噂の文官
ああ、いたぁ! と叫ばれて、何事かと振り向いた瞬間に制服の背中を掴まれた。さしずめ心中では確保ぉ! と快哉を上げられているに違いなかった。人ごみが増す中、だいぶよれよれになった文官の制服を直そうともせずに逃がすまいと張り付いた相手には、もちろん見覚えがあった。
「ミキ、なにしてんの?」
「それはこっちの台詞よリゼ。とりあえず、話がしたいから、落ち着ける場所を確保したいんだけど?」
小柄な文官二名では、昼の食堂で突っ立っていたら潰されかねない。わかった、と了承して、レイゼンは相手の手を引いて人と人の間を縫うように移動する。すぐに開いた座席を二つ見つけ、テーブルを挟んで着席した。
久しぶりに会う元同僚のミケーア・ジェニスは、元気一杯、エネルギーの満ち溢れる明るさとハイテンションだった。一事が万事、のんびりと気ままに流れていくレイゼンとは対極にいるような性格だ。ミケーアはレイゼンが文官に配属したばかりで、まだ落ち着く先も決まらずたらい回しにされていたころの同僚だった。働いた時間はひと月ほどだが、常にマイペースなレイゼンに振り回されず、時には自分のペースに巻き込んでレイゼンを動かせる、奇特な人間だった。
「久しぶり。前に会ったのが春の人事異動の前だから……んーと、二十日くらい前?」
「そうかな?」
「忙しかったからねー。んっとにもう、毎年毎年この時期の人事課なんて、やんなるぐらい嘆願書が届くんだけどさあ……今年はひどかったよお。元上司からの手紙見つけちゃって、どうしてくれようかと思ったわよ。ま、開く前に今の上司がゴミ箱に入れちゃったんだけど。機会があれば読みたかったわあ。手ひどいことしといて、嘆願書よこすとか笑っちゃう。いっぺんマジで死んで来いって感じ。何が書いてあったのか、興味ない? 今更官吏ヅラしてゴチゴチの書面みたいな手紙だったらむしろ一周回ってネタよね、ネタ」
一度も口をはさむ隙がないまま、ミケーアは一気にここまでしゃべった。しっかりちゃっかり手元の弁当は開かれ、いつの間にやらお手製らしいサンドイッチは一口かじられている。片やレイゼンは、立て板に水のミケーアの愚痴を聞く他は、何もしていない。
「って違う!」
彼女のパンが半分になったところで、はっとしてミケーアがようやく自身の用件を思い出した。がたん、と立ち上がって自己突っ込み。
「あたしこんな事しに来たんじゃないわっ」
「そうなの?」
「大変よっ。いや、大変なのはあんたよ!」
びし、仁王立ちで指差すが、顔に指を突き付けられても、レイゼンにはピンとこない。
「? なんで」
「なんでって……」
そこで、やっと食堂のど真ん中にいることを思い出したミケーアが椅子を引いてレイゼンに顔を寄せる。囁き声は、耳元だけで聞こえるように。
「どこもかしこも、アンタの名前でいっぱいよ。今日の噂は、謎の人物レイゼン・ハルフォンド! っていう大見出しなんだから」
それは噂じゃなくてゴシップ紙だ。だがとにかく昨日の出来事が文官の間にも広まっているのは間違いなかった。
「こんなに大きく騒がれちゃって、アンタ大丈夫なの?」
「大丈夫っていうか……」
きょろ、とレイゼンが周囲をうかがう。確かにざわめきの中で「レイゼン」や「ハルフォンド」の単語を多く拾える。右も左も、近くも遠くも同じ噂をしていた。だが……こちらに向く視線は、皆無。
「無害じゃないかな……」
周りの反応を見ながら呟くと、ああ、とミケーアも納得した。
「顔は売れてないのかぁ……」
なあんだ、とやや落胆したようにも見える、脱力。つまんないの、というセリフは聞かなかったことにする。食堂の人ごみにまぎれていた時点で、レイゼンとしては気付いていたのだが。
「まあ、文官はたくさんいるし、アンタは仕事ができる訳じゃないし、目立たないっちゃ目立たないよねえ。部署も今のところ以外はどうせ短期でやめてるだろうし……ていうか、一年も付き合えたそっちの上司、マジ凄すぎ。よっぽど寛容なのか、よっぽどバカなのか……て、バカはあり得ないか。宰相様のお気に入りだもんね、アルフレート様って」
「そうだっけ?」
「なんでアンタが訊くのよあたしに。財務の最終決済一手に握ってる超・高官だよ。なんでそんなめちゃくちゃ忙しい部署であんたが続いているのか、不思議でならないよ」
確かに首にされても文句は言えないだろうなあ、と我がことながら実感する。アルフレートは昼食に出る時間すら惜しんで、執務室で軽食を摂っているほどなのだから。結局休みを返上する羽目になり、ものすごい不機嫌のまま、ものすごい処理速度で仕事をこなしていた。
「で、結局噂ってどこまで本当なの?」
ミケーアにそう聞かれても、レイゼンの耳には入っていないため、真偽の判定が付かない。どんな話? と訊けば、知らなかったのかと呆れられる。
と、ミケーアが突然すっくと立ち上がった。またしても、びしっと指を突き付ける。首をかしげるレイゼンの目の前で、迫力満点の大声を上げる。
「迫りくる暴漢たちをバッタバッタと打ち倒し、右手には剣を、左手には正義を! その名も、文官レイゼン・ハルフォンド!」
「…………」
「高名武官を独り占め! その美貌と愛に、逆らえる者なし。憧れの君よああさらば」
「…………」
「どう? 間違ってる?」
らんらんと期待に光る目に見つめられながら、レイゼンは、生まれて初めての体験をした。言葉がない、という状況だ。いつもの生返事すらしばらく出てこなかった。ミケーアに集まった視線も、なんだか痛い。例の噂だと知ると、さっさと散り散りになっていったが。
「それが、出回っている噂なの?」
本当に? の意味を込めてミケーアを見上げると、ややばつの悪い顔になった。
「なによ。ちょっとあたしが恰好よくアレンジしたけど、大筋は間違っちゃいないわよ」
かっこいいんだソレ、とは突っ込まないでおく。
「まあ、正解はしてないね」
たどり着いた無難な答えに、そりゃそうよ、とミケーアが切って捨てる。
「アンタがどう考えたって正義とは遠縁の人間で、美貌も愛も持ち合わせがないのは知ってるし、高名武官のアンタの家族が変なのも知ってるわよ。一応、二年の付き合いがあるんだから」
何気にさらっと手ひどく貶されたレイゼンだが、反論する気はない。注意すべきはそこではなかった。
「ホントにやっつけちゃったわけ、悪い奴ら全員?」
ミケーアの関心は、その一点にあった。心配そうな上目遣いの奥にある瞳が、真剣そのものだ。
だから、レイゼンも嘘は言わない。
「違う。暴漢は、騎士がとらえた。私は、時間を稼いだだけ」
「そうなの?」
「……二人、やっつけたけど」
「えっ。マジでやっつけたの? すごいんだけど……てか、どうやって?」
どうやって、と言われても説明できない。体は反射で動く。いちいち覚えたりしていない。
「えと……なんとなく?」
「……そんななんとなくは、何処にもないわよバカっ」
ここでも手を上げてパカリと叩かれる。甘んじて受けておくことにした。ミケーアの攻撃を避けると、当たるまで延々粘られてしまうからだ。
「とにかく、変わったことがあったら誰かに相談しなさいよ? アルフレート様がお忙しいなら、あたしが相談のるからね」
絶対よ、と念を押しながら、ミケーアが席を離れる。人事課とて、春先は忙しい。合間を縫ってレイゼンを探していたのだから、今日会えたのは幸運だった。
二つだけ年上の、優しくて厳しいミケーア。家族でないのに心配し、気にかけ、時にからかって遊ぶ。どうやら人間関係とやらに疎いのだと、彼女に出会ってようやく理解し始めた。血が繋がってなくても話しかけるのはなぜだと聞いたら、初めて殴られた。友達だと言われて、それは何と訊いても殴られた。あたしのこと好きって聞かれて、分からないって答えたら、やっぱり叩かれた。そしていつでも、しょうがないなあと言って笑うのだ。
わからないことが多すぎる。だから、毎日仕事に出るのだ。
噂が立とうが、アルフレートが襲われようが、レイゼンは日常を変えるつもりはない。
今日の仕事も書類の配送。そのためにはさて、どの窓から出れば一番近いだろうか。




