月の影
「伊織くん」
こんな自分を呼ぶにはあまりにも柔らかく優しい声。
仄かに香る甘やかな花の香りが僕を苦しめる。
「食事の用意が出来ました」
「はい、今参ります」
障子の向こうの彼女に気付かれないように、一つ静かに息をついた。
*
僕がこの家に来てから、彼女はまるで僕のために働く侍女のように世話を焼いてくれている。
確かに僕の行動は一つ一つ手探りだけれども、彼女のそのあまりの甲斐甲斐しさに時々胸が詰まる。こんなことをお嬢様にさせるべきではないのだ。
やはり戻ってくるべきではなかった。
驚くべきことに彼女は伊勢谷家に嫁いでいなかった。
それでも勝利さんは婚姻の条件になっていた習志野家への融資を行ってくださり、旦那様は今も事業を続けていらっしゃる。
彼女と勝利さんとの間に何があったかは知らない。
けれどもとにかく確かなのは、僕と彼女がこうしていることが間違いだということだ。
何とかしなければと思いながら、ずるずるとその温もりに縋っているのだった。
「奥様、いかがでしょうか」
「ええ、ええ。最近は随分と楽になりましたよ」
「そうですか、それは良かった」
目が見えなくても生きていかなければならない。
それが戦場で僕が学んだたった一つのことであり、こちらに戻ってきてから断念した医療にどこまで近いことが出来るかと考えた結果、今僕は理学療法のようなことをしている。
お嬢様のお母上である奥様は持病のリューマチが戦時中に悪化してしまい、余程のことがなければ外を出歩くことも出来ない。
だから奥様は、僕の一人目の患者になった。
本当は手術をすればもっと楽になるのだろうが、それは怖くて嫌だとおっしゃるので、炎症を抑える薬を服用しながら患部を温める温熱療法を施している。
慣れない治療に奥様もさぞ大変な思いをされただろう。けれど奥様は僕を気遣っていつもお礼の言葉ばかりを連ねてくださる。
僕には、少しでも奥様の症状が良くなるようにと祈りながらこんな風に手ぬるい治療をすることしか出来なかった。
すっかり治して差し上げられたら良かったのに。何度そう願ったことだろう。
それでも奥様は、まるでこの治療でほとんど治ってしまったかのように喜ばれている。
それは僕が治療をしているからだ。
僕が奥様の治療になくてはならない存在だと思わせることで、このお屋敷に留まる意味を与えてくださっているのだ。
何てことだろうと思う。胸に苦い思いが広がってゆく。
僕はそんな風にしていただけるような人間ではないのに。
お嬢様と渋井様、伊勢谷様がお幸せになられることを、心の奥底では願い切れずにいたような人間なんだ。
それなのに。
もう、これ以上ここに留まっていてはいけないと、全身が叫んでいた。
*
「伊織くん」
「……どうかなさいましたか」
「いえ……ただ風が心地良かったものですから少し貴方とお話がしたくて」
ある夜、そんな風にお嬢様が僕の部屋を訪れた。
彼女とは必要以上に顔を合わせたくはなかった。
けれど自分で思っている以上にきっと、彼女に負担をかけているのだろうと思う。
そうして自分の不甲斐なさに気分が悪くなる。
自分さえいなければ、彼女はまだ二十三。どこへでも嫁ぐことが出来るだろう。
僕に対する強すぎる責任感。
彼女には何も関係がないのに。
僕は彼女に幸せになってもらいたいのに。
「今日は満月です」
「そうですか」
「白い光がぼんやりと空を照らしております」
見えないのに、手に取るように感じられる。
その言葉の一つ一つに情景が浮かんでくる。
広い世界に僕と彼女は今、二人だけで立っていた。
僕はきちんと目が見えていて、そして見えるのはただ、彼女と満月のみ。
とても穏やかな気持ちになった。
「お嬢様には月の影がどのような形に見えますか」
「影、ですか」
「はい」
「そうですね……兎でしょうか。お餅を搗く」
「ああ、分かります」
ふと笑みが漏れる。
昔、彼女が兎を飼っていたことがあった。
ある日突然籠からいなくなってしまって、僕は小さな彼女の手を取って方々を捜した。
「絶対に僕が見つけてあげるよ」と泣く彼女をなだめながら。
結局見つけることが出来なくて、僕自身も泣きたくなっていたところを父さんが見つけてくれて、違う兎を知り合いの人から譲ってもらったんだ。
真っ白な兎はその後随分長生きをしていたようだ。
彼女はとても可愛がっていた。
こんなさりげない会話の一つ一つからも思い出が溢れてくる。
それは僕にとって、かけがえのない宝物だ。
だけれども、それを彼女とこうして共有して生きてゆくことは出来ない。
彼女には幸せになっていただかなくてはならないから。
こんな僕に良くしてくださっている旦那様と奥様のためにも。
僕の成長と同じくらい彼女の幸福を願っていた父さんのためにも。
そして、何よりも彼女自身のために。
やっと決心をした。
隣できっと微笑みながら月を見上げているだろう彼女を思い描いて。
明日、出て行こう。
きっと僕がこんな決断をしたことを知ったら、貴女は必死になって止めてくださるのでしょう。
だから僕は貴女には告げません。
でも信じてください。
僕は離れていても、貴女の幸せだけを願い続けます。
ただそれだけが、僕の幸せだから。
たとえ共に生きることが叶わなくても。
「きっと明日は晴れますね」
そう言う彼女に、僕は静かに頷いた。
明日はうんと晴れればいい。
決心が鈍らないように。




