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一般マッサージ師、女騎士団の専属になる  作者: 久喜崎


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第31話:帰還、そして扉を叩く

白百合騎士団が正門をくぐったのは、夕刻前だった。


 四日間の遠征を終えた部隊は、疲労を滲ませながらも整然と帰還した。馬を厩舎に戻し、装備の点検を済ませ、報告書の提出期限を確認する——それらを終えたのは、日が完全に落ちた後だった。


 アリアは自室に戻って鎧を脱ぎ、椅子に座った。遠征中は維持していた緊張が、駐屯地の石壁に囲まれた瞬間から少しずつ溶け始めている。肩が重い。足首が張っている。目の奥が痛い。四日分の疲労が、まとめて体に乗ってきた感覚があった。


 自室の窓から廊下の方向を見た。ケア室のある別棟は、窓から見えなかった。


 アリアは目を閉じた。


---


 二十分後、廊下に足音が聞こえた。


 一つ、二つ——複数の足音が、同じ方向へ向かっている。急いでいる。しかし走ってはいない。「急いでいるが走っていない」という、抑えた速さだった。


 アリアは扉を少し開けた。廊下を先輩たちが歩いている。


 セレスが少し前を行く。左肩を少し庇いながら、しかし足はまっすぐにケア室の方角へ向かっている。


 その数歩後ろをエストが歩く。書類は持っていない。珍しいことに、今の彼女は手ぶらだった。


 さらに後ろからリリヤが「おい待て、先に行くなよ!」と小声で駆け寄っていく。「小声で怒鳴る」という、器用なことをしていた。


 ミレイアが廊下の端から全員を眺めて、小さくため息をついてから、同じ方向へ歩き始めた。


 アリアは廊下に出て、その後ろ姿を見送った。


 (行くんだ。みんな、真っ先に)


 当たり前のことだった。帰ったから、行く。それだけのことだった。


 でもアリアには、それが今まで「当たり前」に見えていなかった。強い人たちが誰かを必要とする——そのことが、どういうことなのかを、今ならすこし分かる気がした。


---


 自室に戻った。荷物を片付けた。遠征報告書の下書きを半分書いた。


 書いている途中で、ペンが止まった。


 四日間のうちで一番きつかった夜を思い出した。三日目、眠れなかった夜。寝袋の中で膝を抱えて、駐屯地のことを考えていた。あの部屋の空気、ハーブの香り、「帰ったらちゃんとお礼を言おう」と思ったこと。


 帰ってきた。


 お礼を、まだ言っていなかった。


 (今日でなくてもいい。明日でも——)


 でも今、先輩たちが向かっている場所に、レオンはいる。


 アリアはペンを置いた。


---


 ケア室の前に来ると、廊下は静かだった。


 先輩たちが来る前か、あるいは全員すでに帰ったか——どちらかは分からなかった。扉の隙間から光が漏れている。中に誰かいる。


 扉をノックした。


 「はい」という声がした。


 扉が開いた。レオンが顔を出した。遠征前と変わらない顔をしていた。


 「アリアさん」と言って、少し目を細めた。「おかえりなさい」


 「……ただいま、戻りました」


 口から出た言葉が、自分でも少し驚くほど素直だった。


 「疲れましたね。入ってください」


 アリアは中に入った。施術台のシーツは新しく張られていて、ハーブの香りが部屋の空気に混じっていた。何も変わっていなかった。四日間、この部屋は何も変わっていなかった。


 「肩と足首ですね」 確認ではなく、見てすぐに。


 「……分かるんですか」


 「かばっている歩き方をしてましたから。荷物を持ち続けていた側の肩と、足首の外側に負担が来てますね」


 施術台に腰かけると、レオンが足首に手を当てた。


 「少し力を抜いてください」


 アリアは息を吐いて、肩の力を抜こうとした——抜けなかった。遠征中ずっと維持していた緊張が、まだ体の奥に残っていた。


 「……抜けないです、うまく」


 「大丈夫です。抜けなくても、こちらで少しずつ緩めますから」


 手が動いた。足首の側面に沿って、ゆっくりと圧がかかっていく。


 「……っ」


 声が出た。痛みではない。ずっと張り詰めていたものが、一点から解けていく感覚。


 「……あの、少しだけ聞いてもいいですか」


 「どうぞ」


 「遠征中に、セレス団長の肩が痛そうで——私は何も言えなかったんです。何か言えることがあったはずなのに、言葉が出てこなくて」


 「うん」


 「……こういう場所では何でも言えるのに、なんで外では言えないんだろうって、ずっと気になってて」


 レオンが手を動かしながら、少し考えてから言った。「ここは、言っても傷つかない場所だから、かもしれないです」


 「傷つかない?」


 「ここで言ったことが、翌日の評価に影響しない。弱いと思われない。そういう場所があると、言葉が出やすくなりますよね」


 アリアはその言葉を、少しの間、噛み締めた。


 「……外でも、そういう空気を作れたらいいんですが」


 「できますよ、きっと。アリアさんは、見ていることと聞いていることが多い。声をかけるタイミングを探しているだけだと思います」


 「そう、でしょうか」


 「そうですよ」


 断言だった。根拠を言わなかった。でも、信じていいと思える断言だった。


 アリアは少しの間だけ、目を閉じた。


---


 施術が終わった。肩も足首も、驚くほど軽くなっていた。


 「ありがとうございました。……あの、もう一つだけ」


 「はい」


 「出発前に言えなかったんですが、毎晩お茶をありがとうございました。遠征中、あれがないのが、思っていた以上に……体に来ました。だから、帰ってきたらちゃんとお礼を言おうと思っていて」


 レオンが少し笑った。「わざわざありがとうございます。お茶、帰ってきたら飲んでもらえると思って、ちゃんと準備してましたよ」


 「……準備してたんですか」


 「もちろん。皆さん分、全員」


 それは誰でも思いつくことかもしれなかった。ただ、帰ってくる前から準備されていたという事実が、アリアの胸の奥に静かに残った。


 帰ってくる場所として、最初から考えられていた。


 「……また、来てもいいですか」


 「いつでもどうぞ。施術も、お茶だけも、どちらでも」


 アリアはもう一度「ありがとうございました」と言って、ケア室を出た。


---


 廊下は静かだった。


 アリアは駐屯地の夜の空気を吸った。石壁の冷たさと、どこかから漂うハーブの残り香。遠征から帰ってきた、という実感が、今ようやくしっかりと体に馴染んだ気がした。


 (……悪くない、か)


 第六章でミレイアに言ったとき以来、同じ言葉が頭に浮かんだ。でも今回は、意味の重さが違った。


 「……」


 天井のどこかで、かすかな布擦れの音がした。


 アリアは足を止めて、真上を見上げた。


 何もなかった。廊下の天井は石造りで、黒く塗られた梁が走っているだけだ。


 (気のせい……かな)


 アリアは自室に向かって歩き始めた。


 天井の梁の陰で、小さな人影が微動だにせず息を潜めていた。灰色のボブカット、黒いタイツ、布で隠した口元。シエル・ファントムが、その黒目がちな瞳で、廊下を歩いていくアリアの背をじっと見届けていた。


 (……新入り、陥落)


 シエルは天井の上で、ほんの少しだけ口の端を緩めた。

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