森の中で
今日の命か、明日の官位――
選べるかっ、と執務室なら一蹴しただろう。ついでに机もひっくり返したかもしれない。大体、失礼にもほどがある。選択肢がそもそもありえない。どちらもそう簡単に手放せるはずがない。そのうえ、選択を迫るということは二つの行方を握っているのがレイゼンだと明言している。アルフレートはそんな軽い物のつもりもない。静めた怒りが、再燃しそうになるのを何とかこらえる。
「どういう意味です」
「どっちか一方を失う可能性があるってことです」
「なぜそうなるのかを説明なさい!」
ええーと不満そうな部下を、今度こそ思い切りはたくことに成功した。無言の圧力に屈して、ですから、とレイゼンが説明を始めた。
「確実に助かるために、私が取れるほぼ唯一の方法があるんです」
「それは重畳です」
「でもまあ一歩間違ったら、お偉いさんから大目玉の、規律違反ものです。下手したら、クビ。もしくは処罰どころか懲罰ものです。私だけで済めばいいんですけど、アルフ様も一緒にってなっちゃうかもしれないんです」
どんな違法手段なのか、アルフレートは訊く気にもならない。そんな事を知っている部下がいることの方が驚きだ。そしてここまでくれば、その先はおのずと知れている。
「その手を取らずに穏便に済ませようとすれば、命の保証がないってことですか」
「まあ、上手く逃げ切れればいいんですけど、さすがにあの人数相手だとちょっと……」
当然だ。むしろ今まで逃げ出して見つからずにいることの方が奇跡に感じる。いいでしょう、と窺い見る部下に鷹揚に頷いてやる。
「とれる手は、最大限に活用しなさい」
「いいんですか、明日から無職でも?」
「無用な心配です。あなたが首になっても、私はそうならない手立てをこれから考えます」
全部ひっかぶせて見せますよ、と不敵に笑ったアルフレートは、間違いなく極悪人だった。レイゼンは驚いて目を瞬く。
「そんな方法あるんですかぁ」
「なくてもひねり出すんですよ。無理が通れば道理が引っ込むものです」
「へえ……すごい」
ただただ感心しているレイゼンに、アルフレートは胡乱の目を向けた。自分で言っといてなんだが、いまいちレイゼンは事態を把握していない気がしてならない。たった今、自分はすべての罪を彼女に押し付けると宣言したはずなのだが。
「あなたこそいいんですか? クビになったら、王宮にいられないかもしれませんよ」
「はあ……でも私がいなくてもアルフ様は困らないでしょう?」
真っ向から訊かれる。助けられている身で若干迷ったものの、まあそうですねとうなずいた。日常業務でほぼ役に立たないのは事実だ。
「だったら別に、都で働けなくてもいいんですよ。拾ってくれるところならどこでも行きますし、何とかなる気がします。父や兄姉は健在なので、最悪は頼って帰れる場所もありますから」
失念していたが、彼女の父親を筆頭に、ハルフォンド家の人間はことごとく軍部の主要な地位に上り詰めている。兄が二人と姉が一人。どの人物も家名に恥じない功績をあげている。彼女一人を養うことなど、造作もないに違いなかった。いろいろ引っかかる部分はあるが、とりあえず最終的に食うに困ることがないなら、アルフレートの良心は痛まない――そんなものがあるとして、の話だが。
「では、その方法とやらを聞きましょうか」
「はあ……走るんです」
覚悟を決めるために、一つ深呼吸してから尋ねたアルフレートだったが、意外な言葉に脱力する。思わず半眼になってレイゼンを見下ろした。
「……なんですかそれは」
「ええと……アルフ様がするのは、走るだけです」
ちょっと大変かもしれないですけど、と注釈付けられて、アフルレートは嫌な予感がした。この状況において、走る、とはつまり、逃げる、とイコールではないか。
そして、追われる、ということだ。
やっぱり止めましょう、と言いかけた口が声を発する前に、鋭く甲高い音が森中に響き渡った。
***
ガツッと鈍い音の後に、相手の剣は弾き飛ばされて、空に飛んだ。ガシャンという音が、かなり遠くで聞こえた。上手く当てることができたのを、手に伝わる感触と音でとらえて、ギル・イーハンは構えを変えた。
得物を失った相手が、一歩退く。それが練習終了の合図だった。ギルも剣を鞘におさめて、向き合って一礼する。
非番だった今日は、特に予定もなく昼からは軍の練兵場に詰めて、己の修練と、時折持ちかけられる試合をこなしながら過ごしていた。今の相手はなんと、第一近衛隊隊長であるルシフェル・ハルフォンド。ハルフォンド家の長兄である。非番同士、何度か打ち合っていたが、手数の多さと速さでギルに軍配が上がっていた。
「見事だな」
低い声が短く称賛を投げる。ルシフェルは飛ばされた剣を検分してから、鞘に入れた。体格ではギルよりも肩幅や上背があり、力比べで勝てる相手ではない。それを見越して間合いや切込みを何度も変える戦法をとって勝利していたが、数度の手合わせのうちに見切られることが多くなった。その技量も並ではない。
「ハルフォンド様も、素晴らしい腕をお持ちだ」
「謙遜だな。それとも世辞か?」
「まさか。事実ですよ」
年齢も身分も上の相手だが、ギルはおべっかや嘘を言ったつもりはないし、そもそもそんなことは性に合わない。加えて、国王を最も近くで守り抜く近衛第一隊の長とは、相応の能力が必要な立ち位置だ。ルシフェルは優秀な武官だった。
鋭い探るような視線を受けながら、ギルは取り立てて表情を変えないようにした。
軽いにらみ合いは、相手が目を伏せたことで終わりとなった。そのタイミングで、そういえば、とギルは切り出した。
「妹御にお会いしましたよ」
「妹?」
「ええ。お父君によく似ておられる」
ルシフェルが顎に手を当てて怪訝な顔になった。出仕が長く、多方面の人間から家族の話を耳にする彼でも、そんなことを言われたの初めてだった。長い金髪、つりあがった切れ長の目を持ち、軍靴を鳴らしながら颯爽と活躍する妹は、始終穏やかな父とは対極にいると、家族でも意見が一致している。
「あれは確かに軍人だが、そんな評価は初めて聞いた」
「ああ。すみません。マリアン殿ではなく、もう一人の方です」
もう一人、とつぶやいた後、ルシフェルに驚きと警戒の色が浮かんだ。
「それは、一体どこで……」
「どこ、ということもありませんが……その辺で、ですかね」
後ろにそびえる王宮の一角を見もせずに指し示す。詳しく説明するつもりはない。あくまでも世間話。その中で、拾える情報があればいただいておこう、くらいの気持ちだった。なにしろ、名前は分かったものの、それ以上の詳細は一切なかったからだ。レイゼンを直接知っている人間は見つけられず、噂になったこともない。となれば、身内に当たる機会があれば、探ってみるのが定石だ。
が、ギルの予想を上回った警戒心を相手が晒した。ますます好奇心がうずく。
「どちらにせよ、父に似ているとは思えないが……あれが自己紹介でもしたか? あまり人と関わるのは得意でないと以前は言っていたが」
「いいえ。こちらが話を振りました。やはり少し驚かれていましたから、ご本人も初めて言われたんでしょう」
嘘が混じるが、許容範囲内だろう。それだけで他意はないと伝わればいい。そうか、と話を切り上げるように呟かれて、引きどころか、とギルは見当をつけた。あまり突っ込まれると、こちらとしては痛い腹を探られることになる。
練兵場を後にしようと一歩下がった時、ふいに甲高い笛のような音がした。遠い場所から届いた音は、独特の抑揚をつけて響く。それは見回りの兵士が、侵入者を発見したときの合図に似ていた。
――そう、似ていた。けれど、違う音であることを、ギルは察知した。
だが周囲はそう受け取らなかったようだ。周りにいた兵士たちが、一様に剣や防具の装備を手に取り、規律通りに集合場所へ向かう準備をしている。
どうすべきか、とギルは迷った。バカ正直に違う音だと主張するのは、組織に余計な波紋を生む石を投じる行為だ。万が一自分の方が間違いだった場合は、いくら自分が最強の武人と冠される有名人だろうと、排除される可能性が高い。むしろ、名が知られているからこそ、その反動は大きいだろう。
だが隣に、もっと違う反応を示している人物がいて、目を丸くすることになった。
ルシフェルは、音の下方角を向いたまま、硬直していた。かっと見開いた瞳が、信じられないことが起こったと言わんばかりだった。
「ハルフォンド様?」
呼ばれて、ようやく我に返ったルシフェルだったが、その顔色は血の気が引いて青い。その事態こそが、ギルとしては信じられないことだった。冷静沈着、臨機応変と名高い人物が、顔色を変えることなどそうそうない。
「いかがなさいましたか」
「気にするな」
短く拒絶され、ルシフェルが身をひるがえす。止める間もなく王城へと消えた後ろ姿を見送ってから、ギルは己の愛馬を迎えに行くことにした。非番である以上、集合の義務はない。ならば、離れたところから見物を決め込むのが一番だった。なにかあるのは、確実なのだから。




