夜半の月
ひゅう、と息を吸うたびに聞こえる音。うまく息が通っていない証拠だ。
それでも一回、もう一回と苦しげな呼吸を繰り返している。
僕は目の前に眠るそんな彼女の姿をじっと頭の中で思い描いていた。
*
その日は、前日の夜からずっと雨が降っていた。
寒いような、それでいてじめじめとするような、すっきりとしない空気。
僕は、朝食の後にそっと旦那様と奥様にだけご挨拶をして出て行くつもりで夜のうちに荷物を纏めていた。
これ以上長居してはいけない。そう直感が告げていた。
このまま留まれば、誰もが負担を強いられる。それは明白なことだ。
僕にはそれは耐えられない。
だから、すべてなかったことにしてしまえばいい。そう思っていた。
けれど、七時を過ぎた頃、彼女の体に異変が起こった。
朝から発作が起こることなど滅多になかったというのに、この日の朝、彼女は布団から出ることは出来なかった。
子供の頃から喘息持ちだった彼女。
女学校時代は外を走ることさえも辛そうに見えた。
その苦しそうな姿を目にするたびに、何も出来ないでいる自分が歯がゆくて仕方なかった。
そして幼いながらに彼女を守るためにはどうしたらいいかと思いを巡らせていた。
今は昔となったもうずっと遠いあの頃、彼女が寝込むとそばに近付くことは許されなかった。
彼女の部屋の外を通りかかり、そっと息を詰める。
彼女は苦しんでいないだろうか。辛い思いをしていないだろうか。
代われるものなら代わってやりたい。
細くて小さい彼女が咳き込む姿を思い浮かべる時、いつも僕はそう思っていた。
「和泉は落ち着いただろうか」
「……旦那様」
僕は部屋に入ってきた彼女の父親に道を開けた。
彼は娘に近付くと、そっと息を吐いた。
「吸入を行いましたので、安静にしていればもう収まるかと思います」
寝具の隣にある机を手探りで触って引き出しを開け、吸入器をしまう。
僕はこれ以上ここにいてはいけない。今日は話を聞いていただくのは無理だろう。
背中を向けると扉に向かって歩き出した。
「伊織くん」
「……はい」
歩を止める。
振り返る。
「……和泉を、この子をもらってやってくれないだろうか」
沈黙が降りる。
息すら出来なかった。
彼は今、どんな表情で、そんな言葉を発したのだろうか。
そのまましばらくの時が過ぎる。時折ひゅう、という吐息が混ざっていた。
「何をおっしゃっているのか……」
「駄目かね」
旦那様の空気が、僕の方に一歩近付いたような揺らめきを感じる。
僕はそれに耐え切れず、下を向いた。
「……申し訳ありません」
そう言うことが精一杯だった。
もう一度旦那様に背を向けて失礼しますと告げる。
「待ってくれ、伊織くん。君にはこの子をもらうということは負担だということは分かっている。それでもお願いできないだろうか」
お願い……旦那様が僕に。
どうしてそんなことをお願いするのだろう。
扉に掛けた指が力なく震えた。
「どうしてそんなお戯れをおっしゃるのか、分かりません」
「伊織くん……」
「旦那様には本当に良くしていただきました。僕はただの執事の子なのにも関わらず、医学部に進ませていただきました。そしてこうして長年お世話になり、戦地から戻ってこんな姿に成り果てても僕に棲み家を与えてくださった貴方に、お礼をしてもし尽くせない思いです。しかし、」
「それは全て君が努力してきたからだよ。私がしたことなどほんの些細なことだ」
「いいえ。僕はお嬢様をいただけるような者ではございません。僕は……僕は彼女に、ただ幸せになっていただきたいだけなのです」
自分の口から零れ落ちる一言一言で揺れていた心に楔が打ち込まれてゆく。
そう、最初から、出逢った時からそれは決められていたことだ。
僕は想ってはならない人を想った。
それは幸せであり、同時に苦しかった。
もう分かっていたんだ、好きになったその時から、あんなにもそばにいられたその当時から、僕と彼女の間に同じように伸びる道はないのだと。
だから、これでいい。
こうして僕と彼女の未来は交わることなく離れていくだろう。
そしていつか、一瞬でもいいから僕という幼馴染がいたことを思い出してくれる日が来るならば、それでいい。
……それでいいんだ。
「それは私も同じことだよ」
「それならば、そんな莫迦なことはおっしゃらないでください」
「君は自分の身分を気にしている」
「それは……」
「そして、目が見えないということを気に病んでいるのだろうね」
「……」
何も言えなかった。
二言だった。しかしそれが僕の全てだ。
彼女には釣り合わない自分の。
「私はずっと、多くの者たちの上に立って指揮を執るという仕事をしてきた。それが生まれながらにして決められていた自分の人生だった。そのことの意味を考えたことなどないよ。お金も物も、たくさん手にしていた。だから知らず知らずのうちにそれを守ることが義務になっていったんだ。守るべき人も、私を守ってくれる人もたくさんいた」
旦那様がぽつりと話し始める。
窓の外はまだ雨が続いているようだった。
「しかしあの戦争が起きた。……全て失ったよ。終わってみたら自分があんな風に懸命に繋ぎ止めていたものなど、全て消えてしまっていたよ。残ったのは、家族だけだった。そしてその時に初めて思い知らされた。目に入れても痛くないほど可愛がっていた娘を自分がそれまでどれほど傷付けていたかということを」
ひゅう、ひゅう。
穏やかに繰り返す息の中に乾いた音が混じっている。
気付けば彼女の顔を思い浮かべていた。
「和泉は、昔から多くを望んだことのない子だった。けれど声をかけるととても嬉しそうにはにかんでね……可愛くて仕方がなかったはずなのに、どうして私は」
旦那様がぐっと息を吸い込むのが聞こえた。
「渋井さんに嫁がせてしまったのは、私の大きな過ちだった。もちろん渋井さんが悪かったわけではないよ。彼はこの子を大切にしてくれた」
思い出す。
彼女が結婚すると聞いたときに凍りついた心の痛み。
その後繰り返し訪れた、苦しかった夜の数々。
渋井家から戻ってきたと聞かされたときの衝撃。
思わず抱きしめてしまったときの頼りなさ。
喪服を着続けた心の強さと脆さ。
「けれどそれはこの子の幸せではなかった。和泉は、ずっと幼い頃から君だけを想い続けてきたのだから」
息が、上手く吸えなかった。
初めて誰かに言葉にして表された彼女の想い。
胸が痛い、こんなにも。
「まだ私に和泉を守ることが出来るのなら、それは彼女の幸せを願うことだけなんだ。そしてそれは、私や妻や習志野の家のために自分を犠牲にすることではない。和泉自身が掴みたいと思った夢を応援することなんだよ」
そっとまた空気が動いた。
僕はその気配にぎゅっと扉の淵を握り締めて、部屋を後にした。
背中で旦那様が呟いた。
「無理なお願いをしているのかもしれない。自分勝手と思うかもしれない。けれど……君と一緒にいることが、この子に残されたたった一つの夢なんだ。だから、どうか考えてみてほしい」
夢。ずっと夢を見ていたのは僕の方だ。
彼女のそばにいたいと願い続けていた。それがどんな形であれ。
けれど、やはりその夢は現実にすることは出来ない。
現実は考える以上に重いものだ。
もし旦那様が言っていたようなことが夢で終わらずに実現してしまったら、きっと僕は彼女に辛い思いをさせてしまうから。
目も見えず、仕事もままならず、思うように彼女を守れない僕は。
立ち止まった。
廊下はしんとして肌寒い。
今感じるのはただしんしんと降り続ける夜半の雨だけ。
聞こえるのは、いつまでも止まない雨の音だけ。




