十月二十七日 『最後の審判』まであと四日――其の壱
明けて十月二十七日は、瑞樹の退院日だった。
俺と瑞樹が既に付き合っていると言えるか微妙な関係だとしても、彼女と俺は同居しており、私物も部屋に残ったままなので、俺が迎えに行かないわけにはいかない。
嫌、というわけでもないのだけど。
色々と事情が立て込んで折り重なった結果、非常に気の重いままに外へ出ることになった。瑞樹に会うのも気が重いし、バオバブのことを考えると、さらに気が重い。瑞樹の事情とバオバブのことが薄く重なっていることも、俺の足に枷を嵌めるひとつの要因となっている。
最後の審判まであと四日。
街はまだ普段と大きく変わった様子を見せなかった。いつもと変わらない日常が、ただ、日常としてそこに転がっているだけ。危機感を覚えてはいないのだろうか、彼らは、と、苛立ちを覚えた。もうすぐすべてが終わるかもしれないというのに、やり残したことはなにもないのだろうか。
誰も彼も、目を背けている。
もうすぐ終わる世界から、目を背けて生きている。
そういう風に思えてならなかった。
誰にともない苛立ちを溜め息に溶かして吐き出すと、少しだけ白い靄となって煙った。もうすぐ十月が終わり、秋が終わる。すぐに冬が来る。エニグマさえ落ちてこなければ。
病院には予定よりも早く到着した。総合受付で名前を言い、既に知っている病室の場所を教えてもらう。
瑞樹の病室に足を運ぶと、すっかり部屋は片付いていた。
着替えなどの一式は、頑丈そうな紙袋とトートバッグに纏められている。ベッドからはシーツが剥ぎ取られ、やけに殺風景だ。ここに二日、瑞樹がいたとはとても思えなかった。
「わざわざごめん、紅葉」
瑞樹はそう言って頭を下げた。至って普通のその仕草が、どうしてか他人行儀に見えてしまう。
「いや、別に大した手間じゃないよ」
「でも、仕事もあるでしょ?」
「学校は臨時休校。エニグマが通り過ぎてくれるまで、俺たち教員も晴れて自由の身ってわけ」
「それは羨ましい」
「瑞樹は?」
「ん?」
「仕事。復帰するのか?」
「まあ、サボるわけにはいかないよね。隕石が降ってこようが、仕事を休めないのが公務員の辛いところだよ」
「俺の同僚も公務員だけど、結構な割合でサボってたぞ」
「じゃ、あたしもサボっちゃおうかな」
瑞樹は呟いた。
俺は、小さく喉を鳴らす。
やっぱりか、と思った。
やっぱり、彼女の熱は既に冷めてしまっている。守るべき市民に傷をつけられたそのとき、彼女の中の価値観は根底から崩されてしまったのだ。以前の瑞樹なら、仕事をサボることなんてなかった。インフルエンザに罹患しても出勤して、職場から追い返されてきたことだってある。
隕石が降ってくるくらいのことで、瑞樹が仕事を放棄するはずがない。そもそも彼女はエニグマが地球に衝突するはずがないと唱えていた人間だったはずだ。
そのはずなのに。
今の彼女からは、むしろ、エニグマの衝突を望んでいるような印象を受ける。滅んでしまえと、心の中で祈っているような。
最後の審判。
ふと、それはその名の通り、人類の選別なのではないかと思った。熱を持った人間はエニグマの衝突を拒み、熱を失った人間は衝突を望む。そういう風に、人間を選り分けるための神様の儀式なのではないだろうか。
なんて、少しカルトチックが過ぎるだろうか。
「ねえ、紅葉はさ、私が警察官辞めたいって言ったら、どうする?」
瑞樹はそこで初めて、俺に縫合痕の残る顔を向けた。
「……どうもしないよ」
「止めないの?」
「止めてほしいなら、止める」
俺は家から持ってきたつばの広い帽子を手渡した。
瑞樹はそれを目深に被る。
それから退院の手続きと支払いをして、病院を発った。日常を繰り返す街をふたり並んで往く。二日会わなかっただけでは、歩幅の間隔は忘れていなかった。そこには確かに、数年かけて積み上げてきたふたりの絆があったと思う。
「ねえ、紅葉」
瑞樹は、傷を隠すように俯きながら呼びかける。
「さっきの話の続きだけど、もし、私が本気で警察官辞めたいって思ってたら、どうする?」
「瑞樹が本気で辞めたいって思ってるなら……」
「止めない?」
「いや、たぶん、それでも止めると思う」
「どうして?」
その疑問に、俺は解を持たなかった。
だから、沈黙したまま歩幅を合わせて歩いた。誰も、俺たちを許してはくれなかった。
来た道を帰るように歩き、マンションへの歩道橋を渡っているとき、焦げ臭い匂いを嗅いだ。いつもの通勤と違う時間帯を歩いていることもあるかもしれないが、歩道橋の途中で立ち止まって下を見下ろしている人がいるのも妙だ。
歩道橋の桟に手を突いて自宅マンションのエントランスを見ると、消防車が一台と、パトカーが数台、停まっている。
まさか。
なにがなんだかわからないが、心当たりがまったくないというわけでもなかった。だから、焦った。
「なんだろうね?」
「……さあ」
瑞樹に動揺を悟られてはいけない。その一心で無反応を貫き、歩みを進める。右足と左足の連動が、上手くいかなくなるような錯覚を覚えながら。
エントランスにはふたりの制服警官が立っていた。もしかしたら瑞樹の顔見知りかもしれないと思って彼女の顔を伺ってみたが、どうも知り合いというわけではなさそうだった。俺は意を決して警官に歩み寄る。
「すみません。ここの住人なんですけど………なにかありました?」
「ああ。ちょっとした出火がありまして。もう消火はしましたが、これから現場検証で――一応、お名前を伺ってもいいですか?」
「寺島です」
警官たちが顔を見合わせ、なんとも言い難い表情をする。困っているような、憐れんでいるような。
「うち、なんですね?」
「え、ええ。503の寺島さんでしたら、そうです。どうぞ、こちらへ」
警官に通してもらったエレベーターに乗り、五階へ。扉が開くと、部屋の前にコート姿の男が立っていた。刑事、だろうか。
コート姿の男が俺を見て、瑞樹を見る。
「舞元くん?」
名前を呼ばれた瑞樹は、一瞬だけ防止のつばで顔を隠すように俯いた。それから、顔を上げて、刑事の顔を真っ直ぐと見た。
「夏木さん、お疲れ様です」
「お疲れ様。もしかして、ここは君の家?」
「まあ、はい。あの、なにがあったんですか?」
「……放火だよ。誰かが忍び込んで、火を点けた」
夏木と呼ばれた彼は、それから俺の方を向いた。
「えっと……ご主人?」
「いいえ。恋人です」
「ああ、そう。名義人の寺島紅葉さんですね?」
「はい」
「この度はどうも。どうやら、空き巣のようですな。ちょくちょくあるんですよ。盗む物がなかった腹いせとか、証拠隠滅のために火を点ける輩が。こちらはスプリンクラーが完備していたんで家具や壁紙がちょっと燃えた程度で済みましたが、リフォームはせんと住めんでしょうなぁ」
「空き巣、ですか? いったいどうやって部屋の中に?」
「おそらくはドアからでしょうな。開けられない鍵はないなんて言葉もありまして、どれだけのセキュリティがあっても絶対なんてことはないんです。部屋の鍵に関しましても、こじ開けられた形跡が見つかりました」
「………」
「しかし、高いセキュリティの家を空き巣がわざわざ狙うのも珍しいことには違いありません。寺島さん。なにか盗まれる心当たりのある物はありませんか? 宝石とか骨董品とか、そういったものを飲み屋なんかで自慢したりは」
心当たりは、ある。
昨日、花束の中から見つけ出した、あの……。
「いえ、ありません」
平板な声で答えた。夏木の鷹のような鋭い目が俺を射竦める。俺は目を逸らすことなく、真っ直ぐと見返していた。心の空洞を作って、そこに思考を流し込む。
無感動に嘘を吐くのは、大人になった俺の得意技でもあった。
「そうですか。とりあえず何日か泊まれるところを見つけなければいけませんね。ホテルかどこかに?」
「まあ、はい」
俺は慎重に答える。
「盗まれた物をリストにしなければいけません。今日のところは水浸しでどうにもなりませんから、また明日にでもご足労願うかと思いますが、よろしいですか?」
「わかりました」
今は用済みということらしかったので、俺たちはそっと現場を離れた。
エレベーターで一階に降り、近くの喫茶店に入った。和モダンを売りにした、俺と瑞樹の行きつけの喫茶店だ。コーヒーをふたつ注文し、奥のトイレに近い隅の席に落ち着く。意識したわけではないけど、入り口を向いて座ったおかげで、入ってくる客がよく見える。
「大変なことになったね」
瑞樹は恨みを吐くように言った。
「夏木さんはああ言ってたけど、たぶん明日も呼ばれることはないと思うよ。放火犯が捕まることも」
「それはどうして?」
「警察は今、どの部署も大忙しだもん。なによりも治安維持に東奔西走している最中だし、死人も出てない放火に構ってる暇はないと思う。まともな捜査が始まるのは、エニグマが過ぎたあとだろうね」
昨日の天気の話をするような口調で、瑞樹は言った。
その目は、もう冷めている。正義を失い、熱を失い、淀んだ瞳で、ただ徒然に世界を見ている。傷を負い、熱を奪われ、住処まで追われた。恋人に以前ほどの愛情を抱けなくなり、魂の熾火が消えていくのを、ただ、見ているしかない。人生に絶望し、達観している、そんな目。
彼女の熱はすでに過ぎ去ってしまった。つまり、彼女の人生は実質的に終わってしまった。
そして、そのすべての遠因が俺にある。
バオバブを作った、俺に。
「瑞樹」
「ん?」
「これ」
俺は財布から万券を三枚ほど抜き、残りを財布ごと瑞樹に渡した。
「なに? どういうこと?」
「ごめん、瑞樹。悪いけど、俺はやることがある。最後の審判まで、瑞樹と一緒にいることはできない。だから……」
言い差した言葉を、瑞樹は具に察した。「ああ、なるほど」と。
「手切れ金ってこと?」
「……有体に言えば、そういうことだ」
あるいは、瑞樹なら。
この期に及んで、俺はそんな期待を彼女にかけていた。彼女なら、嫌がってくれるかもしれないと。最後のときは、俺と一緒にいたいと言ってくれるかもしれないと、期待した。もしそうだったなら、俺は自分の意見を曲げるつもりだった、かもしれない。
自分がどうしたいのかも、もう、わからない。
「わかった」
瑞樹は頷いた。
そこにはやはり、表情も熱も、なにもなかった。ただ、夜の闇のように深い無だけが、ポツンとそこにある。
「お別れだね」
その言葉は、ストンと心の中心に落ちていった。




