風薫る
翌日、診療所勤めをしていた頃の先輩である貝塚さんが片倉に来てくれた。呼んだのは僕だった。
やっと、という気がした。
この数日降り続いた雨のせいで、貝塚さんは大忙しだったそうだ。
まだまだ社会が不安定で、どこもかしこも食糧難や経済苦の人たちが溢れている。
だからこんな風に雨が何日も続くと、ろくに物を食べられなくて栄養失調になっていた人たちが皆具合を悪くするのだった。
和泉さんのことはお前だって診られるだろうに。
そう言いながら診察の準備をする先輩。僕は苦笑うことしか出来なかった。
もうこれ以上お嬢様の様子を見るのはたまらない。
旦那様にあんなことを言われた後では尚更。
先輩はあの頃の僕が抱えていた想いを知っている。そして、今の僕がどんな姿に成り果ててしまったかも知っている。
お嬢様のお部屋へと向かう先輩の、その視線を感じたような気がして僕はひとりまた、苦笑いした。
*
僕は机に向かって、薬を粉にして時を過ごしていた。
先輩と共にお嬢様のお部屋に入ることは出来ず、だからと言って何をしていたらいいか分からなくて、ただ無心にすり棒を動かしている。
開け放たれた窓から、風の香りが入り込んでくる。雨の後の、透き通った清々しい香り。
その風を吸い込もうとして吸い込めなくてすぐ小さく吐く。そしてまた、手を動かす。それの繰り返し。
本当は先輩が来る前に、出て行ってしまえば良かったんだ。
先輩にお嬢様の様態を全て託してしまえば。
けれど現実の僕は、そう思っていたのに、あんなことがあったのに、それでもこうして莫迦のひとつ憶えのようにすり棒を押しては引いている。
僕は一体何をしているんだろうか。
未練にも程がある。
すり棒ががち、と音を立てて鉢にぶつかり、それは無意識のことながらそんな自分に思わず溜め息が漏れた。
どうしてこんなにも胸が痛くて苦しいんだろう。
「内藤、ちょっといいか」
「はい」
しばらくして部屋の戸が開いて、先輩の声が聞こえた。
僕は先輩に椅子を勧めて、自分も再び腰を掛ける。
「あの、お嬢様の様子は……」
「よく寝てたよ」
「……そうですか」
外で鳥が鳴いている。
さえずりが耳に優しく響いた。
「お前ここ出て行くのか」
「ええ」
あの夜部屋の片隅に置いたままの鞄を思い出す。
先輩もそれを見たのだろうか。
それとも、察しのいい先輩は、僕が暮らしている割に机と椅子しかない、がらんとし過ぎているこの部屋を見てそう感じたのだろうか。
「……俺さぁ、紺野千帆と結婚するんだわ」
「えっ?」
すり棒を手から落としそうになる。
「あっはは、驚いたか?」
「え、ええ。まぁ」
紺野さんは僕がまだ医者だった頃一緒に働いていた看護婦さんだ。
小柄で笑顔の絶えない人だった。
まだ新米の医者だった僕は、何度も紺野さんにお世話になったものだ。
とてもいい人だった。女性としても、人間としても。
けれど、先輩と紺野さんが結婚?
「驚いたのは千帆が貧乏だからか?俺より年上だからか?それとも父親があいつと母親を捨てたから?」
「……っ」
「でもさ、それってこのことと何の関係がある?あいつの育ってきた環境があいつを形作ってきたことは間違いないかもしれない。でも、あいつのいる環境それ自体が俺とあいつとの間の障害にはならないよ。内藤もそう思わないか?」
その言葉は、先輩と紺野さんのことのはずなのに、ぐさりと胸に刺さる。
見えないけれど、記憶の中の先輩の瞳がこちらを真っ直ぐに見つめている気がした。
息が詰まりそうだ。
「だってそうだろ?俺はあのままの千帆がいいんだし、千帆さえいてくればそれでいい」
ぎいっと椅子の軋む音がして、先輩がほうっと息をついた。
どうしてこんなに強くあれるんだろう。
例え先輩がそう決めても、そんなに上手くいかないのが現実なのに。
どんなに求めても、見えない壁に無力感を感じることしか出来ないのに。
どうしてこんなに前を向いていられるんだ。
僕は、ただただ苦しい。
そうあるべきだと思うことをしているはずなのに、どうして先輩のその力強い声に憧れてしまうのか。
「なぁ内藤。もう自由に生きていい時代なんじゃねぇのかな」
その言葉にふと顔を上げる。
青い風が爽やかに薫る。
もうどれくらいこんな新鮮な空気をめいっぱい吸い込んでなかっただろう。
「執事の息子とか、財閥の娘とか、そういうんじゃなくて……もっと自由に」
自由に。
「お前の思ったとおりに」
僕の思ったとおりに。
「せっかく生きてるんだ。同じ生きてるなら夢くらい見たって罰当たんねぇよ。そんで掴めよ、そのでっかい夢を」
夢。
僕の夢は何だっただろう。
お嬢様が幸せであること。
……いや、違う。
僕が、和泉ちゃんの傍にいられること。
それが僕の夢だった。
僕はこれまで一度でもあがいてみたことがあっただろうか。
彼女と渋井様との結婚に。彼女と伊勢谷様の婚約に。
何より、彼女の想いも、僕自身の想いすら認めようとしたことがなかった。ただ、否定ばかりして。
「……先輩、僕、」
「頑張ろうぜ、後輩」
先輩は、その声と同じ力強さで僕を押し出してくれた。
*
階段を駆け上がる。そんなことは生まれて初めてだった。
でも、彼女に逢いたい。今すぐに。
戸を開けて、部屋に立ち尽くした。
めいっぱい新しい風を吸い込んで。
「……伊織くん?」
鈴の音のような彼女の声。
昔からずっと、ただひとりだけのその声の持ち主に一歩ずつ近付いていく。
「和泉ちゃん、」
彼女の穏やかな呼吸が聞こえる。胸がいっぱいではち切れそうだ。
彼女は口を開かなかった。
待っているんだ、僕の言葉を。
ずっと、いつだって待っていたんだ、ただそれだけを。
「好きだ」
彼女が息を呑むのが分かった。
さらに一歩近付いて、恐る恐る両手を差し出す。
一瞬の後、するりと胸に納まったのは、ずっとずっと愛しかったその存在だった。
ぎゅっと抱え込む。
彼女の甘い香りに涙が零れた。
「伊織くん、伊織、くん……っ」
「和泉ちゃん、ごめん、……ごめん……」
彼女が泣いている。僕のために。
そっと親指をその頬に滑らせる。
温かい涙を優しく拭った。
「僕にはもう、和泉ちゃんの姿が見えない」
その柔らかく茶色い髪の毛も。
その透き通るような輝きの瞳も。
その桜色の頬も。
僕に笑いかけるその笑顔も。
「身分も違う、ただの幼なじみでしかない」
旦那様がどうおっしゃってくださっても、現実にその溝は埋まらないのかもしれない。
「でも、」
僕は和泉ちゃんの傍にいたい。
全てのことをかなぐり捨てて、残るのはただそれだけだ。
それで辛い思いをするのだとしても、僕にとって彼女を失うこと以上の苦しみはないと分かったから。
だからもう、何があっても僕の気持ちだけは変わらない。
「それでも僕は、和泉ちゃんの傍にいる」
「伊織くん……!」
「そうしても、君は幸せでいてくれるだろうか」
何度も片手で彼女の髪を梳いて、その輪郭をなぞってゆく。
ああ、長い間見つめていたこの人は、こんなにも小さかった。
「……本当のところ、不安で仕方ないんだけれど」
思わず笑みが零れた。
そうしたら、彼女が僕の体に回した腕に力を込めた。
「やっと……」
「ん?」
「やっと夢が叶いました」
「和泉ちゃん……」
「私にとって、伊織くんはずっと『久慈さんの息子さん』じゃなかった。それは、その目が見えても見えなくても変わりありません」
彼女が鼻先を僕に埋めるようにしてそう呟く。
「私が欲しかったのは、内藤伊織くん、ただ貴方だけ」
片手で探るようにして唇に触れる。
そっと自分の唇をそこに寄せた。
こんなに幸せだったことはない。
彼女に触れられることでこんなにも満たされるなんて。
「好きです、伊織くん」
生きていたいと心から願ったのはこれが初めてだった。
光を失っても、僕には生きている意味がある。
それがこの小さな命なのだから、僕は、僕と彼女との間にこれからも立ちはだかるであろう壁からもう逃げることはない。
僕はそのために生きて帰ってきたんだ。
こうやって和泉ちゃんと生きていくために。
窓の外で、初夏の風に揺れる葉擦れの音がしていた。




