うことにしていた。
結果として、バオバブはテロルに堕ちた。
誰も傷付けないという原理を無視して、世界の終末を利用し、国家を転覆して世界を変えようとしている。
目的が変わっていなくても、手段を妥協してしまったら、それはもう、純粋な理想とは呼べない。暴力のない世界を、暴力によって成し遂げるなんて、絶対に間違っている。
間違っているに、決まってる。




