動き出した事件
アルフレートが帰途についたのは、レイゼンが間の抜けた訪問者を連れ帰った三日後だった。次々と回される仕事のせいで、執務室に缶詰の状態でいい加減忍耐も限界だったがようやく解放されたのだ。
手配した馬車の中には、ちゃっかりレイゼンも乗り込んでいた。一応上司に合わせて執務室に帰宅せず居続けたが、例によって書類処理には全く役に立たず、ペンを走らせるアルフレートの横でほとんどは日がな一日のんびりと過ごしていた。普通ならあり得ないが、アルフレートの方はすでに慣れたもので、必要な時以外はまるっと無視するすべを身に付けていた。時々、視界に入るとささくれた神経を刺激していたが。
地味な横領のくせにやたらと細かく、確認するのが大変だったせいで嫌な仕事を延々とさせられたが、あとはアルフレートの知るところではない。すべては官吏の長である宰相の権限に移り、犯人を捕縛する段階に入るはずだ。そこに文官の入る余地はない。
目の前の部下は、相変わらずどこを見ているのかわからない表情で窓の外を眺めている。一応、彼女も大量に持ち込まれる仕事を、各所に配布するために執務室に出入りを繰り返していたが、同じ徹夜でも疲れた様子は見られない。顔色一つ変わらないのは、どうにも小憎らしい。
「この前の武官殿でも見えるんですか?」
「いえ、全然」
あてこすった嫌味も、たいていはごく普通の返答が来る。通じているのかいないのか、いまいちはっきりしない。一年付き合った今でも、レイゼンはつかみどころがなかった。
ふいに、ぼうっとしていたはずの部下がぱっと振り返った。いつもと変わらぬ無表情に近い顔色が、やや厳しい雰囲気を帯びた、気がした。
「上司」
「私の名は上司ではありません」
「頭下げてください」
「は?」
意味が分からないうえに命令に近い口調。またこのバカは、と心の中で毒づく。どうして礼儀の一つも覚えられないのか。自然と眉根がより、説教しようと口を開いた。
が、抗議が出る前に胸倉を掴まれて、無理矢理座席から引きずりおろされた。その頭上を、何かが通り過ぎた。
もう一度言おう。何かが通り過ぎた。それはカッと鋭い音を立てて、今しがたアフルレートの頭があったあたりの壁に突き刺さった。
馬車が止まった。それも、馬の鋭いいななきともに、激しく揺れながら。衝撃にとっさに頭をかばう。が、激しく打ち付けたのは背中だった。息がつまり、呼吸が止まった気がした。
どたどたと複数の足音が近づいてくる。異常事態だ、とだけ把握した。だが次にどうするべきか、浮かぶ考えもなかった。その中で、手首を強くつかまれる。細い指は、思いのほかきつかった。顔を上げると、やはり変わらぬ部下がいる。
「逃げましょう」
なにをバカな、と思った。多勢に無勢だ。だがここで大人しくしても、閉じこもれるわけもない。蹴破られて、最悪は殺される。沈黙をどう取ったのか、レイゼンは立ち上がって顔をまっすぐに扉へと向けた。掛け金のかかった扉が、がたがたと揺らされた。瞬間。
バキドカン、と鈍い音がして、扉が吹っ飛んだ……外側に。
蹴破ったのはレイゼンだ。唖然とした襲撃者たちの動きが止まっている一瞬を、彼女は逃さなかった。アフルレートの手首をつかんだまま駆け出す。男たちの怒号を背中に聞きながら、引きずられるままに森へと続く藪に突っ込んだ。矢が頬をかすめた。唐突に強く手を引かれて、支えきれずに転ぶ。ざっと土埃が舞った。
痛みはない。すでにあらゆる感覚がない。分かるのは、この事態に一向に慌てていない部下がいることだけだ。無様に地に伏せるアルフレートの横で、静かに目を閉じて身をかがめている。
足音を探っているのだ、と察することはできた。そんなことができるとは到底思えなかった。少なくとも、武術よりも勉学に励んできたアフルレートには不可能だ。足音も人声も聞こえない。が、レイゼンが目を開けるまでにしばらく時間がかかった。
「とりあえず、森に散ったみたいですね」
「……今日初めて、あなたがという人が部下でよかったと思いましたよ」
さも当然のように言われて、身を起こしながらアルフレートはあきれ返った。部下がこんなに役に立ってのは初めてである。そして、こんなことに役に立つとは思ってなかった。これではレイゼンが役立つためには、アルフレートは毎日危険な目に合わなければならない。
レイゼンとしては、よかったと言っていいのかどうか、微妙な事態だ。めったになく褒められているのだが、喜んでいい状況でもない。首をかしげてから結局いつもどおり、はあ、とあいまいな返事をしておく。
「ところで、上司」
「上司ではありません」
「じゃあ、上官」
「私はそんな名ではありません」
「このやりとり、こんな時でもするんですか」
「貴方が名前を憶えないから悪いんですよ」
「意外と図太いですね、上司は」
「アフルレート・ローウェルです」
「苦手なんですよ。長いのは」
げんなりしながらためらいもなく言い切った部下を、氷の目線でアフルレートは見下ろした。
「言うに事欠いて上司の名前を長いからなどという理由で覚えない部下がどこにいるんです!」
「はあ……ここに」
状況を忘れていれば、叫びたかった。だがそれを許さない理性を持っていたアフルレートは、己が恨めしくなった。怒鳴るために吸った息を、深呼吸に変えて何とか怒りを宥めた。
「バカ……でしたねえ、あなた」
「はあ」
つくづくといった風情で吐き出した息とともにつぶやく。お得意の生返事も、間の抜けて見える顔も、普段通りだ。
「じゃあ、アルフ様ってお呼びします。三文字で許してください」
それ以上は無理、と言外に告げられて、アフルレートはため息を吐いた。一年である。この言葉を引き出すのに、一年。おそらくこんな状況でもなければ、呼び方を変える気もなかったに違いない。無精や怠惰とも違う。レイゼンにとって他人の呼び方など、気にするに値しない些事なのだ。それを些細な事と放置させないために、言い続けて一年かかった。
いいでしょう、と了承すると、じゃあ、と言ってレイゼンが指を二本立てた。怪訝そうに見つめるアルフレートに、それぞれを反対の指で一本ずつさしながら、レイゼンはとんでもないことを言い出した。
「今日の命か、明日の官位――好きな方、選んでください」




