怒りと謀略
憤懣やるかたない、といった体で執務室を占拠している部下が、イオネアには可笑しくて仕方がなかった。よほど己の失態が腹に据えかねているのか、めったに変わらない顔色が朱色を帯びている。呼び出したはずなのに、ちょっと席を外した隙に部屋の主のように机を占拠されてしまった。その上で何やら書き物をしている。
黙っているのもいい加減限界だった。吹き出してさらに事態を悪化させる前に、イオネアは口を開く。
「君、なにしているの?」
「見てわかりませんか?」
「んんー。細かいことは、ここからじゃ無理かな」
入口に立ったままのイオネアと、奥に据え付けられた重厚な机に陣取るアルフレートの間には、ここが宰相の部屋ということもあってかなり距離がある。さらにはっきりと苛立ちをあらわにしたアルフレートに対して、イオネアは必死に笑いを抑える。そろそろ、声を立ててしまいそうだった。
「新しい報告書かい?」
「陳情書ですっ」
あえて突っ込むと、響くように返された。その声がとことん苦り切っている。うっすらと微笑を浮かべた。張り付けた仮面はきっと見破られているだろうなあと思いながらも止められない。案の定、アルフレートは心底嫌そうに顔をしかめた。
「その妙な顔を引っ込めないなら、ここにあるインク瓶を全部投げますからね」
子供じみた脅しに、ついにイオネアの表情筋が決壊した。身を捩って笑いながら、バランスを崩して壁に手を付いた。それでも笑いは止まらない。はははは、と爆笑する宰相に向かって、「笑い上戸がっ」とアルフレートが吐き捨てた。
見るものがいたら、これが王国を支える文官の最高峰かと、不安に駆られる笑いっぷりだった。
その様子を半眼になって睨んでいたアルフレートだったが、イオネアの後ろから入室してきた人物を見て、眉をひそめた。護衛であろう、いつぞや見た青年とともに、ルシフェルがいた。こちらに向かって、やや頭を下げる。
「弟たちが世話になったようだな」
「……こちらこそ、助けられました」
三日前の事件を持ち出され、含みがあるかと疑いたくなったが、特にそんな気配はない。比較的まっとうそうなハルフォンドの長兄に、カイルに辟易していたアルフレートは胸をなでおろす。
「ところで、怪我人が出たらしいが」
「はい」
兵士を気に掛けるとは、流石は騎士の鑑だ、と無表情なルシフェルに感心した、矢先。
「リゼは無事だろうか。あれはすぐ無茶をするのに自分には無頓着なところが多くて、傷を受けても報告もしないことが多いのだが」
「……」
「手紙にもこちらを気遣うばかりで、自分のことはあまり書いて寄越さないので、まるで様子が分からないのだ」
「……」
前言撤回。まったく真っ当でない。安心した一瞬を返せ、とアルフレートは叫びたい。大体、あの場にカイルがいたのだから、レイゼンがかすり傷でも負ったあかつきには大騒ぎ必至、ついでにハルフォンド家に連絡がいかないわけがない。そんなことにも気付けないのか、いや気付いているだろうが、と突き付けてやりたい台詞と指を全力で抑え込む。
「いかがだろうか」
重ねて問われる。無表情で。まるでフツーのことのように。
「……特に、なにも。いつも通りでした」
まるっきりいつも通りだった。昨日も一昨日も、のんびりのんびり、仕事しているのか遊んでいるのかわからない一日を過ごしていた。襲われた、そうだっけ? とでも言いそうな雰囲気だった。
青筋浮かべるアルフレートだが、ルシフェルは到って真面目なままだ。そんな二人の横で、またしてもイオネアが笑い転げている。アルフレートはガン無視、ルシフェルは目にも入ってない。
「そうか。なら、いい」
全っ然よくないわこのバカ兄がっ、と心の中で吐き捨てた。
頭痛を引き起こす返答だが、それを直接言えないのは宮仕えの辛いところだ。最近の悩みは、バカの知り合いが増えることだ、とアルフレートは嘆く。とくにレイゼン絡みが半端ない。いっそ首にすれば楽になるかもしれないが……今この状況でレイゼンを失うのは、やや惜しい。そんな心情のさせられている現状は、不本意すぎるものだが。
ようやく笑いの治まったイオネアが、ようやく口を開いた。まだ口の端には笑いが残っているが。そういえば、と切り出す。
「君も渦中の人になっちゃったよねぇ」
ピクリ。
「連日行列ができるんだって? 楽しそうだけど、程々にさせといた方がいいよ」
ピクリ。
「でも駄目だよ? 邪険にしたら。君って意外と悪人顔だから、迷惑かかりそうだし」
「……それはどういう意味です」
ラビに地獄の使者と呼ばれた低い声音も、イオネアには一向に効き目がない。
「その顔がおっかないって話さ」
「あなたのニヤけた顔より断然、マシです!」
言葉を重ねるたびに、笑いが収まらなくなるイオネアに、びしりと指を突き付ける。完全に命令というより、面白がっているようにしか見えない。これも、一応は上司の気遣い……だろう。たぶん。
そろそろ限界を感じて、アルフレートは立ち上がった。用件は済んだ、と思いたい。これ以上ここにいたら、うっかりイオネアをどついて寝転がしてゲシゲシと力の限り踏んづける気がしてならない。
「陳情書はいいのかい?」
「どうせ無駄ですからね。渡すためではなく、怒りの捌け口として書いただけですよ」
「まだ怒っていたんだね。手紙なら、なくても別に困ってないけど」
「いいえ、困りますね」
気にするな、と言いたげな口調を、バッサリと切る。これはイオネアの問題ではない。アルフレートの問題だ。
「なぜあんな偽物が残されていたのか、あなたに物証を持って問い詰める機会を失ったのですから。まったく困ったものです」
吐き捨てて、まだくすぶる怒りのせいか、手荒く閉まった扉から出て行った部下。その背にイオネアはにんまりと意地の悪い笑みを向ける。
「せっかく作った君たちの舞台だし……いい役を演じてもらうからね」
台本は既にできているし、役の割り振りは終わっている。故意と偶然、意識と無意識の両方を使って、演出する。手紙の一件は、早々にバレた。もちろん、それは折り込み済み。
黙ったまま直立不動で控えていたルシフェルについ、と視線を投げる。
「君は、手配通り見張っていてくれ。来月の生誕祭までには、片を付けよう」
ただ一礼して、ルシフェルは退出する。何のために、誰が動き、どんな結果をもたらすのか。それを知るのは、イオネアだけ。
その中で、ただ一つ読めないとすれば――
「レイゼン・ハルフォンドかぁ……」
今のところ支障はない。だが彼女はこの時期に異常なほど注目されているのは、計算外だ。アルフレートに与えたあの執務室には、人だかりが出来ているというが……
あの性格を考慮しても、さほど問題になるとは思えない。ハルフォンドの家に生まれたものにしては覇気がないし、やる気も薄い。それでも政治的なものの見方はできるし、ホイホイと敵の罠にはまるようにも見えない。
彼女の兄姉はこの一件で重要な位置にいる。それを自覚しているなら、あの妹がうかつな動きをしないよう、自主的に見張るぐらいはするだろう。
とりあえずはそれでいいかと判断して、イオネアは別の仕事に取り掛かった。




