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別れ霜

三月。

とうとう僕のところにも赤紙が届いた。

それと時を同じくするように、お嬢様の新たな婚約が決まった。






僕の生活は相変わらずで、診療所と患者さんの家とを行き交う毎日。

最近はだいぶ寒さも和らいできて、歩いていても足の指がしもやけにならないで済むから助かっている。

今日は帰ったら父さんの手伝いをしなければならない。伊勢谷様がいらっしゃるからだ。

伊勢谷様というのは、関東随一の資金力を持っていて、戦争が始まってからもその力と地盤を活かして伸び続けている財閥の中心人物だった。

その次男の勝利さんは僕が通っていた医大に通われていた。だから僕たちは少なからず面識があったりする。

僕があの医大に入ることが出来たのは習志野の旦那様がいてくださったからに他ならない。とても奨学金だけでは卒業は出来なかった。

僕は単なる診療所の医者だが、向こうは後々大病院を継ぐことが決まっていた。あの医大にはそういう人間がたくさんいた。むしろ僕のような者の方が珍しく、だから勝利さんは僕のことを憶えていたのかもしれない。

そう、和泉お嬢様の新しい婚約者というのは、伊勢谷勝利、彼だった。


先月のことだ。

僕が部屋で本を開いていると、まるでお嬢様が戻ってきたあの日と同じように表が騒がしくなった。

何事かと窓の外を覗いてみたら、そこに勝利さんが立っていた。

彼がふとこちらを向いた。目が合う。少し驚いたような顔をされた。

彼が僕を憶えていたならそうなるのも無理はない。まさか習志野の屋敷に、同じ学び舎で共に学んだ貧乏学生がいるとは思うまい。

僕は軽く会釈した。顔を上げた時、彼は微かに微笑んだように見えた。僕の思い込みかもしれないけれども。

その夜父さんから今日、何故勝利さんがここへ来たのかを教えてもらった。


「伊勢谷様がお嬢様をぜひ、お迎えしたいとおっしゃったのだ」


そうか、と思った。


僕は、あの日以来なるべく彼女と顔を合わせないように努めてきた。

それは思っていたより難しくはなかった。元々診療所に勤め始めてから、帰りは夜になってしまうし、休みの日も当直で診療所にいることの方が多かったからだ。

それでもやはり同じ家に住んでいるのだからまったく顔を合わせないというのは無理だ。

ふと気を抜いた瞬間に出会ってしまう。ほぼ間違いなく。

それは常緑の間の前であったり、玄関であったり、中庭であったり、場所は定まっていなかったけれども。

こちらに帰ってきてからの彼女は、喪服しか身に付けない。それは二十三の女性にしたらとても考えにくいことだったけれども、彼女はそういう女性だった。

十六で彼女が嫁いでしばらく経って、僕が寮に入っているときに、一度今は亡き夫の渋井様とお嬢様で習志野の屋敷を訪ねてきたことがあるそうだ。

父さんはそのとき見たお嬢様を「幸せそうだった」と言い、また「渋井様もとてもお嬢様を愛していらっしゃるようだった」とも言った。

決められた婚姻ではあったけれども、彼女は幸せなのだ。そう自分に言い聞かせた夜のことを思い出す。

だから屋敷で彼女の喪服姿に遭遇するたびに自分の浅はかさを呪った。僕が

いつまでも彼女を忘れられなかったばかりにこんなことになってしまったんじゃないだろうか、と。

それでもそんな愚かな僕に彼女は微笑みかけてくれた。

まるであの七年がなかったかのように、彼女は同じ笑みを僕に向ける。それがいたたまれなかった。




門をくぐると、ふと視線の端に彼女が映った。足が止まる。

彼女がそれに気付いて、声をかけてきた。


「お嬢様、そんなところで何を?」


声は震えていなかっただろうか。そんなことを思う。


「私とあの鯉たちは同じだな、と考えておりました」


彼女の細い指が池を泳ぐ数匹の鯉を指す。僕はそれを見た。


「……財閥なんて、なくなってしまえばいいのに」


ぽろりと零れた言葉。息が止まるかと思った。


「そんなことをおっしゃってはなりません」

「でも、でも私は……っ」


習志野家は旧華族として代々強い力と財力を手中にしてきた。けれどこの戦争が始まって以来それまでの事業がことごとく破綻し、財政は火の車になりつつあるのだ。

それでも旦那様も奥様もそんなことを微塵も感じさせない気丈さで毎日奔走しておられた。だから僕も、少しでもお役に立ちたいと今では毎月わずかばかりの収入を父さんに渡している。

そんな折のお嬢様のご婚約。相手も願ってもない方だった。

喪服を着続けるお嬢様。それはささやかな抵抗だったのかもしれない。

けれど、今回ばかりはお優しい旦那様も頷かざるを得なかった。それは、家を守るため。そして・・・愛する一人娘を守るため。

旦那様は長いこと後悔しておられたのだ、彼女の婚姻を。渋井様は良い方だったけれども、それでも十六になったばかりの娘をずっと年上の、しかも好いてもいない相手のところに嫁がせてしまった。あるとき、ふと聞かされたその言葉には、旦那様の苦悩が滲んでいた。

だから今回も、本当は断ってやりたかったと思う。けれど、時代がそうはさせてくれない。時は待ってくれないのだ。

もし彼女が伊勢谷に嫁げば、習志野は生きていける。そして、和泉お嬢様も大変な思いはしなくて済む。

そうして、やっとの思いで決断なされた旦那様。けれど、やはりお嬢様にそれを告げるときには胸が痛んだに違いない。


目の前のお嬢様の瞳から、涙が零れた。

はっと我に返る。


「伊勢谷様はとても良い方です。お嬢様は必ずお幸せになられますよ」


そう言うことしか出来なかった。

濡れた瞳が僕を見る。訴えかけるような黒目が、喪服と相まって強い光を放つ。


「……止めてはくださらないのですね」


胸元をすうっと込み上げてくるもの。必死で堪えた。

落ち着くように目を閉じて、深く息を吐く。

踏み越えてはならない。


「僕の望みは、お嬢様がお心健やかに、お幸せになられることだけです。それが叶うというのに、どうして止めることなど出来ましょう」


彼女の頬をはらはらと涙が伝う。もげてしまうほどに胸が痛い。

彼女を幸せにすることも出来ず、泣かせることしか出来ない自分。

このまま僕が屋敷にいたら、きっと彼女は不毛なことに心を痛めてしまう。

その胸の痛みをどうしてやることも出来ないのに。

僕は彼女に幸せになってもらいたいだけなのに。


「私の……私の幸せは、もう手の届かないところに行ってしまいました」

「そんなことはございません。貴女はこれからうんとお幸せになられるのです。しっかりなさってください」

「でも、伊織くん、貴方がいなければ私は……!」

「それ以上おっしゃってはなりません。それを口に出したならば、旦那様が悲しまれます」

「でもっ」

「お嬢様、」


足早に駆け寄ってその細い体をぎゅっと抱き締めた。きつく、きつく。

わっと彼女の涙腺が緩む。

子供のように泣きじゃくる彼女の頭を優しく撫ぜた。これ以上ないほどの想いを込めて。


「お幸せになってください。それだけが、僕が願い続けてきたことなのです」

「伊織くん……っ」


彼女の手が背中に回ってしまうその前に、僕は彼女から体を離した。






「さようなら、和泉ちゃん」






僕は踵を返して走り去った。

それが、僕の初恋の終わりだった。

いつまでも旦那様のお言葉に甘えたまま習志野のお屋敷になっていた僕。

薄紅の空を見上げながら、赤紙を思い出す。

そろそろ本当に彼女を忘れなければならないときなのだ、と思った。

もうすぐ桜が咲く。

寒い季節はもう終わる。


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