第29話:視察官の来訪と、隠しきれない現実
軍務局からの視察官が来ると聞いたのは、前日の夕方だった。
定例会議の最後、エストが口を開いた瞬間──「明日の午前、王都軍務局から担当官が視察に来る。目的は当部隊への非戦闘員配属の妥当性確認よ」──場の空気が変わった。
変わり方が妙だった、とアリアは後になって思った。
恐れや緊張ではなく——それぞれの方向に、それぞれの感情が走った。セレスは表情を変えなかったが机の上のペンを握り直した。エストは書類をめくる速度が一拍だけ遅れた。リリヤが「なんかめんどくさい奴が来るのか」と言い、ミレイアが「静かにして」と抑えた。ディアンヌが「私は普段通りやるだけですが……」と大きな体を縮こまらせた。
レオンは会議に呼ばれていなかった。
---
翌日の午前十時、視察官が正門から入ってきた。
名前はクレイン・モローという四十代の男性で、軍務局の役職章を胸につけていた。灰色の事務服、後退した髪際、書類を抱えた几帳面そうな顔立ち。戦場とは縁のなさそうな、典型的な官僚の風貌だった。
セレスが正門で出迎えた。アリアはその三歩後ろに控え、初めて「上役を迎える団長」の立ち居振る舞いを見た。礼節はある。ただ、どこかの筋が微妙に張っていた。
「では早速ですが、当部隊への非戦闘員・男性の特例配属についての検証を行います」
書類を開いた。声は穏やかだが有無を言わさない事務的な調子だった。
「まず率直に聞きますが、戦闘能力を持たない男性一名が、王国最強と称される女性精鋭部隊に——特段の戦略的意義があるとお考えですか?」
---
説明会は団長室で行われた。
「有用性は実績が示している」──腕を組んだままのセレスが口火を切った。エストが書類を押し広げた。「費用対効果の数値を提出できます。よろしければ」 ミレイアが戦闘後の回復速度の向上について淡々と続けた。どれも正確で、論理的だった。
クレインはそれを聞きながらメモを取り続けた。顔に不満の色はなかったが、賛同の色もなかった。
「なるほど。ただ、治癒魔法師であれば女性の技官でも代替が可能では? 専属としての『男性』である必要性が、私には今ひとつ見えないのです」
その一言で、部屋の温度がわずかに変わった。
アリアはそれを感じた。変わったのは表情ではない——それぞれの、何か別のものだった。
セレスのこめかみに、ごく薄く青筋が浮いた。エストがペンを持つ指に、わずかに力が入った。ミレイアの目が、普段より少し鋭くなった。
エストの声は平静だった。「代替については検討の余地があります。ただし、現時点での当部隊への貢献度を数値で示すことは可能です。よろしければ比較資料を——」
「それはぜひ」 クレインがペンを走らせた。「ただ、数値で示される以前に、制度的な問題があります。王国軍規則の第四十二条、女性部隊への男性配属禁止の原則については——」
「第四十二条の第三項には、国王命令による特例配属の規定があります」 一瞬の間も置かなかった。
「……存じております。ただ、今回の配属が『命令』に値する緊急性を持っていたかどうかについては、改めて審査の対象となり得ます」
沈黙が部屋に落ちた。
腕を組んだままのセレスが静かに口を開いた。「審査を受ける用意はある。ただし、判断の前に現場を見ていただきたい」
「もちろんです」 クレインがメモを一枚めくった。
---
現場視察は午後に行われた。
最初に訓練場を回った。クレインは手帳にメモを取りながら、各隊の動きを一通り見学した。リリヤの遊撃演習、ミレイアの弓術訓練、ディアンヌの重装部隊の隊形練習——どれも質が高く、クレインも「さすが精鋭部隊ですね」と一言漏らした。
しかしその後、ディアンヌが演習中に手首を打って、クリスが駆け寄る場面があった。クリスがその場で応急処置をしていたのだが、ディアンヌがふと言った。
「す、すみません……後でレオン殿に診てもらえば、あの……き、きっとすぐ治るんですが……」
大柄な体を縮こまらせ、クリスの前で赤くなりながら言う様子は、「すぐ治る」という言葉が自分への慰めなのか、ケア室への期待なのか、どちらとも取れた。
クレインがアリアに小声で訊いた。「あの隊長は、怪我があるたびにその……ケア要員のところへ行くのですか」
アリアはどう答えるべきか一瞬迷い、「……そのようです」と答えた。
クレインが何かを書き留めた。表情は読めなかった。
次いで、クリスの後方支援室を訪れたとき、クリスが温かいハーブティーを出してきた。「視察でお疲れでしょう。レオンのブレンドなんですが、よかったら」という言葉に、クレインが一口飲んで「……これは」と言ったまま黙った。
アリアはそれを見て「(リリヤの言っていたことが)」と思ったが、口には出さなかった。
ケア室の前に来たとき、レオンが扉を開けて出てきた。
「こんにちは。視察の方ですね。どうぞ中をご覧ください」
レオンの対応は自然だった。動じた様子もなく、媚びるふうでもなく、ただ普通に部屋の中を案内する。清潔に整えられた施術台、用途別に並んだハーブの棚、療養用の椅子と低い机。
クレインが一通り見回して、問うた。「率直に聞きますが、あなた自身は——ここに必要な人間だと思いますか?」
部屋の外で聞いていたアリアは、思わず息を止めた。
少し考えてから、穏やかな声が返ってきた。「それは皆さんが決めることだと思います。私は、必要と言ってもらえるならここにいますし、そうでなければ元の場所に戻ります。ただ——」
少し間があった。
「ここに来てから、誰かが少し楽になるたびに、翌日の戦いぶりが変わるのを見ていました。それが仕事になっているとしたら、悪くない仕事だと思っています」
クレインがメモを止めた。
「……元の場所、というのは?」
「王都の下町で、肩こりや腰痛の庶民を相手にしていた整体師です」
クレインがしばらく黙った。何かを書きかけて、止めた。
廊下でアリアは、後ろからセレスが小さく吐いた息を聞いた。怒りではなかった。——安堵に近かった。
---
視察後の記録作成のため、クレインが「資料室をお借りしたい」と言った。エストが案内することになった。
廊下でリリヤが見送りながらぼやいた。「あいつ、何か食ったか?」
「食ってないわよ」
「じゃあ飯を食わせろ。腹が減ったら人間は判断が甘くなる。視察官だろうと同じだ」
「視察対象が视察官に食事を提供するのは適切ではない」
「うまいもの食ったら態度が変わるかもしれないだろ」
「それはそれで問題よ」
二人のやり取りを聞きながら、アリアはリリヤの言いたいことを、少しだけ理解した。
(……食べさせたい、か。先輩たちは、レオンさんにいてほしいんだ)
当然のことのように思えた。しかし改めて気づくと、それは当然ではなかった。あれほど「男の非戦闘員など不要」と言っていたはずの人たちが、今は守ろうとしている。
アリアは廊下に残りながら、ケア室の扉をもう一度見た。
---
夕方、クレインが帰り際に玄関でセレスに言った。
「本日の視察で、転属の推薦は保留とします。引き続き経過を確認させていただきます」
「……承知した」
クレインが馬車に乗り込んだ。セレスがその背を見送った。しばらくして、ほとんど独り言のような声が漏れた。
「……今度来たとき、ハーブティーくらいは出しても構わないかもしれないな」
アリアは横で聞いていて、何も言わなかった。
(「保留」で終わって、よかった)
そう思う自分の感情の出処を、アリアはまだうまく説明できなかった。




