暇だった武人
ちょっと退いてください、と言われて、休憩中だったギルはひどく驚いた。それも声の主はどうやら女性で、さらに響いてきたのは頭上から。木の上で二股に分かれた幹にもたれた状態でいたのに、頭の上から声をかけられたのだ。あらゆる意味で仰天した。
およそギル・イーハンに進んで話しかけよう、とする人間は、よほどの猛者か、とんだ大馬鹿者か、世間知らずかのどれかである。最強の武人とはいかにも物々しくて孤高のイメージがあるらしく、声をかけられるのはまれだった。本人は全くそんなつもりはないのだが。
そもそも、そんな二つ名がついたのは、年一度に開催される御前試合での優勝したためだ。彼自身は幸運に恵まれた部分もあるつもりだったが、周囲はそう受け取らなかった。人々は尊敬もしたし、褒め称えもした。それでも同時に、同じくらい畏怖の対象になった。戦争は過去になりつつあったとはいえ、強い戦力を持った人間は、今は敬遠される時代になっていたのだ。戦争の英雄であるバストラスが純粋にもてはやされるのは、彼が争いを収めた人間であると同時に、すでに最盛期を過ぎた、昔の人間だからだ。
そんなわけで、ギルに声をかける人間はめったにいない。勝負を挑まれるときか、都に出てきたばかりの人間に道を聞かれるときか、見知らぬ酔っ払いを相手にするときか。そんなもんである。
しかしながら、今ギルがいるのは王城だ。知らない人間はほとんどいないし、まさか休憩時間とはいえ職務中に喧嘩を吹っ掛けられるわけもない。空耳かと疑いながらも、木の上で身を起こした。その時。
バサバサッと葉擦れと枝のしなる音がして、何かが通り過ぎた。そのあと足場にしていた一枝がたわんで、元に戻る。下をのぞくと、あちこちに葉っぱを付けたまま、文官の制服姿が遠ざかっていくのが見えた。小さな肩幅から、それが男でないことは察しがついた。片手には紙の束。かけていく姿は軽快だった。
ギルは身を乗り出して文官の通った道なき道を想像した。おそらく、すぐわきにある建物の三階の窓から飛び降り、葉と枝で衝撃を和らげ、地面に着く前に枝をつかんで着地。その前にギルがいることも見抜いたうえで、一声警告した。
好奇心が、うずいた。
あり得ないほど軽い身のこなしも、女性文官であることも、そしてなにより、なぜこんな道を通ったのか、すべてに強い興味を覚えた。
とはいえ、手掛かりなしに身元を調べることはできない。大体、理由もなく女性文官を調べようとすれば、あらぬ誤解と噂が立つ。ただでさえ目立つ身の上としては、これ以上話題を提供する気はない。
そこでギルが取った方法は、地味な待ち伏せ作戦だった。休憩時はとりあえず、文官たちのいる建物の中庭や木立で体を休める。以前からたまに気分を変える目的でやっていた行動だが、発見されるとまた騒がれるか奇異な目で見られるため、それを避けるために人目につかない場所を把握していた。が、頻度が上がった分、見つかる確率も高くなったせいでどうしても気配を殺して身をひそめる羽目になった。
うわオレ変態と思いつつ、ちっとも休憩にならない時間だった。一歩間違えると犯罪である。
とはいえ、ちょいちょいと目当ての文官を見かけるため、どうしてもやめられない。まったく収穫なしなら飽きが来るが、彼女はあちこちに顔を出し、あっという間に去っていく。来る場所も目的の方向もいつもばらばらで、一体どこに所属しているのかもなかなかつかめなかった。
それでも、観察しているうちに知り得た情報もあった。
一つ。彼女の仕事は、書類の配送であること。
一つ。彼女は武器の類を一切持っていないこと。
一つ。彼女は間違いなく文官であること。
一つ。彼女は常に急いでいるらしいこと。
一つ。道なき道を使うのは、時間短縮のためであること。
そして、どうやらギル・イーハンの存在に、勘付いているらしいこと。
驚くべきことに、気配を消しているはずのギルの存在を、彼女が感知していると察したのは、見張り始めてまだ二日と経っていなかった。
つい、と流れた視線が、ぶつかった……それだけ。
だが、ギルにとってはそれだけで十分だった。視線は止まりもせずに、前を向いた。そのまま普段通りに駈け出した彼女を、ギルは呆然と見送った。その時占めた感情は、たった一つ――驚嘆だった。
どこまで見抜かれたのかはわからない。けれど、相手はギルの気配を読み取り、場所を確認し、さらにその上で敵意のないことを悟って……放置した。
完全無視。ガン無視。置いてぼり。
それはある意味最も正しい選択だ。余計な事に関わりあいにならない技術は、王宮や政治の場では必須である。それでも、放置していいものと悪いものがある。
彼女は、そこを見誤らなかった。
何しろ今の自分――もとい、ギルのしていることは、毒にも薬にものならない。手を煩わせたくなければ、十分放っておくに限る類のもだった。
そこでまた、よけいに好奇心を刺激された。
なんとしても、顔が見たい。名前が知りたかった。
その願いがかなったのが、ひと月以上経った今日だった。幸運にも、彼女が窓から出て、そしてもう一度戻っていく部屋を見つけたのだ。そこで初めて相対し、相手の顔を正面から見て、その身軽さの理由を知った気がした。
どこにも、似ている部分はない。
けれど、そのまとう気配か、雰囲気とでもいうべきものが、そのつながりをはっきりと際立たせていた。
誰もが敬愛してやまない、かつての英雄に。
言い知れぬざわめきが、心の深い部分で波立つ。
今はまだ、それだけ。




