氷雨
まさか生きて戻ってくるなんて思わなかった。
あの夏で僕の人生は終わるものだと信じて疑わなかったから、これから先何をして生きていったらいいのかなんて分かるわけもなくて。
でも僕の代わりに果てていった仲間たちは数を知らない。
だからその人たちの分までとにかく僕は、この世に生きていなければならない。
とりあえず父さんの消息が知りたいと思った。
*
冷たい雨が降っていた。
ここを発ったのはまだ半年前のことだ。でももう何年も経ったような気がした。
あのときはいたるところに桜が咲いていた。今はその枝には花はない。
……いや、あるのかもしれない。見えないだけで。
僕はそっと耳を澄まして路肩に寄った。どこも空襲の後で地面がぼこぼこし、がらくたらしきものが落ちているせいで足元が悪い。
誰の声もしないのは、もうここには誰もいないということなんだろうか。
記憶を辿って歩道だったはずのそこにあるはずの木の幹に手を伸べた。
ある。
確かにここは僕が生まれ育った町だ。
誰の声もなく、度重なる空襲のせいで崩壊してしまったのであろう町。僕にとってはただ一つの故郷だった。
―――あの方はお元気だろうか。
ふとそんな思いが頭をもたげた。
いけない、とそれを振り切る。もう半年も経ったんだぞ、きっと僕のことなんて忘れている。そうでなければいけない。
まぶたの裏にちらつきそうになるその鮮やかな後ろ姿を掻き消して、僕は歩を進めた。
静寂が町を包んでいる。静かな朝だ。
やっとのことで辿り着いた我が町。記憶が確かであれば、お屋敷はこの角を曲がったところにあるはずだった。
無意識に息を詰める。
あまりにも静かな町。かえってそれが不気味で、僕は何度も戦場で見た夢を思い出してしまう。それは僕が小さい頃の夢だった。
僕には大切な大切な人がいた。
それこそその人のためなら命だって投げ出せる、それくらいに。
幼い僕は彼女を一生守ると誓い、彼女も嬉しそうにその約束を噛み締めていた。
幸せだった。
僕は生まれたときからその幸せを両手に抱えていたのだと今なら思える。
だから彼女との約束が二人の問題以上のものだと知ったとき、僕は泣いた。
これでもう僕は永遠に幸せを手に入れることは出来ないのだと悟った。
夢の中の僕は、いつでも笑っていた。
隣で微笑む彼女も僕のためだけに笑ってくれた。
そういう時代がずっと続けばいいと、本気で思っていた。
戦場でそんな夢ばかり見たのは何故だろうか。
人は命の瀬戸際に立つとき、自分の一番大切なものを思うと言う。
だから僕は、彼女を思い出したのだろうか。
もう彼女は僕の未来ではないのに。僕には未来などないのに……。
幸せだった幼い頃を思い出すのがせめてもの慰みなのかもしれない。嫁いでからの彼女の笑顔は思い出そうとしても出てこない。
ざく、と土を踏みしめる音がした。
僕は感覚で立ち止まる。記憶が確かなら、ここは習志野のお屋敷だ。
そっと手探りで門を探し、見つけるとそろそろと中に入った。
水が流れる音がする。そちらに顔を傾けた。父さんかもしれない。
「伊織……くん?」
どこまでも僕を縛り付けるのは運命なのだろうか。
*
「伊織くんっ、伊織くんなのねっ!」
たたたっと駆け寄ってくる足音。僕は思わず後ずさった。
今更どんな顔をして会えばいいと言うのだろう。僕には初恋の人がいた。けれどそれは戦いに臨む前に全て置いてきたことで、もう二度と会うこともないと思っていたのに。
「伊織くん……お帰りなさい……」
その声が涙に濡れているような気がする。
ふいに右手を取られて動揺が隠せない。
ぎゅっと握られて、そのまま時が止まってしまいそうになった。
「……お久しぶりです」
「無事で何よりです。お父様もお母様も避難されて片倉の叔父様のところにいらっしゃるんですよ」
「父は……父は生きておりますか?」
息を呑む音が聞こえ、ぐっと拳に力が入る。
「久慈さんは……お母様を助けてくださって……そのまま……」
「そうですか」
父さんが亡くなっていた。
目の前が一段と暗く感じられる。
温かな手の温もりに眩暈がしそうだった。
「お嬢様……なぜお屋敷に?」
「お父様もお母様もだいぶ滅入られてしまって、避難だけは出来たのですけれど、暮らすにはまだまだ道具が足りないのです。だからこうして度々私が戻ってまいります」
「こんな雨の日までですか?」
「雨に濡れるくらいは大丈夫なのですよ。それより早く陰干ししなければ、隠していたお着物が駄目になってしまいますから」
そう言ってくすくすと笑う。その笑い声を何年かぶりに聞いた気がする。
伊勢谷様のお世話もあるだろうに、お嬢様は相変わらずなのだ。
自分のことよりもまず他人のことを考える優しさ。
痛いくらいに胸に染みた。
いつか、この胸の痛みも苦しみも、感じなくなる日が来るだろうか。
「でもそのおかげで伊織くんが路頭に迷わなくて済みましたでしょう?」
「え?」
「伊織くんも片倉に一緒にいらしてください。お父様もお母様も伊織くんが戻ってきたと知られたらとても喜ばれるから」
ぐいと繋いだままの手を引かれる。僕は慌てて足を出したが間に合わず、転びかけてしまった。
「まぁ、すみません!大丈夫ですか?」
「は、はい。僕の方こそすみません」
立ち上がろうとして何かにつかまり、それが彼女の肩だったことに驚いた。
彼女も身体を硬くさせている。
「す、すみません……」
「伊織くん、あなた、目が……」
「無様で申し訳ありません。実は見えないのです」
苦笑する。
僕の目は、三ヶ月前に光を失った。爆発物の爆風で神経がやられてしまったのだ。
今ではもうすっかり光のない暮らしに慣れた。
慣れるも慣れないもそれで生きていかなければならないのだから酷なことだが、それでも大して気にはしていなかった。生きているだけでも不思議なことだからだ。
僕がまだ周りのものを目で認識できていた頃、見えていた景色はまるで地獄絵図だったのだから。
突然下がりきらないまぶたにそっと温かい指先が触れた。
息が止まりそうになる。
「……よくご無事で」
そう呟くと、彼女は僕に身を寄せてきた。
僕はどうすることも出来ずに立ち竦むだけ。
笑い話で終わるはずだったのに。途端に忘れかけていた想いを取り戻しそうになる。
そもそも目の見えない無様な僕は、もう二度と彼女に会うこともなかったはずなのに。
・・・どうしてだ。
僕はぶつけようのない怒りを自分自身に対して放った。
どうして運命というやつは、僕にこんなにも残酷に働くのだろう。
目なんて見えなくたって、今感じているこの温もりは確かだ。この甘い優しい香りも彼女のものだ。僕のすすけたシャツを濡らす美しい涙も。
全身が彼女を感じている。
見えるんだ、彼女が泣いているその姿が。僕のために泣く、その愛しい姿が。
僕は震える手を必死で鎮め、彼女を抱きしめてしまわないように押さえつけた。
彼女との思い出は全部捨てるんだ。そう決めたじゃないか。
彼女との未来はありえない。それなのにこんな風にずるずるといつまでも。
いつか本当に彼女への想いを断ち切れるのだろうか。
「帰りましょう、私たちの家に」
その言葉を振り切る強さは僕にはもう残されていなかった。




