十月二十八日 『最後の審判』まであと三日――其の壱
身体に鉛でも仕込まれているかのように重怠い。
たった一日、机と段ボールをベッドにした廃墟で寝泊まりしただけで身体にガタがきているようだ。自分はもう思ったほど若くない、なんて、日々思う毎日である。
八時半。
入眠したのは時計の針が頂点を巡る前だったから、九時間近く眠っていたということである。こんなホームレスみたいな生活でも熟睡できる自分のバイタリティにはいっそのこと感心できてしまう。
顔を洗いたい気分だったが、水道が止まっているのは確認している。買っておいたペットボトルの水も無駄に使うのは気が引けるため、身支度を整えるのは諦めた。
今さら、ホテルに泊まればよかったなんて思った。
ポケットに押し込んだ数万円でもビジネスホテルに宿泊するくらいのことはできるだろう。節約のために廃墟で寝泊まりするつもりだったが、そんな無理が効くはずもなく、といったところだった。
スマートフォンの画面を眺めながら、朝食として買っておいたおにぎりを口に押し込む。水で喉を潤していたら、唐突に、こんな惨めな朝を迎えている自分に悔しさを感じた。どうして、こんなことに……。
瑞樹と微妙な関係になってしまったのも、家を焼かれたのも、なにもかも、バオバブのせいじゃないか。
そう思って、そう思った自分に悔恨を抱く。
バオバブの結成は、俺の人生の熱だ。つまり、俺の人生のすべて。今のバオバブは間違っている。今の安食は、もうかつての彼女じゃない。だけど、その存在、誕生そのものを否定してしまうことは、俺の人生すべての否定に繋がる。
そうじゃないはずだ。
きっと、バオバブを作ったことには意味があるはず。俺が取り戻すのだ。かつての、理想を追い求め、世界をその理想だけでひっくり返すことを目的とした、俺と安食のバオバブを。
そう思うと、魂の端っこに熾火が起こった気がした。
軋んだ身体に力が漲る。
おにぎりをもうひとつ口に押し込んで、立ち上がった。窓の外を眺める。曇天。分厚い雲が、まるで俺の頭を押さえつけるように空に広がっている。なんとなく不愉快な気分になって、俺は近くにあった椅子を軽く蹴った。
ふと、なにか音が聞こえた。
話し声、だろうか。微かながら、確かに物音が耳朶を揺らす。一階から、だろうか。喉を鳴らす。追っ手かもしれない。
俺は慌てて隠し場所から拳銃を取り出してそれをズボンのベルトに突き差すと、ゆっくりと音を立てないように一階に降りていった。
物音に段々と近付くにつれ、それが子供の声だということがわかってきた。
キンキンと引っ掻くような耳に障る音。これが嫌いで、俺は中学教師ではなく高校教師の道を選んだのだった。
元学習塾だったこのビルは、一階が受付兼職員室になっている。受付台に囲まれたブースの中で、中学生くらいの男の子が五人……いや、六人。ひとりは、椅子に縛り付けられて、猿轡を噛まされていた。
「よし、じゃあ、始めるか」
ひとりだけやけに身体が大きい男子がそんなことを言った。もしかしたら、彼だけは高校生かもしれない。
「一発ずつ殴ってくぞ。血ぃ出たら十点。歯ぁ折ったらニ十点な」
縛られた男の子が、ガタガタと椅子を揺らして藻掻く。
高校生は、それをみてケタケタと不細工に笑った。
「先行は田端にやるよ。あ、アドバイスだけど、最初は加減した方がいいぜ。その方が長く楽しめるからな」
「……っす」
「あ? なぁにビビってんだよ。ダイジョブだって。サツはなんか忙しそうでこんなことに構ってる暇ねぇし、殺さなきゃ問題にならねぇよ。つぅか、殺しちまっても、俺たちどうせ未成年だしな!」
高校生は、またケタケタと笑った。嫌な笑い方だった。
だいたいの事情を、俺は察した。彼らは不良で、高校生は彼らの先輩で、真ん中で縛られている男の子をいじめようとしているのだろう。話を聞いている限り、いじめで済むかどうか怪しいところでもあるが。
高校生の彼は見たところ螺子の一、二本は飛んでしまっているようだが、他の四人はやや及び腰だ。あまり積極的に彼を殴りたいと思っているようには見えないが、高校生の彼が怖くてやらざるを得ないと考えているような感じ。
「おら、田端、やれって。次は香坂な。拳温めとけよ。怪我すっぞ」
「は、はい」
「じゃ、始めようぜ。どうした、田端。ビビんなって。俺がいっから、なんともねぇって。こいつのことシメたいって言ったの、お前だったよな?」
「……す」
「拳の握り方わかるか? 親指は握り込むなよ。つぅか、やっぱ俺が一回やって見せるのがいいか。うしっ、俺が一発殴って手本見せてやっから、ちゃんと見てろよ、お前ら」
高校生はまたケタケタと笑う。縛られた少年は椅子をガタガタと揺らす。その目には恐怖と涙が浮かんでいる。
これ以上見ていたら、暴力が始まってしまいそうだ。この場から離れて警察に通報することもできるけど、それでは彼が数発は殴られることになってしまいそうだ。そう思って、俺はわざとらしく空咳を払った。
「あん?」
全員が一斉にこちらを見た。俺は短く息を吸って、口を開く。
「なにしてんだ、お前たち」
「はあ? 見てわかんないの、おっさん」
おっさん、にイントネーションを付けてのセリフだったけど、まるで効かなかった。それでこちらが気分を害すると思っているところが、なんだか可愛らしいと思えるくらいだった。
「見てわからないから聞いたんだよ」
「教育だよ、教育」
「勉強を教えてあげてるようには見えないけど?」
「馬鹿じゃねぇの? こいつが生意気だから、シメようって話。ほら、上下関係って大事なんだろ? 弱肉強食だよ、弱肉強食」
「弱肉強食っていうのは、食物連鎖に貢献できる生き物が使う言葉なんだよ。強者だって下の階層の生き物の役に立ってる。お前は誰にどんな社会的貢献をしてるんだ? 弱肉強食っていうのは、働いてもいない子供が使う言葉じゃない」
「ああ⁉」
高校生は凄む。
残念だけど、高校生がどれだけ子供なのかを職業柄知っている俺には、その恫喝は通用しない。彼の内心にあるのは、卑屈さだ。他人より劣っている自分に対するコンプレックスが、他者への害意として発露していしまっているだけ。それを理解すると、怖くはない。
唯一恐れるべきことがあるとしたら、それは若者特有の後先を考えない暴力だが、それも今の俺には……。
「不良っていうのはさ、こう、社会システムに不満があって道を外れるわけだろ? 不満があって反抗するのは理解できるけどさ、お前ら、結局は外れた道の先で同じような社会を作るよな。上下関係とか、お前がそれを語るのって矛盾なんじゃないのか?」
「なに言ってるのかわかんねぇんだよ、おっさん!」
「だよな……」
「殴られたくなかったらどっかいけ。今なら見逃してやるよ」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」
言いながら、俺は腰に手を当てた。硬い感触が、触れる。
「撃たれたくなかったらどっかいけ。今なら見逃してやるよ」
拳銃を引き抜いた。
できれば、こんなものを子供に向けたくなかった。だけど、これ以外の方法が思い浮かばなかった。
暴力は悪いことだ。なぜなら、暴力より強いものがこの世に存在しないから。
「……はあ? そんなモデルガンでなにするつもりだよ」
高校生が強がったような声を上げる。
たしかに、まさか本物の拳銃を持っている人間が日本にいるなんて思うはずがないだろう。高校生の言葉に、他の中学生も安堵の色を目に浮かべた。
「そんなオモチャで――」
高校生の言葉を遮ったのは、銃声だった。
重く轟くような火薬の音が響き、壁に弾丸が食い込んだ。
うっかり当ててしまう可能性はあった。
だけど、俺は迷いなく引き金を絞った。当たらないように狙いをつけたつもりだったけど、素人の狙いだ。狙いが逸れて殺してしまう可能性もあった。もしそうなった場合どうするつもりだったのか、俺はあまり考えていなかった。
硝煙の匂いが廃墟に燻る。
一瞬の静寂のあと、四人の中学生が蜘蛛の子を散らすように逃げていった。椅子に縛られた男の子と高校生だけが、ポツリと残されている。
俺は照準を高校生に合わせ、撃鉄を下ろし、言う。
「どっかいけよ」
凄む必要はない。必要な言葉を、耳に届く声量で言えば、それで充分なのだから。
高校生は何度も転びながら走り去っていった。死にかけの蝉が最期の瞬間を藻掻くようなみっともなさではあったが、文字通り命が懸っているのだから、ここは公平に仕方ないと思って上げるべきだろう。
俺はその背中を冷たく見送ったあと、深く、深く息を吐く。さすがに、緊張した。
拳銃の撃鉄を上げ、腰に差す。
それから椅子に縛られている男の子に近づいて、ビニール紐で縛られている腕を解放した。男の子は解放された手で猿轡を外すと、まず、俺に猜疑的な視線を送った。
「あんた、バオバブ?」
ひと言目がそれだった。
お礼ですらなく、刺々しい口調。敬語ですらなく、二人称は「あんた」だ。なるほど、たしかに生意気である。
しかし……バオバブ?
俺はバオバブのメンバーではないが、繋がりはある。だが、どうしてそれがわかったのだろうか。
「どうしてそう思う?」
「その銃、ルガーでしょ? スタームルガーLCR。バオバブが密輸入してるやつ。それ持ってるってことは、バオバブの人なんでしょ?」
煙たがるような口調。
その口調だけで、彼がバオバブという組織を快く思っていないことが理解できた。
「いや、俺はバオバブじゃないよ。これは拾っただけ」
「あっそう」
少年は興味なさそうに言った。信じてなさそうという意味でもある。
「ところで、君はどうしてこの銃がバオバブの物だって知ってるんだ?」
少年は目を背ける。言いたくなさそうだった。
それでも根気よく待っていると、少年は渋々と口を開いた。
「親父が……バオバブの、まあ、ちょっと偉い人間だから……」
「銃も見せてもらったことがある?」
「………」
少年は無言のまま頷いた。
「日本政府を乗っ取って、世界を変えるとか寝言ほざいてる、クソ親父だよ」
汚らわしいものを語るように、少年は吐き捨てる。
もしかしたら、彼がいじめられていた原因もそこにあるのではないかと思った。それ故、彼は自らの父親を憎んでいる。かもしれない。
俺の脳裡に、閃くものがあった。
ご都合主義的に目の前に降って湧いた、千載一遇のチャンス。
「君のお父さんって、バオバブだと偉いの?」
「そう言ってるじゃん」
「それって、どのくらい偉い? 安食とか、五十嵐とかとは会える?」
「アジキって代表の安食? それは知らないけど、五十嵐って人の名前なら、親父の口から何度か聞いたことある、かも」
細く、細く息を吐く。
俺の目の前には細い糸があった。これを辿れば、もしかしたら……。
算段を立てる。銃をぶっ放したときにすら感じなかったほどの動機が、心臓を襲って身体を揺らした。俺はそのイメージを離さないように、少年の「なに?」も無視して脳をフル回転させる。
ゆっくり吟味して、勘案して、それで、いけそうな気がした。
手が届く、彼女に。
「君、名前は?」
「は?」
「ああ、俺の名前は寺島紅葉。紅葉って書いてクレハって読む」
「いきなりなに?」
「いいから、名前」
「……柴田浩介」
「柴田……ね」
バオバブに関する記憶を引っ張り出してみても、その苗字に心当たりはない。記憶はもう朧げだから自信はないが、きっと、俺が抜けた後に入った人間なのだろう。
「柴田、お前は、お父さんのこと、嫌いか?」
「はあ?」
「お父さんのこと好きか嫌いかで言うと、どっちだ?」
「……嫌いだよ。当たり前だろ。世界をよくするとか、カルトみたいなこと言ってる団体に嵌っちまった馬鹿な親父だぞ」
カルト、か。
そう見えてしまうのだろう。それも仕方がないと思う。世界をよくする、なんて、漠然としすぎている。だけど、カルトというその表現が、彼にとって今のバオバブがそう見えてしまう事実が、俺の喉に引っかかって、簡単には飲み下せない。
その違和感を喉に引っ掛けたまま、俺は彼の目を見る。
「なら、少し手伝ってほしいことがある」




