忙しい文官
クレイス王国は、およそ三百年にわたる長き歴史のある国である。中央の平野は自然の恵みにあふれ、北にそびえる山々からは、貴重な鉱物資源が採取され、国家の基盤となっている。十数年前の戦争はすでに過去になりつつある、穏やかな時代が続いていた。
日常が平和である。とはいえ、この国の文官たちにとっては戦時と変わらぬ、否、時としては戦時以上の忙しさで、日々が回っていた。
「あのー、上官」
「……」
「上官」
「……」
「もしもーし」
「……」
「……帰っていいですかあ」
ばん、と机を激しく叩いたのは、押し黙って耐えていた上官の方だった。細面で、端麗な顔つきの男だが、疲労による隈の色も濃い。ぎりり、と忌々しそうにのんきな台詞をのたまった部下を睨みつける。対して、全く堪えた様子もなくたたかれた机と上司をどことなくぼんやりと見やるのは、女というより、少女に近い部下。こちらは普段通りの顔色に、取り立てて目立った特徴もなかった。
「イイワケないでしょう。ここに溜まった書類の山が、あなたの目に入らないのですか?」
「見えますけど、もう夜中――」
ちらっと眼をやった窓の先には、すでに朝日がさんさんと輝いて、鳥の声さえ聞こえている。
「どころか夜が明けちゃってますけど」
「そんなことは分かっています!」
びし、と更なる青筋が上司のこめかみに走った。
「どこぞのバカが横領なんてしやがってくれたせいで、昨日から目を回す暇もないほど忙しいんですよ!」
「知ってます」
「だったら手を動かしなさい」
「でも私の方には回ってこないじゃないですか、書類」
「役立たずですからね、あなた」
「じゃあ帰っていいですか?」
ふ、と上司の顔が真顔になった。ぐるっと元に戻った話題に、一瞬の間が落ちた、瞬間。
スパーンと小気味いい音がして、丸めた書類が少女の額――ではなく、かばった右腕に落ちた。失敗に終わった攻撃に、ふん、と腹立たしげに男の方が席に戻る。
「暴力反対です」
「指導です――バカなことを抜かしてないで、この紙の山を各部署に届けて低くしなさい。失敗は許しません」
「失敗はしません。時間はかかります」
「それも許しません」
部下はちら、と床と机に積まれた山を数える。処理済みらしき山は片手では足りないほどある。とりあえず、両手いっぱいに持ち上げた。
「了解しました、上官」
「私の名前はアルフレート・ローウェンです。上官ではありません、レイゼン・パスメル・ハルフォンド」
「はあ……長いですね」
「覚えないならここから追い出しますからね」
「これから出ていくところですけど」
余計は口答えをしたせいで飛んできたインク瓶を、書類と自分にかからないように避けてから、レイゼンは薄暗い部屋から退散した。ただし、窓から。
***
目を上げるたびに低くなる山々を見ながら、これだから、とアルフレートはため息をついた。直属の部下であるレイゼンとはおよそ一年の付き合いだが、およそこれほど文官らしくない人間はお目にかかったことがない。書類仕事は壊滅的にできないし、上下関係はいい加減すぎて怒ることを通り越してあきれるしかない。大体、上司が忙殺される目の前で、帰っていいかと聞く神経はおかしい。様々な人間を部下に持ってきたが、たいていはピリピリした雰囲気を発するアルフレートに声をかけることさえためらう人物ばかりだった。
そもそも書き物に向いていないらしい利き腕は、ペンを握ってものんびりのんびり動くばかりで仕事にならない。さりとて、全くの無能かと言えば国政に関する知識も貴族的な人間関係もよく把握しているし、意見を求めればそれなりにまともな返答がある。そして、今任せた配送関係の仕事は、アルフレートの知る中ではだれよりもよくこなす。
いっそ完全に無能だったなら叩き出せるのに、と機嫌の悪い頭で考えた。役に立たないわけではないが、普通の部下が欲しかった。少なくとも、書類を普通のスピードで処理する部下が。ついさっきまで捨てる書類でおもちゃを作っていたレイゼンを思い出して、頭痛が余計にひどくなった。
彼女がここに来たのは、ひとえに「コネ」である。権力、血筋、家柄。とにかくそういうゴリ押しの結果だ。もちろん、アルフレート自身も貴族だが、それほど爵位の高い家柄でもない。それでも、己の才覚と運でそれなりの地位に上ってきた。優秀だと自負しているし、評価もされている。
一方で、その能力に偏りのあるレイゼンでは、そんな下剋上じみたことはできない。そもそも普通は文官なぞにならず、家にこもって過ごし、かつ結婚してしまえばいいはずだ。あれは一応、女である。そしてそれが可能なだけの家柄の出身でもある。なにしろ、彼女の父親は先の戦争の英雄だ。
バストラス・ヴィル・ハルフォンド。
武勲と武名の名高いハルフォンド家の総領であり、前クレイス王国軍隊総大将。そして、かつて最強の武人と恐れられた男。彼は十年近く続いてきた隣国、タジールとの戦いを終焉に導いた立役者だ。現在は将軍職を退き、名誉軍人として司令部の一人に名を連ねている。三年ほど前に即位した国王の信頼も厚く、新王の誕生により人事の入れ替えがあった現在でも、軍部のみならず現宰相にもその影響は大きい。
そんな偉大な英雄の娘だが、本人には全くその面影や類似点はない。が、父子というより祖父と孫に近いほど遅く生まれた末娘を、バストラスは溺愛しているという噂だ。そしてレイゼンが文官になったのも、その一環。宮仕えしたければ、武門の一族なら、武官になればいいようなものの、怪我をさせじと父親が無理に文官の方へ突っ込んだ、らしい。あくまでも噂なので、それ以上はアフルレートも知らないが。
無能なら、放り出していい、とは、上司にあたる宰相がアルフレートに言ったセリフだ。そっくりそのまま、バストラスが放言したらしいが、裏を返せば多少でも使えるならとどめておけ、と脅されたに近い。回ってきたお鉢を、仕方なく手元に置いているのだが……
考え事からふと現実に戻った時、あれほど部屋を占拠していた紙の束はほとんどなくなっていた。ようやく、いつもの景色が見渡せるようになって、仕事も終わりに近い、と慨嘆する。部下であるレイゼンは、それなりに問題もあるが、使えない、わけではない。
ここにいられるより、叩き出したい時の方が多いにしても、だ。
「ただいま帰りましたー」
ひょっこり窓からレイゼンの顔がのぞいた。あり得ないことに、この部下は扉と二階にある窓の両方から出入りするのである。止めろと言い続けて、一体何度目か。舌打ちしながら説教をしようとしたアルフレートだったが、次の瞬間に飛び出したのは悲鳴に近かった。
「なんなんですか、そのオマケは!」
「はえ?」
何やら、騒動の予感である。
***
上司の悲鳴と後ろを指した指を追って、レイゼンは振り返った。全く気にしていなかったが、どうやら追跡者がいたらしい。黒い髪に、がっしりとした体つき。一目で軍部の人間だと分かる、革の胸当てとベルト、そして剣。もの珍しそうに窓から身を乗り出して、執務室を見まわしていた。
殺気や攻撃の気配はない。あるのは興味と好奇心。目の輝きが見知らぬ部屋に喜びを浮かべている。
そこまで観察したところで、がし、と後ろ襟をとつかまれて、部屋の隅に連れて行かれた。
「仕事中に男を引っ掛けてくるとはいい度胸ではないですか」
「……はあ」
目が本気だ。本気で怒っている。寝不足のせいで、余計な迫力も付いてきている。が、はてさて一体どこで会ったのか、いつから尾けられたのか、レイゼンには全く身に覚えがない。かといって、相手に見覚えがないかと言えば、そうでもない。どこかで会ったか、見かけたか。王宮の人間であるのは確かだ。
「はあ、で済む問題ですか。返してきなさい」
「物じゃ無いんですから、無茶振りしないで下さいよ……ていうか、この場合の文句は私に来るんですか?」
「当たり前でしょう。あなたがうかつにも連れてきたんですから。大体、妙なことをすれば目立つのは当然です。窓から出てきた変人を追いかけるような人間が、今、ここに発見されたんですよ」
「つまりフツーなら気にも留められない私が、うっかり変なことしたせいで変な奴に目を付けられたって言いたいんですね?」
「あなたにそこそこの理解力があって結構です」
いつもながらの嫌味あふれる口調に加えて、さあどうにかしろ、と無言の圧力をかけられたレイゼンは、むう、と考え込む。この場合はやはり、ストレートに帰ってくれと頼むのがいいのか。それとも……
「あのさあ……別に仕事の邪魔するつもりはないよ?」
先に口を開いたのは、アルフレートに完全変人扱いされた男だった。吹き出す寸前の顔が、やり取りも全部聞いていたのだと語っている。
「名前を聞こうと思っただけ……そっちの君、名前は?」
顎でレイゼンを指して、ん? と目顔で問いかける。答えようと口を開いたところを、上司にがしっとふさがれた。
「なんで素直に言おうとするんです。面倒に巻き込まれるのが分かりませんか?」
「名乗っただけで、巻き込まれます?」
「この状況でよくそんなことが言えますね。私にすれば、すでに十分面倒事になっていますが?」
「そうなんですか?」
「……これ以上面倒を起こしたら、窓から突き落として二度と部屋に入れません」
断言された。うーん、とレイゼンは迷った。これでは、事態が一向に収束しない。
「部屋に入れないのは、ヤダなぁ」
「嫌なのはそこなんだ……」
ややあきれた男の声が割って入った。じゃあ、これでもいいよと指を突き立てる。
「君の身内に、バストラス・ハルフォンドがいるかい?」
目を瞬く。それだけで相手には十分だったようだ。薄く笑みを浮かべて、一礼した後に身をひるがえした。もちろん、向かった先には窓がある。アッと思った時には、その姿は消えていた。
頭上で、不穏な舌打ちが聞こえた。
「……上司?」
「やっぱり窓から落としましょう」
ぐいぐいと引っ張られて、窓枠に押し付けられる。さすがに頭から落とされてはかなわない。身をよじって逃げだした。
「あの、なんか悪いことしました?」
「本っ当に腹芸のできない方ですね」
「はあ……すみません」
謝ったところで、なにが悪いのかはさっぱりわからない。
「貴方のお父様は有名なんです。つながりがあるのが知られれば、身元なんて簡単に割れます。名前を出された時点で終わっていたとはいえ、顔に出すなんて言語道断です」
顔に出た覚えはないが、納得されてしまったのだから読まれたのは確実だ。
「あのー、やっぱりまずいですか?」
イマイチ自体が把握できないレイゼンに向かって、アルフレートは苦々しく吐き捨てた。
「まずいですね。あの方も、とっても有名な人間ですから」
そこまで言われて、ようやくレイゼンも思い出した。
男の名を、ギル・イーハン。
現在このクレイス王国における、「最強」を冠された武人であった。




