十月三十一日 『最後の審判』
なにもわかっていなかったんだ、俺は。
そして、やっとわかった。
心と身体が訴える悲鳴を全身で感じながら、俺は衝動的にホテルを飛び出した。
走り出す。
目的地は定まっていた。
バオバブ結成の場所。
本当は、明確に結成の場所なんてあるわけがなかった。だけど、俺にはなんとなくわかった。バオバブはあの瞬間にできたのだと。
骨が軋む。肺が痛い。
だけど、エニグマ接近まであと数時間しかない。外出禁止令により、公共交通機関も止まっている。あの場所まで辿り着くためには、ペース配分など気にしている場合ではない。
酸欠で狭まった視界の先に、迷彩服の集団が見て取れた。路肩には装甲車も停まっている。
最後の瞬間まで治安を維持するために、街に自衛隊が派遣されているのだろう。見付かれば面倒なことになることは容易に予想が付く。
俺は素早く首を左右に振り、それを見つけた。
地下鉄への入り口。
俺はそこに飛び込んで、階段を飛ぶようにして降りていく。息を切らしながら改札を飛び越え、ホームに立った。それから、迷わず線路に飛び込む。そして、線路の上をひたすらに走った。
息が苦しい。
走るのも苦しい。
だけど、止まるわけにはいかない。
止まるわけにはいかなくても、人体には限界というものがあって、体力がとうに底を突いている俺は、歩くような速度で走り続けることしかできなかった。
辛くて、辛くて、涙が出てくる。
この涙がどちらのものなのか、俺にはもう、わからなかった。
早く、早く、安食に会って話がしたい。
誠心誠意、謝りたい。酷いことを言ってしまったことを、せめて、世界が終わる前に。
最寄りの駅に到着し、地下から出たとき、空には白く輝く天体が見えた。
エニグマ。その大きさは既に月ほどの大きさになっている。『最後の審判』までのカウントダウンは、着実に進んでいた。
間に合うかもしれない。
そんな希望が湧いた瞬間、派手に転んだ。アスファルトに頬を擦り付けて、痛くて、みじめで、それでもと、俺は立ち上がる。
そこに入るのは、卒業以来だった。
大学のキャンパス。しばらくぶりでも迷う心配はなかった。色褪せてしまっても、まだ、俺の中にあの日々は残っている。それに、目的地は特に。一年生の頃、俺はその大講堂で行われる講義を、密かになによりの楽しみにしていた。
誰もいない大学のキャンパスの中。かつて、一般教養の哲学の授業を受けていたその場所に、俺は再び戻ってきた。
ここは、俺と安食が出会った場所。
そこに、いた。
彼女はひとり、ぽつんと、電気も点けないで暗いまま、窓辺に座って、空を眺めていた。
間に合った。そして、いてくれた。
安堵でへたれ込みそうになりながら、重い脚を引き摺って、彼女に近づいていく。
「……寺島くん」
俺に気付いた安食は、気まずそうに片手を上げた。
俺はなんとも言えない表情をして、「ん」と言って彼女に近づく。
「……そこ、譲ってくれよ。俺の席だし」
言うと、彼女は目を一度丸めて、それから苦笑した。
「ん、たしかに、窓際は君の席だったね」
安食に譲ってもらった席に座る。彼女は、その隣に腰を下ろした。十年ぶりだった。
「あのときも、外を見てたよね」
「ん?」
「初めて会ったとき、君、授業そっちのけで空を見てた」
「そうだっけ? 俺、外で遊んでる連中を見てた気がするけど」
「ううん。空を見てたよ。よく覚えてる」
「………」
「きっとさ、思い出ってそんなものだよね。消えないようにって、何回紡いだって、綴ったって、いつか、忘れてしまうものなんだよね。今日、こうして一緒に最後の審判を迎えたことも、きっとさ、私たちがよぼよぼのおばあちゃんになる頃にはさ、私が先に来たのか、君が先に来たのか、どっちだったかもわからなくなってるんだろうね」
安食の言っていることは、正しい気がした。
俺たちはいつか、この日すら忘れてしまう。あの日々を俺が忘れかけているように。彼女も。
そのことがどうしようもなく悲しい。
悲しくて、愛おしい。
今日、世界が終わらなくても、いつか終わる。
俺たちは必ずいつかは死ぬし、死ぬ前に、今日という日を忘れてしまう。
ならばこの日、このときに、意味なんてないのかもしれない。
それでも。
「なあ、安食」
「ん?」
「ごめん」
言葉は、想像していたよりも簡単に出てきた。
そして彼女も、想像していたよりもずっと落ち着いて、その言葉を受け止めてくれた。
「私こそ、ごめん」
なにについて謝っているのか、お互いに口にはしなかった。
その必要がなかったから。
ふたりで揃って窓の外を見る。エニグマは、既に空の数パーセントを占めるほどに地球に近づいていた。
もうすぐ、人類の運命が決まる。
「告白するとね、ひとりは怖かったんだ」
安食は言った。
「もしも世界が終わるなら、その瞬間は、誰かといたかった。誰でもいいってわけじゃないけど、紅葉なら、安心できる」
「もう怖くない?」
「怖いよ。少しね」
「あっそう。俺も怖い。少しだけな。でも、この瞬間を安食と一緒にいられてよかった」
傷付け合った俺たちは、どちらからともなく手を握り合う。
求め合い、傷を舐め合う。
もしも世界が終わるなら、そのときは、彼女と共に。
もしも世界が続くなら、俺はこの瞬間を、いつか忘れるその瞬間まで覚えていよう。
そしてエニグマが赤く光る。
とうとう大気圏に突入したのだろう。
空が深紅に燃え上がる。それは恐ろしくも美しい光景だった。
このままエニグマは衝突するのか、それとも大気を削って宇宙の彼方へ飛び去って行くのか。
その行方は誰も知らない。
エニグマは輝く。熱く、その生のすべてを燃やすようにして。
最後の審判が訪れる。
俺は安食の手を強く握った。
彼女も俺の手を強く握り返した。
もう、なにも怖くない。
以上で本作は完結となります。
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