第26話:一杯の温かいお茶の罪
入団から一週間が経つ頃には、アリアはある程度の「心の準備」を身につけていた。
朝、セレス団長が「少しだけ」と言いながらレオンのケア室に向かうのを見ても、もう驚かない。昼に副団長のエストが「業務上の都合」という理由でレオンの部屋に入り浸っていても、首は傾げない。夕方にリリヤが「頭撫でろ!」と廊下でレオンの腕にしがみついていても、目を逸らすだけでツッコミは入れない。
ただし一日の終わりには必ず、自室で一人剣の手入れをしながら「これが王国最強の精鋭部隊の日常なのか」と静かに呟く習慣ができていた。
もっとも、少し慣れてきたのも確かだった。食堂のご飯はおいしく、仕事の指示は明快で、誰かが困っていれば誰かが助ける。セレス団長もエスト副団長も、レオンのケア室から出た後のほうが仕事の切れ味が増している。ならば結果として機能している、ということだ。
問題はその夜に起きた。
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深夜、居室の窓に薄く月明かりが差し込んでいる。アリアは木製の椅子に腰かけ、剣布で刀身をゆっくりと磨いていた。磨くことで気持ちが落ち着く。入団前から続けている習慣だ。
廊下に足音がした。軽い足取りで、誰かが部屋の前を通りかかっている。
足音は止まった。
「アリアさん、まだ起きてますか」
レオンの声だった。
「……はい」
「遅くまで頑張ってますね。これ、よかったら」
扉を開けると、レオンが両手でカップを持って立っていた。白い湯気が細く立ちのぼっている。
「体を温めてくれるブレンドです。入団したばかりで一番負荷がかかる時期ですから。疲れた筋肉の回復を助けるハーブが入っています」
「あ、いえ。私は大丈夫です。ご心配は……」
レオンが片手をわずかに上げて遮った。「義務とかじゃないです。ただ、廊下を通ったら明かりがついていたので」
強引でも、気遣いをアピールするふうでもなく、本当にそれだけだという顔をしている。
アリアは言葉に詰まった。断る理由を探したが、一週間の疲れが体の奥に溜まっていることをアリア自身はわかっていた。脚は筋肉痛で、肩は訓練の衝撃が残っており、目は書類整理と緊張の連続で奥が痛い。それでも断るつもりでいた。なぜなら——。
「(他の先輩たちのように、なるのが怖い)」
その思考は一瞬で過ぎた。
「……ありがとうございます」
カップを受け取ってしまった。
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自室に戻り、椅子に座り直してカップを眺めた。淡い黄緑色の液体が湯気を立てている。
(別に、飲むだけなら問題ない。ただのお茶だ。施術とは違う。施術は断った。お茶は許容範囲内だ)
そう言い聞かせて、一口飲んだ。
「……っ!?」
思わず声が漏れた。
ただのハーブティーではなかった。口に入れた瞬間、舌の上で複数の草の風味が重なり合い、飲み込むと熱が喉から胃へと真っ直ぐ落ちて、体の内側から光が広がるような感覚があった。一週間分の訓練で積み上がっていた筋肉のこわばりが、じわりじわりと溶けていく。目の奥の疲れまで薄れていくような……。
「な、なんですかこれは……」
思わず声が出た。幸い、廊下にレオンはもういなかった。
もう一口飲んだ。
また同じ感覚があった。
アリアは剣の手入れを忘れてカップを両手で持ち、ゆっくりと中身を飲み干した。
空になったカップを見つめて、アリアはしばらく考えた。
(なぜ、こんなに効くんだ……。ハーブティーはこれまでも飲んだことがある。薬効のあるものも。でも、ここまで直接的に体の疲れに届いたものは一度もなかった)
カップの底には細かい葉のかすが残っていた。何種類ものハーブが調合されていることが分かったが、その種類は判別できなかった。
(分からない。これをなんの努力もなく、廊下を通りかかっただけで作ってきたあの人は、いったい何者なんだろう)
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翌朝、食堂でレオンと顔を合わせたとき、アリアは少し緊張した。
「昨夜のお茶、体に合いましたか」
アリアは皿に目を向けたまま「……はい。おいしかったです。ありがとうございました」と答えた。声が少しだけぎこちなかった。
レオンが次の皿を運びながら、ふと振り返った。「よかった。施術もいつでも声をかけてください」
「それは遠慮します。私は自力で回復しますので」
きっぱりした断りだった。レオンはそれを聞いて「そうですか。無理せずに」とだけ静かに言い、次の料理へと手を伸ばした。
あっさり引き下がった。アリアは安堵しながら、どこかわずかな物足りなさも感じて——いや、物足りなさなど感じていない、と自分に言い聞かせた。
その日の午後、ミレイアがアリアに声をかけてきた。
「あなた、昨夜レオンにお茶をもらったでしょう」
「……なんで分かるんですか」
「あの子が夜間に動いていれば大体把握してる。索敵は私の専門だから」
それはもはや監視では、とアリアは思ったが口には出さなかった。
「飲んだ?」とミレイアが訊く。問いというより確認する調子だった。
少しの間があった。アリアは「飲みました」と答えた。
ミレイアが腕を組んで、深く溜め息をついた。「でしょうね。あれは反則なのよ。一口飲んだら認めるしかなくなる。私も最初に飲んだとき、足元がすくわれたもの」
「……ミレイア隊長も最初はそんな感じだったんですか」
ミレイアがわずかに視線を外した。「私は今でも、ただ眼精疲労の対処として合理的に活用しているだけよ」
「……はい」とアリアは静かに受け流した。
ミレイアが少し声を落として、歩きながら続けた。「ただ。弱みを補充して戦える方が、無理して壊れるよりずっと強い。あなたはまだ入ったばかりだから、無理しすぎないようにね」
「……ミレイア隊長が最初に来たとき、誰かにそう言ってもらいましたか」
ミレイアが少し間を置いた。足を止めて、廊下の先を見た。
「言ってくれたのは、あの人なのよ。自分でそう言わずに、ただお茶を渡してきた」
アリアはその言葉をしばらく噛み締めた。
夜。剣の手入れをしながら、アリアは隣にカップを置いた。今日もレオンに頼んで一杯だけもらった。施術は断った。それだけは断った。
「(お茶だけは……許容範囲内だ)」
そう言い聞かせながら、少しずつお茶を飲んだ。
翌日も、またその翌日も、アリアはお茶を断らなかった。少しずつ、その習慣が一日の終わりに欠かせないものになっていった。それが何を意味するかについては——まだ考えないことにした。
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十日ほど経った頃、食堂でレオンと二人になった瞬間があった。
レオンがカップを片付けながら、ふと振り返った。「アリアさん、少し顔色が明るくなりましたね」
「……そうですか?」
「最初の頃と比べると。慣れてきましたか?」
「……少し、かもしれないです」
「よかったです」とレオンが穏やかに笑いながら言った。「無理してるのに無理してないフリをする顔、最初の週はずっとしてたので」
アリアが少し固まった。
「……気づいてたんですか」
「顔に出てましたよ。誰にも言いませんでしたが」
「……ありがとう、ございます」
アリアが小さく言った。レオンが「どういたしまして」と軽く頭を下げて立ち上がり、厨房に戻った。
アリアはカップを両手で包みながら「(気づいていて、言わなかった……)」と思った。だから何も押しつけずに、ただ夜にお茶を渡してくれた。それだけだった。
それだけで、十分すぎた。
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ある日の昼食後、クリスがアリアの隣に自然な流れで腰かけてきた。いつものおっとりした笑顔で「レオンさんのお茶、習慣になりましたか?」と訊いてくる。
「……なんで知ってるんですか」
クリスが小首を傾けた。「レオンさんが夜に廊下を歩く頻度が増えてたので〜♡ 夜更かしか、誰かのところに行ってるかどちらかだと思って」
「……なんか調査されてるみたいで怖いんですが」
「調査じゃないですよ〜♡ 気になるものは気になるんです」とクリスはにこりとした。その笑顔に悪意は欠片もない。
アリアはため息をついた。「……お茶だけです。施術は受けていません」
「でも毎日飲んでるんですよね」
静かな問いだった。否定しようとして、できなかった。「……そうです」
「それって、もう施術の一種みたいなものじゃないですか〜♡」
「違います」
「どこが違うんですか〜♡?」
アリアが返答に詰まった。クリスはそれを見てもにこにこしたまま続けた。「そういうものですよ〜♡ 入口はいつも「これだけ」から始まるんです。私もそうでしたよ」
「……クリス先輩の入口は何だったんですか」
クリスが少し遠い目をした。懐かしむような、嬉しそうな顔で。「一緒にお菓子を作ってほしいと頼んだら、自分の好きなレシピを聞いてくれたんです。それだけで十分すぎて……次の日から毎日話しかけに行くようになりました」
「それはもう完全に……」とアリアが言いかけた。
「何ですか?」
「……いえ、なんでもないです」
クリスがふわりと微笑んだ。「アリアさんも気づいたら同じになってますよ〜♡」 アリアはその言葉を受け止めながら、少しの間だけ黙っていた。




