中てられる
夕暮れに目を細めたレイゼンが、ぐい、と両手に力を入れた。立ち上がるつもりだと察して、ほとんど無意識にギル・イーハンの手が伸びた。気配を感じてレイゼンが怪訝な顔でギルを見た。少しだけ浮き上がった体を引き戻そうと腕を掴む――
「リゼ?」
よく通る声がした。二人の動きが止まり、顔を上げる。
「こんなところでなにしているんだい、リゼ」
「カイル兄上……」
カイル・ハルフォンドが官舎の渡り廊下を外れてこちらに歩いてくるところだった。なにやら黒いオーラをしょっている。めんどくさい奴に見つかったと、ギルは内心でため息を吐いた。
あえてもう一度、といった様子で、カイルがにっこりと笑いながら問いかける。もちろん、目には本気の殺気が見え隠れしている。
「なにしてるんだい」
「ええまあ、ちょっとしたお話を」
「はなし? その男と?」
氷の目線でカイルがギル・イーハンを睨みつけた。並の人間では、固まって動けなくとも不思議でないほど、恐ろしい笑みだ。美しい人形のような容貌は、怒りをたたえた迫力も半端ない。
別段、疾しいことは何もない。が、カイルの目線は一点にくぎ付けだった――つかみかけた、腕に。
チャキ、と腰にはいた剣に手がかかっていた。今日のカイルは騎士団の群青の制服、それも略装だ。どこか格式ばった会議にでも出席していたのだろう。腰の剣はやや装飾が施されているとはいえ、れっきとした実用品である。
「リゼから離れろ、ギル・イーハン」
「別に命令されるほど、近づいてない」
すでに職務意識のないギルは丁寧とは程遠い態度だ。ぐっとカイルの利き手に力が入る。
「十分近い。離れろ。視界に入るな。話しかけるな。論外だ」
「それを俺に言えるのは、本人だけだ」
抑えていたカイルの殺気が半端ないことになったのを、ギルも感じ取った。さすがにまずいと思ったのか、レイゼンが立ちはだかる。
「どうしたんだい、リゼ」
「いえあの……流石にここで切り結ぶのはまずいかと」
「心配しなくても、一瞬だよ?」
「そりゃ無理だろ」
はん、と笑いながらギルが余計な口を叩いた。小さな背中越しに、レイゼンがちら、と睨む。その向こうで、金属のこすれる音がした。さらにレイゼンが前に出る。
「退いてくれ、リゼ」
「申し訳ありませんが、できません」
喧嘩は騎士団のご法度だ。それくらいはレイゼンでも知っているのか、じっと見つめあったまま二人は動かない。だが、緊迫した雰囲気が不意に消えたのを感じ取って、ギルは横からカイルを覗き見た。
そして、後悔した。
それはもう盛大に。
ため息をつかんばかりの、うるんだ瞳。切なげに揺れる視線は、一心にレイゼンに向いている。こんな顔をされたら、女性なら間違いなく頬を染める。いや、男でも赤面する奴がいるかもしれない。とにかく、破壊力半端ない。とっさに顔に手を当ててしまった自分が恨めしい。特に顔が熱いとか、そんなことはなかったが。完全に引きつっていたとはいえ。
「愛してるよ、リゼ」
げほ、とむせた。ばれないように顔をそらしたが、たぶん、カイルは気付いていない。
「……ありがとうございます」
「つれないね。そういうところが、可愛いけど」
「兄上こそ、ここ三日で二十回目の告白ですね」
二人の世界で、ギル・イーハンは完全に置いてけぼりを食らった。いや、むしろ帰りたい。内容は……なるべく聞かない。聞きたくない。近距離なので、耳をふさいでも感度のいい聴覚は拾ってしまうのだが。
「少なすぎるだろう? リゼが家を出て行ったからだよ」
「出て行ったのは、兄上の方が先でしょう?」
「いっつも言ってるけど、兄上は堅苦しいよ。カイルって呼んでくれないかい?」
「はあ……」
片目をつぶるおまけつき。いや、いらねえ、とギルは全否定した。
なんだこの流れは。砂が吐ける……ではなく、これが兄妹のやり取り――なわけがない。どこかのバカップルだってこんな阿呆な会話はしない。ていうか、三日で二十回てなんだ、一体。まあ、砂が吐けるほど甘い台詞を言っているのが、けた外れの美人だと妙に様になるし、女には目の保養と耳の保養かも知れない。ただいま完璧に眼中外のギルとしては、氷の魔人が戻ってくる前に逃げ出したいが。
「大好きなリゼ……でもとりあえず、その男を切り刻んでからゆっくり話をしよう」
魔人復活。抑えていた分、鋭さを増した殺気がギルに突き刺さる。すでに抜いている相手には不利だ。もう一度、レイゼンと視線が合った。
「退いてくれないか?」
「……」
懇願するカイルに、ギルは頭痛がしてきた。目の前にいるのは間違いなくカイル・ハルフォンドなのに、全く別人に見える。いや、むしろ別人であってほしい。この場で斬り合いになったら、勝算はあってもその後の流れに分が悪い。階級が下なのだから、部外者に咎められるとギルが責任を取らされる可能性が高い。おそらくそこまで読み切って挑んでいるカイルは、全く持って腹黒いし、智謀知略をこんな阿呆なことに使ってくれるなと文句を言いたい気分だ。
「駄目です」
「なぜだい」
やや沈黙。
「まだ、父の話を聞いていないからです」
目が点になった。唐突に出てきたバストラスの存在に、ギルは首をかしげた。
じっと、榛と翡翠の瞳がぶつかる。これほど溺愛していても、あまり似たところのない兄妹だった。似ていないから、溺愛するのか。
ようやく、カイルの殺気が消える。いいでしょう、と剣を収める。
「そのかわり、今日はハルフォンドの本邸に顔を出しなさい」
「わかりました」
立ち去ったのが半ば信じられないまま、ギルはその背中を見送った。立っているレイゼンを、正面から見上げる。
「やけにあっさり引いたな」
「まあ、家で二番目に強いのは、父ですから」
「は?」
「優先順位、ですかね。父を出せば、たいていのことは収まります」
「それは……他のヤツ等もか」
「ええまあ」
照れもせずに断言。どんだけ変わった一族だと言いたい。彼らに憧れて軍人や武官になった人間は数知れず、おそらく全体の三分の一はいる。それを知っているだけに、衝撃の事実だ。
「その、全員があんな感じか?」
「別にそういうわけでは……カイル兄上は特殊です」
臆面もなく言い切った。そりゃ特殊だろう。あれを特殊を言わずして、なにを言うのか。あんな兄貴は見たことない。己の兄は年が離れているせいでほとんど接点がない淡白な関係だが、あれはどう見てもいきすぎだと分かる。
「じゃあ、大人しいのか?」
レイゼンが首をかしげる。
「大人しい……? 会うと一番大変なのは姉上です。今日も本邸に行ったら、たぶんしばらく離してもらえないでしょうし」
「それはあれか、比喩なしで、か?」
「……」
沈黙が肯定する。頭の中に昨日の光景。うわうぜえ、とギルは思わずにいられない。
が、あの近衛隊長である長兄がべたべたしたり、あまり台詞を言う場面は想像できない。何か感じるところがあったのか、レイゼンが口を開いた。
「兄上には……合わなくても大変ですけど」
「はあ?」
「手紙が着ますから。二十通くらい」
間があった。理解するのに、間が必要だった。聞き間違いかと、初めてギルは自分の耳を疑った。
「そりゃ……ひと月で、か?」
「いいえ」
「じゃあ、十日くらい、か?」
「いいえ」
「三日…」
「……」
確認しつつ、嫌な予感でいっぱいだ。というか、すでに質問でなく確信に近い。
「一日で、かよ……」
むり、とギルの頭は悲鳴を上げた。そんな気がした。あの多忙なルシフェルに、一体どこにそんな膨大な量の手紙を書く時間があるのだ。むしろその時間は仕事に回すべきではなかろうか。
そしてその大量の手紙に、いちいち返事を書くのかというと、そうでもないとレイゼンは言う。なにしろ、文字を書くのは苦手で、ペンの進みは途方もなく遅いらしい。
「ちなみに何を書くんだ?」
「そうですね……一番多いのは、体に気を付けて、ですかね」
「――? それだけか」
「それだけです」
ひでえ、と内心筆まめなルシフェルに同情。というか、あの兄と姉の異常な猫かわいがりを平然と享受している時点で、レイゼンも只者ではない。
乗っ取れる、と確信した。
才能云々の問題ではない。間違いなく、レイゼンがうっかりやる気を起こして王家の乗っ取り計画を立てた暁には、精鋭部隊のほとんどが寝返って確実に王家が潰される。そんな馬鹿なことが否定できないくらい、軍部トップスリーが小さなレイゼンを溺愛しているのだ。
もしレイゼンを取り合って近衛と第一騎士団と特別騎士団が争ったら……内乱もかくや、という壮絶な闘争になる。そんな阿呆なことに彼らは部下を使ったりしない……と、ここまで来るとギル・イーハンには断言ができない。
ひょっとして、どっちかっていうとこれを見越して武官にしなかったんじゃないだろうか、とあらぬ疑いをバストラスに向けたくなった。
「じゃあ、帰ります」
どこまでも淡白なレイゼンに、苦笑を浮かべながらそうか、とギルは相槌を打った。
「レン」
短く呼ぶと、初めてちょっと驚いたような顔になった。甘ったるい「リゼ」など、この少女に似合わないきがして、短く呼ぶなら、この方がいい、と勝手に縮めた。またな、と手を振ると、律儀な一礼が帰ってくる。
さて、一体どうしてくれようか。
くすぶったままの心を持て余しながら、ギルは髪をかき上げた。
そういえば結局、父親の話はしないままに終わったと気付いたのは、ずいぶん経ってからだった。




