十月二十七日 『最後の審判』まであと四日――其の弐
矮躯の老人が小さな交差点でぼうっと立っているのはわかっていた。生気を感じられないため、生きているのかすら疑いたくなるような立ち姿だったが、まあ、貧血でも起こしたのだろう、と脇を通り過ぎかけたのだが、そこでその老人が「あの」と声をかけてきた。
俺は溜め息を吐きたくなる気持ちを飲み込んで、老人に向き直る。
「道を教えてほしいんだけれど」
老人は言ってくる。
見ると、思ったよりも若い見た目をしていた。六十代、だろうか。生気がないのは気配だけで、顔色も別におかしいところはない。
「道ですか?」
「はい、お忙しいですかな?」
「いえいえ」
道で困って立ち尽くしている人間に自分から話しかけるほどの独善性は持ってないが、助けを乞われたら応えるくらいの良識は持っている。
「病院の場所がわからなくて」
「病院……」
交差点の信号を見ながら、俺は周囲を見回す。病院らしき建物は見当たらない。
「何病院ですか?」
老人は整形外科の名前を口にする。俺はスマートフォンを取り出して、地図検索を始めた。該当の病院はすぐに見つけることができ、「あ、ここみたいですね。近いですよ」と言いながら老人に近づいた。
そのとき、老人の身体が前に揺れた。お辞儀をしたのかと思ったがそうではなく、そのまま蹲るように屈みこんでしまう。突然のことに俺は目を白黒させ、「大丈夫ですか?」と、意味があるのかないのかわからないことを老人に言った。
老人は胸を押さえ、無言のまま深く呼吸をしていた。
「おいおい、なにしてくれてんだよ」
行儀がいいとはとても言えない声が後ろから聞こえてきて、振り向くと、脇腹に強い衝撃を受けて、もんどりを打って尻餅をついた。アスファルトの孕んだ冷気が、俺の身体をゆっくりと侵食する。自分の置かれた状況に驚いて、俺は咄嗟に、顔を上げた。そこにはガラの悪い男がふたりほど立っていた。
細かいことはよくわからないが、暴力を受けたことはわかった。人は勝手に倒れたりはしないから。おそらく、蹴られたのだろう。他人事のようにそんなことを思った。
「いきなりなにするんですか」
パニックになりそうな自分を諫めながら立ち上がる。敬語を遣ったのは社会人としての習慣であったが、咄嗟に相手に諂ってしまったような気がして気分が悪くなった。
向き合った男は口にマスクをしている。黒のスーツ姿だった。かけている眼鏡は、よく見ると伊達だとわかる。ふたりのうちひとりはいつの間にか俺から守るように老人のそばに立ち、ひとりは威圧するように俺の正面に立っていた。
「お前、この人に怪我させただろ」
正面に立った方の男が言った。
「俺が?」
「背中叩いたの、見たぞ」
「誤解だ」
「誤解なわけがあるか。どんな理由があっても、老人に暴力を普通なんて、クソ野郎だ」
「だから、それが誤解なんだよ。そもそも、あなた達はいったい?」
「俺たちはこのじいさんの知り合いだ」
ちらっと老人を見た。彼は俯いたまま依然無言だった。
そこでやっと、俺は事態を把握した。老人がなにも言わないということは、つまり、グルなんだろう。これは所謂カツアゲだ。初めて遭遇した。
「知り合いなら、ちゃんと整形外科に連れてってあげろよ」
関わり合うのは得策ではない。そのくらいのことはわかったので、俺は立ち去るために身体を翻したが、肩を掴まれて止められた。
「なに?」
少し、恐怖に震えながら抗議する。
「いいから、お前、慰謝料払えよ」
「なんの慰謝料?」
「このじいさんのだよ。怪我させただろ。これから病院連れて行くからよ。連絡先を教えろ。免許証あるだろ、出せよ」
「免許は持ってない。持ち歩いてないって意味じゃなくて、取得してないって意味。路上教習が怖くて、卒業できなかったんだ」
冗談を言ってみたが柳に風で、老人の近くにいた男がなんの断りもなく近付いてきて、ボディチェックを始めようとする。
「俺の性自認が女だったら、それ痴漢だぞ」
言いながら、身体を振って抵抗する。
軽口を言わないと、不安や恐怖に心が挫けそうだった。思ったよりも軟弱な精神をしている自分に、少しだけ落胆する。
「動くなって」
もうひとりの男が近寄ってきて、背後から羽交い絞めにされる。羽交い絞めなんて人生で初めてされたが、なるほど、こんなにも動けないものなのかと愕然とした。
前に立つ男が寄ってくる。
「財布くらいは持ってるだろ」
「財布はさっきガールフレンドにプレゼントしちゃった」
「ほざけ」
老人を痛めつけたから慰謝料を払え、というのは言いがかりにも程があるが、俺が頼りなさそうな華奢な男だから、脅かしたら金を出すと思われたのかもしれない。普段だったら数万くらい払ってもよかったのかもしれないが、今の俺にとって、数万は全財産だ。簡単には渡せない。
腕に力を籠めたり、身体を捻ったりしながら羽交い絞めの調子を確かめる。これはどうも、俺の力じゃ抜け出せそうにはない。
男はふたりとも、がっしりとした体格の巨躯だった。強そう、という印象を抱く。
老人はまた蝋人形のように動かなくなってしまった。この男たちに脅されて疑餌上体をやっているのだろうか。あるいは、彼こそがボスで、このガラの悪い男たちに命令している立場だったら、それはちょっと意外性があって面白いかもしれない。
正面の男は、とうとう俺の身体を触り始めた。
ズボンやパーカーのポケット、胸周り、腰回りを触る。なにかを探すような手つきで。
「ちっ」
男は小さく舌打ちをした。まるで目当ての物が見つからなかったかのように。
しかし、それはおかしな話だった。
ズボンの右ポケットには折り畳んだお札が入っている。ボディチェックをした彼もそのことには気付いたはずだろう。
ところが、期待が外れたと言わんばかりの舌打ち。
もしかして……。
生唾を呑む。彼らの目的が金じゃないとするなら、俺の身体を探るのは、俺が持っているはずのなにかが目的なのだとしたら。それを俺が今、持っているはずだと確信している理由は、俺の家にそれがないことを知っているからだとしたら。
俺はもしかして、たまたまトラップに引っかかった運の悪い通行人ではなく、狙われていたのかもしれない。
確かめるため、俺は口を開いた。
「なあ、五十嵐は元気か?」
反応が、あった。
男はふたりとも肩を跳ねさせた。ここまでのチンピラの演技は完璧だったと言えるが、別に名優というわけではないらしい。不測の事態に尻尾を出してしまった。
俺は確信する。
こいつらはバオバブの人間だ。俺を罠に嵌めた目的は、昨日拾った拳銃、あれを取り返すためだろう。俺の家に侵入して火を点けたのも、今、こうしてカツアゲのふりをして俺のボディチェックをしているのも、すべてそのため。
命令したのは、きっと五十嵐だ。
「お前らの探してるものなら、別の場所に隠したよ」
「どこに!」
伊達眼鏡越しに、鋭い眼光が向けられる。
俺は湧き上がってくる恐怖を肚の底に叩き落として、言った。
「バオバブ結成の場所」
正面の男が目を丸めて、背後の男が「は?」と言った。
その隙を逃さない。
俺の、彼らにとっては意味不明な言葉に混乱し、拘束が緩んだ。俺は踵を後ろに振り、背後の男の脛を蹴る。呻く男に寄り掛かるようにして足を振り、正面の男の股間を蹴った。そして後はどうなったかも知らないまま駆け出す。
逃げて、逃げて、逃げた。
走って、走って、走り続けた。
追われているのかどうかもわからないまま、ひたすらに足を動かす。細い路地を何度も曲がって、俺は必死に男たちから距離を取った。
気が付いたら、職場の高校の近くまで来ていた。まったくの無意識だった。帰巣本能みたいなものが、俺にもあるということだろうか。それが職場に対して働いているというのもなんだか思うところがないでもないが、なんにしろ丁度良かった。
誰もいない校舎の中をちらりと覗き見てから、俺は西に向かって歩き出す。数分行くと、そこには廃ビルがあった。立地がそれほど良くないのか、なかなか新しい買い手が付かない建物。不良の溜まり場になってしまっていると、学校からも何度か市に苦情を出している。
バオバブの結成場所に拳銃を隠したというのは、嘘だった。当たり前だ。あの状況で本当のことを言う意味はない。そもそも、バオバブに正式な結成場所というものはない。俺と安食のなんてことない口約束で始まった組織だから。
「荒れてんなぁ」
廃ビルに入って階段を上る。元学習塾だったらしく、それぞれの部屋は教室となっていて、壁には黒板があり、机と椅子が並んでいた。
教師として、ある種慣れ親しんだ空間だ。
二階の奥から三番目の教室。出席番号で言うと、十七番が座る席。
その机の中に拳銃は隠してある。
「五十嵐……お前、なにがしたいんだよ」
拳銃のグリップを握りながら、呟く。
撃鉄は下ろしていないが、引き金に指をかける気分にはなれなかった。
五十嵐は、拳銃をくすねたのが俺だということは既に把握しているだろう。家に入られたということは、名前も把握されているということだ。頭の出来がいいあいつが、十年そこらで俺のことを忘れてしまっているとは思えない。
問題は、五十嵐が俺の存在を安食に告げているかどうかだ。
俺がまたバオバブに関わろうとしていることを、安食は知っているのだろうか。知っていたとして、どう思うだろうか。
握った拳銃は、重く、冷たかった。




