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一般マッサージ師、女騎士団の専属になる  作者: 久喜崎


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第28話:朝の仁義なき戦い

白百合騎士団の朝は早い。


 起床ラッパが鳴る前から鎧の調整音や剣の研ぎ音が駐屯地のどこかで聞こえるこの環境に、アリア・ソレルはようやく慣れ始めていた。入団から二週間が経ち、先輩たちの「少しだけ違う日常」を目にしても、以前ほど声が出なくなっていた。


 もっとも、今朝の光景だけは話が別だった。


---


 廊下に足音がしたのは、起床ラッパよりも三十分早い時刻だった。


 アリアは目が覚めても布団の中で少しぼんやりとしている習慣があった。この朝もそうだった——のだが、廊下がやけに騒々しい。軽い足音ではなく、複数の、明らかに急いでいる足音だ。


 (なんだろう)


 不審に思って扉を少し開けると、廊下の奥に人影が見えた。ケア室の扉の前だ。


 アリアは目を疑った。


 セレス団長が、壁に背をもたれながら腕を組み、仁王立ちしていた。


 白銀の鎧ではない、薄い寝衣のまま。プラチナブロンドの長髪はまだ解かれておらず、就寝中らしい緩やかな結い方のまま肩に流れている。けれど眼光だけは鋭く、廊下の先に向かって「来るなら来い」という圧を放っていた。


 その圧が向いている先には——エスト副団長が書類束を抱えて立っていた。


 「……貴方は何をしているの、こんな時間に」


 眼鏡を押し上げながら「施術前の業務確認よ。レオンに今日のスケジュールを事前共有する必要があるから来ただけ。邪魔をするつもりはないわ」


 「業務確認は副団長室でするものでしょう」


 「ここで済ませた方が効率的なの」


 二人の視線が、廊下でぶつかった。


 (夜明け前……何の争いなんだ……)


 アリアは扉の隙間から息を殺して見ていた。


---


 そこへ、廊下の角から影が飛んできた。


 「どけどけ! 先着順だろ!」


 リリヤだった。下着と短パンという格好のまま赤髪をなびかせ、低空で二人の間をすり抜けようとした——が、セレスの右腕がぬっと伸びて首根っこを捕まえた。


 「……早起きの甲斐がないな」


 「放せ! レオンの朝飯の確認がしたいだけだ!」


 「朝食のリクエストは夕食後が原則のはずよ、リリヤ」


 「うるさい!」


 三人が廊下でもみくちゃになっているところへ、のんびりとした足音が近づいてきた。アイマスクを額まで上げた状態のミレイアが、ハーブティーのカップを片手に持って歩いてくる。


 「……なにやってるの」


 三人が一瞬止まった。


 澄ました顔のまま「目が疲れて眠れなかったから、いつも通り眼精疲労のケアに来ただけよ」──そのままごく自然に列の後ろについた。


 「……列には、見えないが」


 「私は並んでいるつもりよ」


 (列……になってるのか? これが?)


 アリアは廊下の端からこの状況を改めて確認した。仁王立ちのセレス団長、書類を抱えたエスト副団長、首根っこを掴まれたリリヤ、カップ片手のミレイア。全員が朝の不完全な格好で、ケア室の扉一枚を巡って並んでいる……並んでいる……のか?


 (これが王国最強の白百合騎士団の朝の姿か)


 アリアは静かに扉を閉めた。二度寝を試みたが、廊下が賑やかすぎて眠れなかった。


---


 十五分後、仕方なく起き上がって廊下に出ると、ケア室から順番に人が出てきていた。


 最初にセレスが出てきた。「少しだけ見てもらった」と誰にも言っていないのに口にしながら、顔が若干ほぐれている。


 次にエストが出てきた。書類の束が片腕に戻っていて、「業務確認は完了した」と早口で言い残して歩いていった。


 リリヤはまだ中にいる。「もっかい! あと一回!」という声が扉の外まで漏れ聞こえていた。


 ミレイアが出てきたとき、アリアと目が合った。


 「おはよう」


 「おはようございます。……毎朝、こうなんですか?」


 カップを傾けながら「三日に一度くらいは」と。「最近頻度が増えてるけどね」


 (三日に一度でこれなのか)


 「ミレイア隊長は、その……眼精疲労のケアが終わるまで並んでいたんですか?」


 「並んでいたのではないわ。ただ、適切なタイミングを合理的に待っていただけ」


 「……そうですか」


 少し視線を外した。「今日の訓練前に目の状態を整えておく必要があるから、それだけよ。朝に一番早く来ただけで、それ以上の意味は何もない」


 「……はい」


 沈黙が流れた。ミレイアがカップを一口飲んで立ち去ろうとしたところで、ケア室の扉が開いた。


 「あ、アリアさん。おはようございます」


 レオンが顔を出した。寝起きとは思えない穏やかな顔をしている。


 「はい。……おはようございます」


 「今日も訓練がありますね。朝のうちに足首だけでも見ておきましょうか? 昨日の訓練で少し左に体重が傾いてましたから」


 昨日の訓練を、何気なく見ていたらしい。


 アリアは「いえ、大丈夫です」と言いかけて——廊下をちらりと見た。誰もいない。あの先輩たちが朝の一番に並んでいた、ケア室の扉。


 (……ほんの少しだけなら)


 「……足首だけ、お願いできますか」


 口から出ていた。


 レオンが「どうぞ」と扉を開けた。


 アリアが中に入ろうとしたとき、廊下の角から目だけを出したリリヤが「やっぱり来たじゃんかよ……」と小さく言うのが聞こえた。


 (聞いていたのか!)


 振り返ったときにはもう、廊下には誰もいなかった。


---


 施術台に腰かけると、レオンが膝をついて足首を両手で包んだ。


 「昨日の訓練、フットワーク系の動きが多かったですよね。左足首の外側に少し張りが来てますよ」


 「……そんな細かいところまで」


 「毎日見てますから」


 それだけで、アリアの緊張が少し解けた。「毎日見てます」という言葉が、どこか安心感を生んだ。ここに来るのがこれで何度目かは数えていなかったが、その都度、前回の状態との差分を把握されている感覚があった。


 レオンの指が一点を押した。


 「……っ」


 声が出た。痛みではない。朝の眠りきれなかった頭の奥の重さが、一点を境にじわりと溶け始める感覚があった。


 「力を抜いてください」


 「……抜けてますか、これ」


 「だいぶ抜けてます。最初の頃よりずっと」


 最初の頃よりずっと、か——とアリアは思った。気づいていなかったが、確かに今は体がこの場所に慣れている。最初に来たときのあの、全身を強張らせながら施術台に座っていた自分が、別人のように思えた。


 「……朝、先輩たちが並んでいたのは。毎朝あんな感じなんですか」


 「まあ、そうですね。今朝はちょっと多かったですが」


 「ちょっと、の話なんですか、あれが」


 「皆さん、それぞれにちゃんと理由があって来てくれてますから」


 それ以上は言わなかった。誰が何の目的で来ているかを口にしない。その配慮が、この場所をこの場所たらしめているのだと、アリアはなんとなく感じた。


 足首の施術が終わった。


 「どうですか」


 アリアは床に足をつけて、少し体重をかけてみた。昨日から張り続けていた外側の筋が、嘘のように緩んでいた。


 「……軽いです。ありがとうございました」


 「お疲れ様でした。今日の訓練も無理しないでくださいね」


---


 朝の点呼に出ると、先輩たちは全員いつも通りの顔で列に立っていた。


 セレスが凛然と部隊を見渡し、エストが書類を確認し、リリヤが欠伸を噛み殺している。ミレイアが隣のアリアをちらりと見て、静かに前を向いた。


 アリアは右足で地面を踏み、今朝の足の軽さを確かめた。


 (こういうことか)


 先輩たちが毎朝あそこへ向かう理由が、体でようやく分かった。論理ではなく、体が分かった。これが積み重なれば、頼らずにいられなくなるのは当然だった。


 訓練開始の笛が鳴った。アリアは定位置に走りながら、「明日の朝もまた、足首の様子を見てもらおうか」とごく自然に考えている自分に気づいた。


 (……もう、止まらない気がする)


 それを恐ろしいとは、もう思わなかった。

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