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一般マッサージ師、女騎士団の専属になる  作者: 久喜崎


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第30話:レオンのいない四日間

遠征の命令が出たのは、視察の翌週だった。


 対象は王都の東、「緋の渓谷」と呼ばれる峡谷地帯。ここ数週間で魔物の活動が著しく活発化しており、近隣の村への被害が出始めていた。白百合騎士団の主力部隊が出動し、討伐と周辺の安全確認を行う——期間は三泊四日の見込み。


 後方待機となったのはノアとシエル、そしてレオンだった。


 「ノアは大型魔法の使用後の回復日数が読めない。シエルは遠征中の諜報任務がある。レオンは……」エストが書類を確認しながら続けた。「ケア要員の後方待機は規定上の原則よ。非戦闘員を前線に出す根拠がない」


 「分かりました」とレオンが言った。「行ってらっしゃい。帰ってきたら体を整えましょう」


 それだけだった。


 アリアは出発前夜、荷物を整えながら、その「行ってらっしゃい」という言葉が妙に頭に残っていることに気づいた。送り出す側の言葉だ、と思った。戦場に立つわけでも、危険に晒されるわけでもなく、ただ帰りを待っている人の言葉。それが不思議なほど、自然に聞こえた。


---


 初日は馬上移動が主で、体への負荷は軽い。緋の渓谷へ続く街道は、整備された幹線から外れると急に道幅が狭くなり、両脇から松林が迫ってくる。空気の透明度が、王都より高く感じられた。木々の間から射す光も、街の中とは角度が違う。


 夕方の野営では、火を囲みながら各隊がそれぞれに休んだ。アリアは夕食の当番に入り、豆と干し肉のスープを作った。分量は合っている。手順も間違えていない。ただ——何かが足りない、と自分でも思った。味ではなく、もっと別の何かが。


 リリヤが一口食べて「……うまくない」と言った。


 「すみません、味付けは難しくて」


 「お前のせいじゃない。うまくないのはスープじゃなくて、俺の舌がおかしい」


 アリアが訊く前に、リリヤはスープを飲み干して「明日も頼む」と言って毛布を被った。それ以上は言わなかった。


 (……レオンさんの料理と比べているんだ)


 アリアは自分のスープを一口飲んで、食べ続けた。空を見上げると、王都より星が多かった。石畳と建物が遮るものが何もないせいで、空全体が下りてくるように見える。きれいだと思った。それだけは、遠征の夜の方が勝っていた。


---


 二日目、最初の交戦は緋の渓谷の入口付近で起きた。


 斥候が戻ってくるなり声を落とした。「翼竜型、三体——いや、四体です」その一言で、部隊全体の空気が変わった。翼竜型は空中からの奇襲を得意とする。峡谷という地形は遮蔽物が多い一方、退路が限られる。逃げ道の確保が先決だった。


 セレスの号令で隊が展開した。石壁を背にして盾役が前へ出る。弓兵が対空射程を確認する。アリアは後衛の支援位置につきながら、初めて「本物の遠征」の空気を肌で感じた。


 駐屯地での訓練と、ここが決定的に違うのは——空白がないことだ。次の行動を考える隙を、相手が与えてくれない。ミレイアの矢が一体の翼を射抜き、リリヤが地に落ちた個体へ一気に詰めた。ディアンヌが盾で二体目の体当たりを受け止め、そのまま峡谷の壁際へ押し込む。連携は問題なかった。被害は最小限に抑えられた——ただ、セレスが左肩を岩壁に打ちつけた。飛来した翼竜を剣で弾いた際に、体ごとよろめいたのだ。


 「問題ない」とセレスは言って、翌朝も訓練通りに動いた。その言葉に嘘はなかった。ただ——アリアは見ていた。左腕で荷物を持つとき、わずかに間を置いてから動かしていることを。


 その夜、焚き火から少し離れた場所で、セレスが肩をゆっくりと回しているのをアリアは見た。痛みを確認しているのか、ほぐそうとしているのか、どちらとも取れる動きだった。炎の光が届かない少し暗い場所で、一人でしていた。


 声をかけるべきか、しばらく迷って、かけなかった。——何を言えばいいか分からなかった。「お怪我ですか」は分かっている。「大丈夫ですか」は意味をなさない。それ以外の言葉が出てこなかった。


 (ここにレオンさんがいれば)


 その思考が頭をよぎった瞬間、アリアは少し驚いた。


 隣の天幕から、ディアンヌの低い声が聞こえた。「……あー……腰が……ちょっと固いなあ……」独り言だった。誰に言っているわけでもない。ただ夜中に、腰に手を当てながら揉みほぐしている音がした。


 アリアは天幕の布越しにその音を聞きながら、目を閉じた。


 (先輩たちは、毎回こうして遠征を乗り越えてきたんだ)


 レオンが来る前の話を、誰かから聞いたことはなかった。でも当然、それ以前にも遠征はあった。その頃の夜は、今夜のように、自分で自分の体をほぐしながら過ごしていたはずだった。それが普通だった。最初から、それが普通だったはずだった。


---


 三日目は夜明け前から動く日だった。峡谷の奥に魔物の巣穴があると斥候が確認しており、夜明けの気温が下がる時間帯に一気に制圧するという作戦だった。


 霧の残る峡谷の石畳を、足音をできるだけ殺して進んだ。息が白く、視界の端がぼやける。戦闘は散発的で、短時間の接敵と離脱を繰り返す形になった。体力より神経が削られる種類の消耗だった。何かが来るかもしれない、という緊張を、ずっと持ちながら動き続ける。それが一番疲れた。


 制圧が完了したのは昼すぎだった。撤退する魔物を確認して、斥候が「巣穴は封鎖できます」と報告したとき、アリアは初めて肩から力が抜けた。


 夕方、ミレイアが見張りを終えて戻ってきたとき、こめかみを二本指で押しながら「……眼精疲労が蓄積しているわね」と独り言のように言った。


 「大丈夫ですか」


 「大丈夫よ。ただいつもより視野が狭い気がするのが……気になるだけ」


 「アイマスクか何か、あった方がいいですか?」


 「あってもここでは同じよ。……特定のツボを、特定の手加減で押してもらわないと、意味がないの」


 後半は独り言に近かった。ミレイアは「さて」と言って立ち上がり、次の持ち場へ向かった。その背中は、いつより少し重く見えた。


 エストも、書類を手にしたまま何度か目頭を押さえていた。本人は表に出さなかったが、アリアには見えた。処理速度が落ちている。書類をめくる間隔がわずかに長い。目の疲れが蓄積しているのだろう。


 (三日目でこれなら、長期遠征のときは……)


 アリアはその先を考えるのを途中でやめた。


 三日目の夜、アリアは眠れなかった。


 疲労はあった。体も張っていた。それでも眠れないのは——頭の奥に、うまく降ろせない何かが残っているせいだった。


 出発前日の夜を思い出した。自室で荷物を整えながら、何かを忘れているような感覚があった。今になって分かった。それは「明日から四日間、あのお茶がない」という感覚だった。


 (たかがお茶なのに)


 寝袋の中で膝を抱えて、アリアは思った。


 駐屯地にいたとき、夜の訓練後に体がほぐれていったのは、お茶だけのせいではなかった気がする。あの部屋の空気、ハーブの香り、誰かが「疲れてますね」と当然のように言ってくれること——それが組み合わさって、初めて一日が終わった感覚になっていた。ここにはそれが何もない。体を休める場所はある。でも体を「終わらせる」場所が、ない。


 (帰ったら、ちゃんとお礼を言おう)


 そう思って、少しだけ気持ちが落ち着いた。


---


 帰路についた夜の野営で、リリヤが珍しく静かにしていた。


 焚き火を見つめながら、腕を膝に乗せて、何も言わない。さっきまで食事の手配をして、見張りの交代を澱みなく取り仕切っていた人間と同じとは思えない静けさだった。炎の揺れを、何かを追うように、ただ見ていた。


 アリアは迷ってから、隣に腰を下ろした。「どうかしましたか?」


 少し間があった。「別に。……俺、飯作れないんだよな」


 「……?」


 火から目を離さないまま続けた。「戦えて、速くて、強い。でも飯が作れない。掃除も雑だし、怪我したときに自分で手当てするのがせいぜいだ。スラムにいたとき、誰かに何かしてもらうって経験がほとんどなかった。してもらったら負けた気がした。だから全部一人でやった」


 アリアは静かに聞いていた。


 「ケア室に最初行ったのは、怪我のせいだ。行ったら飯を食わせてもらった。頭を撫でてもらった。それだけだ」


 「……それだけ、ですか?」


 リリヤが少し笑った。笑うというより、口の端が緩んだ。「……それだけなのに、なんか足りない気がする。帰ったら真っ先にレオンの飯が食いたい。我ながらしょうもない」


 「しょうもなくないと思います」


 「そうか?」


 「……帰る場所があるのは、悪いことじゃないと思うので」


 しばらく間があった。「そうかもな」それきり何も言わなかった。


 アリアも黙って、焚き火を見ていた。炎は変わらず揺れていて、風が吹くたびに薄くなったり、また戻ったりした。消えそうで消えない、その繰り返し。


---


 翌朝の夜明け。帰還の準備をしながら、アリアはセレスが一人で荷造りしているのを見た。


 左肩の調子はまだ万全ではないようで、重い荷物を持ち上げるとき、一瞬だけ表情に力が入った。それを悟られないよう、動作の速度を保っていた。三日間、ずっとそうしていたのだと今更気づいた。


 「……お手伝いします」


 「いや、大丈夫だ」 間髪入れなかった。


 でも、その後で、一息だけ間があった。


 「……帰ったらレオンに診てもらう。それだけで十分だ」


 独り言のような声だった。しかしアリアに聞こえるくらいには、聞こえた。


 (それだけで十分、か)


 アリアは荷物を持ち上げながら、その言葉の意味を考えた。帰る場所がある、ということ。誰かが待っている、ということ。それが、四日間の遠征を終わらせる力になるということ。


 リリヤが「飯が食いたい」と言ったのも、セレスが「診てもらう」と言ったのも——結局、同じことを言っているのかもしれなかった。


 (……私も、早く帰りたい)


 そう思う自分に、アリアはもう驚かなかった。

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