第27話:規格外の優しさは反則だ
捻挫したのは、早朝の自主訓練中だった。
起床ラッパより一時間早く訓練場に出るのが、アリアの習慣だった。誰もいない時間に基礎動作を繰り返す。それが入団以来の自分への約束だった。
薄明かりの中、フットワークの練習をしていたとき、訓練場の端にある木材の段差に右足を引っかけた。「あっ」と声が出るより先に、足首がねじれた。
派手な捻挫ではなかった。立てたし、歩けた。ただ、ずきずきとした痛みが足首に走っており、力を入れると鋭く痛む。
「(自力で治す。騎士としての自力回復だ)」
歯を食いしばって部屋に戻り、包帯を巻いた。朝の点呼には何食わぬ顔で出た。
しかし午前の訓練中、かばっているのがバレた。
「……アリア。足を引きずってるわね」
ミレイアが静かに言った。
「い、いえ。引きずってなどいません」
「引きずってるわ。見えてる」
千里眼持ちの狙撃隊長には言い逃れが通じなかった。
「捻挫です。軽いものです。自分で手当しました」
「レオンのところへ行きなさい」
「でも私は自力で——」
「いいから行きなさい」
ミレイアが「命令よ」とは言わなかった。ただ静かな目で見ていた。入団試験を共に乗り越えた戦友への目、ではなく、疲れを限界まで溜め込んで動けなくなった部下を何人も見てきた先輩の目だった。
「……はい」
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アリアはケア室の扉を恐る恐るノックした。
「あ、アリアさん。どうしました——ああ、足首ですね」
レオンがドアを開けた瞬間に足首の異変を見抜いた。どうして分かったのか。
「……捻挫です。軽いと思うんですが」
「見せてください。こっちに座って」
アリアは言われるまま施術台の端に腰かけた。レオンが膝をついて足首を両手でそっと包む。丁寧な手つきで確認するように触れながら「少し腫れてますね。軽めですが、放っておくと蓄積するので」と言った。
「包帯、自分で巻いたんですね」
アリアは少し緊張しながら頷いた。「はい」
「きちんと巻けてますよ。応急処置はできてました」
思いがけず褒められた。アリアは少しだけ胸の緊張がほぐれる感覚があった。
「では……施術、お願いします」
絞り出すように言った。
レオンの手が足首のある点を押した瞬間、アリアは「あっ」と声を上げた。
痛みではない。ずっと張り詰めていた何かが緩むような感覚が、足首からふくらはぎ、腿へと波紋のように広がった。
「な、なんですかこれは……!?」
「リンパを流しています。無理に力を入れると、むしろ回復が遅れるので」とレオンが静かに説明した。
「あっ、あ……そ、そこは……」
「力を抜いてください」
「……ぬ、抜けない……」
施術の手は止まらない。アリアの体が、じわじわと意志に反して弛んでいく。
「入団したばかりで、ずっと全力で頑張ってたんですね」
静かな声だった。責めるでもなく、哀れむでもなく、ただそのまま受け取るような口調だった。
アリアは何も言わなかった。返す言葉が見つからなかった。
「……最初の一ヶ月って、一番体に来るんですよね」とレオンが言った。「環境が変わる上に、実力を見せなきゃいけない、でも周りは全員が強い。そういう状況で頑張りすぎてしまうのは、むしろ真剣な証拠です」
「……でも私は、まだ先輩方の足元にも及ばなくて」
レオンの手が足首から少し上へ移動した。「それでいいんですよ。そのために訓練があるんですから」
レオンが足首から手の位置を少し上げた。ふくらはぎの側面に沿って、ゆっくりと圧をかけていく。
「……ここ最近、無理が続いてませんでしたか。夜遅くまで起きていたり」
「……どうして分かるんですか」
「目の下です。ちょっとだけ、疲れが出てますよ」
アリアは少し固まった。入団前から睡眠時間を削って準備していた。こちらに来てからも、なんとか食らいついていこうと自主訓練を増やしていた。誰にも言っていなかった。
「……言わなかったのに」
「言わなくても、体に出ますよ。でも、頑張っていたのは分かります」
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沈黙の中で施術が続いた。足首の痛みは少しずつ引いていく。代わりに、体の奥の方から重たいものがじわじわと浮かびあがってくる感覚があった。
「……怖いです」
気づいたら声が出ていた。
「団長やエスト副団長みたいに、強くなれるのかどうか。白百合騎士団にいる意味があるのかどうか……入団してから、ずっと」
レオンは何も言わずに聞いていた。施術の手は止めなかった。
「あの……すみません、こんなこと話すつもりは」
「泣いていいですよ」
ぽろりと涙が出た。堪えていたのに、その一言で決壊した。
「す、すみません……騎士がこんな……」
「皆さん、ここではよく泣いてくれます。ここはそういう場所なので」
「……先輩方も、こんなふうに……」
レオンが穏やかに答えた。「もちろんです。何度も。名前は言えませんが」
アリアは袖で目を押さえた。言えませんが、という一言で、誰のことも傷つけようとしていないことが伝わった。
(確かに。先輩たちは、ここで涙を流して、翌朝また凛々しく訓練場に立っていた。それを見て、最初は呆れていた。でも今は……)
「……ここで泣いて、翌朝また立ち上がるから、あの人たちは強いんですかね」
「そうかもしれません。泣ける場所があるのは、強さの条件かもしれないです」
「施術は終わりました。もう痛みは出ないと思います」
レオンが静かに言って立ち上がった。
「ありがとう、ございます」
「いつでもどうぞ」
「……その、この場所は。悪くない、かもしれないです」
絞り出すように言ったアリアに、レオンが微笑んだ。
「アリアさんがそう思ってくれたなら、よかった」
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翌日の朝の点呼。アリアは右足に体重をかけながら、昨日とは別人のような軽さで立っていた。
前を見れば、セレス団長が凛然と部隊を見渡している。横にはエスト副団長が鋭い目で列を確認している。その後ろでリリヤが「腹減った」と呟いてミレイアにこっそりと肘打ちを食らっている。
少しだけ、笑えた。
「(……まあ、この場所も悪くない、かもしれない)」
心の中でだけ、アリアは認めた。
ミレイアが訓練開始の笛を吹いた。アリアは右足で地面を蹴り、定位置に走った。痛みはほとんどなかった。
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その日の昼休み、ミレイアがアリアに「どうだった?」と訊いた。
「……ちゃんと治ってました。痛みがないです」
「そう」とミレイアが言って、それだけで終わった。それ以上は訊かなかった。
アリアはミレイアが「行きなさい」と言った理由を、今になって考えていた。命令でも気遣いでもなく、ただ事実として「行けばいい」と分かっていて言った。あそこは行けばいい場所だ、と。
「ミレイア隊長は、私にケア室が合うと思ったんですか?」
ミレイアが歩きながらさらりと返した。「全員に合うわよ。合わない人はいなかった。あなたも例外じゃない」
「……どうして分かるんですか」
「毎日一緒にいたら分かる。あなたは十日で飲み込んだものを、私たちは一ヶ月かかったわ」
「そんなに早かったですか」とアリアが少し驚いた声で訊いた。
「早いか遅いかより、受け入れたことが大事よ」とミレイアが言った。「変に意地を張らずに、ちゃんとそこにある良いものを受け入れる。それができるなら、この団でやっていける」
アリアはしばらくその言葉を噛み締めた。
「……私、意地を張ってましたかね」
「最初はね。今はだいぶ抜けてきたけど」とミレイアが淡々と続けた。
「……教えてくれてよかったです」
ミレイアは前を向いたまま「次から自力でやりなさいとは言ってないわよ。困ったら使える場所を使いなさい。それが騎士として賢いこと」と続けた。
訓練再開の笛が鳴った。ミレイアが先に歩き出した。アリアはその後ろをついていきながら「(分かりました)」と心の中で答えた。




