暮秋
今日は二丁目のおばあさんのところに寄ったために随分遅くなってしまった。
あのおばあさんはいい人なんだけど話が長いところがあるんだよな。
診察道具が入った鞄を床に置くと、奥の机で作業をしていた先輩医師が椅子ごと振り向いた。
「おーお疲れさま」
「お疲れ様です」
「きょうはトメさんのとこか?」
「ええ、まぁ」
口元で笑みを作り、二人分の茶を淹れるためにやかんを手にした。
「冬が近くなるとどうしてもなぁ。淋しくなるんだろうな、トメばあさん」
「そうかもしれません」
トメ、と呼ばれたあのおばあさんは八十を過ぎて一人暮らしだ。旦那さんとは戦争で若いときに死別し、一人息子は街に出てしまったと聞いた。
そんなに具合が悪いわけでもない。ただ、決まってこんな木枯らしの吹くような日に倒れてしまうのだった。そんなおばあさんを、いつのときからか僕が担当するようになっていた。
あからさまに指名されたわけではないけれども、気に入られているという感覚はある。僕が行くととても嬉しそうにするから。
もしかすると街に出てしまった息子さんに重なるのかもしれない。
おばあさんはよく言う。「淋しいときには心のどこかで一番会いたい人を求めてしまう」と。
僕がその一番会いたい人に当たるのかどうかは分からないが、それでも少しはおばあさんの心が休まるのならそれでいい。
*
父さんに無理を言って大学まで出してもらった。
一介の執事の息子が医者になりたいだなんてと周囲の人にはだいぶ怪訝な目で見られたけれど、父さんは僕の味方をしてくれた。それは僕が父さんにお願いをすること自体が珍しかったからかもしれないし、もう一つ願っていたことはいくら父さんとはいえどうすることも出来なかったからかもしれない。でも何より、大旦那様が許してくださったことが大きかった。執事の息子は執事に、それがこの内藤家に代々続く伝統で、僕が継がなければここで内藤家の執事の歴史は途絶えることになるにも関わらず、大旦那様は快く了承してくださった。それだけではない。高価な医学書を何冊も買い与えてくださった上に、僕はそのまま習志野のお屋敷に住むことを許された。大旦那様にはいくら感謝してもその恩は返しきれないだろう。
僕には幼馴染がいた。
それこそ幼馴染と言う名称で呼ぶことすら憚られるほど近くて遠い存在。
今でこそ言えるが、僕が医学を志した元々の理由は彼女にある。幼い彼女は少し気管支が弱く、無理な運動をすると呼吸困難になってしまっていた。それを何とかしてあげたいと思ったのが最初だった。
十を数えるときくらいまではいつでも一緒だった。遊び相手と言えば彼女しかいなかったし、馬鹿な約束までしてしまったこともある。絶対に叶えてあげられない夢のような約束を。
本気で彼女が好きだった。過去のことにするのにとても時間がかかってしまって、父さんや大旦那様からしきりに見合いを勧められてしまうほど。
でも、まだ。
もう少し、このままでいさせてほしかった。せめて、彼女と過ごした十五年の半分くらいは過ぎるまで。
「内藤先生、お電話です」
電話。珍しいなと思った。
電話なんか普通の家ではあるはずもないから、おそらく習志野からだろう。
電話までしてくるなんて、何かよほど重要なことがあったのだろうか。
胸の奥が微かに不穏な予感を感じていた。
「もしもし、内藤です」
『ああ、伊織か』
「父さん。どうかしたの?」
『和泉お嬢様がお戻りになられた』
……―――っ?!
手の中を受話器が滑り落ちてゆく。
伸びきった線が弾みをつけて、ゆらゆらと揺れた。
慌てて持ち直して耳に当てる。
「ど、どうして……」
『渋井様がお亡くなりになったのだ。それで今日からまたお屋敷に戻られることになった』
彼女が、お屋敷に……!
この胸のざわめき。忘れない、中学卒業と同時に彼女が渋井財閥社長と結婚すると聞いたときと同じ、この―――。
『伊織。悪いが戻って来られるか?』
「え……」
『お可愛そうに、お嬢様はとても憔悴なさっていらっしゃるんだ。大旦那様も大変ご心配されて、見ているこちらが辛くなる。だから、』
「で、でも僕などが帰っても何の解決にもならないでしょう」
『大旦那様が少しでもお嬢様のお慰みになることならとお嬢様にお訊きになられたのだ。そうしたらお嬢様がお前に会いたいと』
お 前 に 会 い た い と 。
目の前が真っ暗になってしまう。
和泉、お嬢様……?!
何を考えていらっしゃるんだ。
どうして……!!
僕は早足でお屋敷までの通い慣れた道を歩いた。ほとんど走っていたかもしれない。とにかく急いでいた。
足はどんどん彼女の方へ進んでいるのに、心が戸惑いを隠せない。会ったとして、どんな顔をすればいい?どんな言葉をかければいいんだ。冷静でいられるのか、僕は。頭は混乱寸前だった。
門をくぐると、ざわめきが聞こえる。
あの日まで彼女がその常緑の間に暮らしていた。そして、今。人垣を抜ければ、彼女に会える。
医者でありながら人の不幸を喜んでしまいそうになる自分。でも、もう一生会えないと思っていた。その彼女が手の届く距離にいる。
「伊織、くん?」
この声を忘れることなんて出来ない。
人垣の向こうに立ち上がった喪服姿。七年ぶりの彼女だった。
途端に胸が苦しくて足が動かなくなる。
遠くから、この距離を真っ直ぐに見つめている彼女。
思わずぎゅっと目をつぶった。
夢であってほしい。夢でなければいい。そんな葛藤が心を苛む。
「伊織くん」
彼女がもう一度僕の名を呼ぶ。疲れたような笑顔で。
僕は馬鹿だ。その笑顔を見て思った。
僕がいつまでも未練がましく彼女のことを忘れないから、こんなことになってしまったのかもしれない。
彼女はあくまでも習志野のお嬢様であり、渋井様の奥様なのだ。
変わらない笑顔。けれどその笑顔の中に、僕の知らない七年がある。
僕と彼女の間を、秋も終わりの冷たい風が吹き抜けていった。




