第25話:崩壊する憧れの偶像たち
入団二日目。アリアは朝の点呼を終え、訓練場に向かいながら胸の高鳴りを感じていた。
白百合騎士団の訓練は、やはり別格だった。
ただそこに立っているだけで全員から圧倒的な実力が滲み出ており、剣を抜けば動きのひとつひとつが洗練の極みだった。セレス団長の剣捌きは教科書で見たどの型よりも美しく、エスト副団長の魔力制御は精緻で無駄がなく、リリヤ隊長の速度は人の目では追えないほど鋭かった。
これが本物の精鋭部隊か——とアリアは全身で感じ、入団を決めた選択を誇りに思った。ここで鍛えられれば自分も変われる。そう思うと、訓練の辛さよりも充実感の方が大きかった。
午前の訓練が終わり、アリアが汗を拭きながら訓練場を出たときに、事件が起きた。
「……少しだけ、肩を揉んでくれないか」
背後から低く抑えた声が聞こえた。振り返ると、セレス団長が廊下でレオンの袖をそっと掴んでいた。
団長の表情は凛とした平静を保っていたが、目がかすかに——どう表現すればいいか、懇願するような光を帯びていた。
「午前の指揮で右肩に少し張りが出た。……本当に少しでいい。五分でいい」
「はいはい、わかりました。少し張ってますね、確かに。こちらへどうぞ」
レオンが事もなげに答えながら、セレスをケア室へ案内した。アリアは廊下の角からおそるおそる様子を窺った。
施術台に腰かけたセレスの肩に、レオンが指先を添えた瞬間——
「……ふにゃぁ……」
アリアの目が止まった。
今、確かに聞こえた。王国最強の女騎士、セレスティリア・フォン・ローゼンバーグの口から、「ふにゃぁ」という、これ以上なくだらしのない音が漏れた。
背筋をまっすぐ伸ばし誇り高く在ったプラチナブロンドの美しい女性が、みるみる表情を蕩けさせていく。凛とした口元が緩み、目がとろんと半眼になり、施術台の上でずるずると重力に逆らうのをやめていく。
「あっ……そ、そこが……はあ……」
「最近ずっと右肩に負担が偏ってましたね。もう少し均等に……」
「……わかって、る……だから……はあ……」
「(あの、団長が……!?)」
アリアは壁に背中をつけ、声が出なかった。憧れの上司が音を上げながらだらしなく溶けていく光景は、入団試験に向けて描いていたいかなるビジョンにも含まれていなかった。
しばらくして、ケア室の扉がほとんど閉まりきっていないことに気づいた。扉の隙間から、かすかに会話が聞こえてくる。
「……首の後ろが少し固いですね。ここはどうですか」
「……んっ……そこは……最近よく……」
「訓練の体勢かもしれないですね。少し角度を変えてみましょうか」
「……ああ……た、助かる……なぜそんなに……うまいのか……」
「慣れてますから。団長は毎回同じところに疲れが来ますよね」
「……そうか……私の体を、そんなによく……知ってるのか」
「当然です。担当させてもらってますから」
沈黙があった。それは「お世話になっています」という沈黙ではなく、どこか別の感情が混じった静けさだった。
「(…………何を聞いてしまったんだろう)」
アリアは壁から離れ、足音を立てないように廊下を遠ざかった。
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次の衝撃は昼過ぎに訪れた。
アリアが資料整理の用事で廊下を歩いていると、エスト副団長がレオンの部屋の扉をノックしていた。
本来なら副団長室で済むはずの業務を持ち込みながら「今日の分の報告書をここで仕上げる。邪魔をするな」と言い放っている。
「はい。では、お茶を一杯入れましょうか」
エストが書類を抱えたまま、ほんの一拍置いた。「……そうしなさい」
扉が閉まる間際に、エストの表情が——一瞬だけ、明らかに柔らかくなった。
「(副団長も……。副団長室は何のためにあるのか)」
アリアは廊下で立ち尽くした。しばらくして、扉の向こうからかすかにペンの走る音と、お茶の香りが漂ってきた。仕事をしているのは本当なのだろう。だが本当にそれだけなのか。
三十分後、廊下を通りかかったアリアが扉の外から聞こえてきた声に足を止めた。
「……このスープ、美味いわね」
「ありがとうございます。午後の業務が長くなりそうだと思って、少し多めに作りました」
「……なぜ分かるの」
「エストさんが書類を持ち込んでいたので」
沈黙が流れた。ペンの動きが止まる。
エストが目を細めながら静かに言った。「……余計なことを察さないで」しかし怒った声ではなかった。
「失礼しました。でも、お茶のおかわりはいかがですか?」
小さく溜め息が聞こえた。「……もらうわ」
アリアは廊下で「(副団長室は本当に何のためにあるのか)」と改めて思った。
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夕方には、食堂前でリリヤがレオンの腕を引き止めていた。
「レオン! 飯まだ? 腹減った! あと頭! 撫でろ!」
「夕食まであと一時間ほどかかります。少し待てますか?」
「待てない! つまみ食いでもいい! あと頭!」
レオンが苦笑しながら手を伸ばした。「はいはい……」
わしわしとリリヤの赤髪を撫で始めると、リリヤが「ぐっ……」と声を詰まらせ、壁に手をついてよろめいた。
「私の弱点を……こいつは本当に……」
「頭皮が疲れてましたよ。訓練でずっと頭に魔力を使ってたでしょう」
「そんな理由で撫でてるの?」リリヤが恨みがましく目を細めて言う。「普通に頭撫でるより効いてるじゃんかよ……ずるい……」
「それはよかったです。では夕食まで少し待てそうですか?」
「……もう少し撫でてくれたら」
「わかりました」と言って、手のひらをゆっくりと動かし続けた。
レオンが引き続き、ぐるぐると手のひらで撫でる。リリヤの目がとろんとしてきた。壁に背をつけ、ずるずると床にしゃがみこみそうになる。
「……お前が傍にいると……なんか……困る……」とリリヤがぼそぼそ言った。
「困りますか?」
「……困らない。嬉しい。でも困る」
二つが並立する感情について、レオンは「そうですか」とだけ言った。
「(……これが王国最強の精鋭部隊の日常なのか)」
アリアは静かに食堂の扉を開けて、誰もいないテーブルに腰かけた。
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夕食後、食器を洗いながらミレイアが溜め息をついた。
「……何かしら、その顔」
「あ、えっと。……その、皆さんとレオンさんの関係が、その、なんといいますか」
ミレイアが食器を洗う手を少し緩めて、疲れた目を向けた。「ああ」
「最初は私も不思議に思ったわ。これが王国最強の——って。言いたいことはよくわかる」
「あの、ミレイア隊長は」アリアは慎重に言った。「レオンさんのケアは……受けているんですか?」
ミレイアが腕まくりしたままの腕を組んだ。一息おいて、きっぱりと言い切った。「目が疲れたときに、仕方なく眼精疲労のツボ押しをしてもらっているだけよ。あくまでも効率的な疲労回復の一手段として、合理的な判断のもとで活用しているだけ。他の人たちとは全然違うわ」
アリアは軽く頷いた。「……はあ」
「全然違うの」ミレイアの目が少しだけ鋭くなった。
「……はい」
ミレイアが少し早口になったことを、アリアは指摘しなかった。
少しの沈黙が流れた。食器を洗う音だけが部屋に響く。
ミレイアが片付けの手を止め、少し間を置いてから静かに言った。「ひとつだけ言うなら。あの人のケアを受けた翌日は、全員の戦闘能力が確かに上がっているわ。数値にも出ている。それだけは事実よ」
「数値にも出るんですか?」
ミレイアがアリアの方に向き直って静かに付け加えた。「次の健康診断のときに分かるわよ。……あなたも、もし足や肩を痛めたときは遠慮しなくていい。あそこは、騎士として弱みを見せても安全な場所だから」
アリアはそれを聞いて、少し考えた。弱みを見せても安全な場所、という表現が引っかかった。入団試験の前から、そういう場所が欲しいと思っていた気がした。
翌朝の点呼で、アリアはその言葉の意味を理解した。
昨日施術を受けたセレスとエストが、目の澄み方が違った。疲労の影がきれいに消えており、立ち姿から発散される圧力が昨日より鋭かった。
なるほど、これが専属ケア要員の存在理由か——とアリアは思った。
ただ「ふにゃぁ」の件については、まだ整理がついていなかった。




