第9話 毒の向こうにいる誰か
ベルナールの家族が保護されたという知らせが届いたのは、空がわずかに白み始めた頃だった。
「全員、無事です」
レオンハルトの報告に、ベルナールはその場で崩れるように椅子へ座った。
妻。
2人の子ども。
同居している母親。
全員が王宮の管理下に移され、外部との接触も制限されている。
「……本当に?」
「ああ」
アルフレッドが答える。
「少なくとも、君がここで話したことを理由に危害を加えられる状態ではない」
ベルナールは両手で顔を覆った。
肩が震えている。
泣いているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
レティシアは黙って待った。
今すぐ聞きたいことは山ほどある。
毒を入れたのか。
誰に命じられたのか。
毒はどこから手に入れたのか。
なぜ王太子を狙ったのか。
だが、急かして言葉を間違わせれば意味がない。
やがてベルナールが顔を上げた。
「……私がやりました」
室内の空気が止まる。
分かっていた。
ほとんど分かっていた。
それでも、本人の口から告げられると重さが違った。
「酒に毒を入れたのは、私です」
レオンハルトの表情が険しくなる。
だがアルフレッドは声を荒らげなかった。
「最初から話してくれ」
ベルナールはうなずく。
「2か月ほど前です。帰宅途中に男から声をかけられました」
「知り合いか?」
「いいえ」
「特徴は?」
「30代か40代。茶色い髪で……普通の商人のような格好でした」
レティシアとアルフレッドが同時に顔を上げる。
第8話――ではない。
3週間前、ローゼンハイム家の取引商会へ封印方法を尋ねた男。
特徴がよく似ている。
「名前は?」
「名乗りませんでした」
「最初から脅されたのか?」
ベルナールは首を振った。
「最初は……頼み事だけでした」
酒蔵で廃棄される予定の空瓶について、処分時刻を少し遅らせて記録してほしい。
それだけだった。
「断らなかった理由は?」
「金を渡されました」
ベルナールの声が小さくなる。
「大金ではありません。ほんの少しです。それに、誰も困らないことだと言われて……」
最初の一度。
小さな違反。
レティシアは第7話で見た帳簿を思い出した。
「2回目は?」
「酒を一本、指定された棚へ移すよう言われました」
「理由は?」
「作業手順を調べたいだけだと」
「信じたのか?」
「……信じたかったんです」
ベルナールは苦しそうに笑った。
「最初の不正をすでにしていましたから」
断れば。
最初の件を王宮へ伝える。
そう言われた。
「その次は帳簿の記録を消せと」
「少しずつ大きくなっていった」
アルフレッドの言葉に、ベルナールがうなずく。
「はい」
「家族を脅されたのはいつだ?」
「1か月ほど前です」
ある日。
息子の帰宅が遅れた。
数時間後、何事もなく戻ってきた。
子ども自身は、知らない男に「近道を教える」と声をかけられ、普段と違う道へ連れていかれたと言った。
翌日。
ベルナールの元に手紙が届いた。
『次は戻らないかもしれない』
レティシアは無意識に拳を握った。
「その時点で相談しようとは?」
「しました」
ベルナールは俯く。
「王宮へ来て、上司に話そうとしました」
「なら、なぜ?」
「その日の朝、母が市場で転びました」
「事故では?」
「男が見ていたそうです」
偶然かもしれない。
だがベルナールには、偶然だと思えなかった。
「どこに行くか。誰と会うか。家族がどこにいるか。全部知られていると思いました」
そして最後の命令が来た。
祝宴当日。
王太子の卓へ出される酒。
「毒は?」
「男から渡されました」
「いつ?」
「昨日です」
「容器は?」
「小さな薬瓶でした」
「今は?」
「王宮の裏手にある廃棄口へ捨てました」
レオンハルトがすぐに部下へ指示を飛ばす。
まだ残っている可能性がある。
「封印を戻す方法も、その男から?」
「はい。外側の封蝋なら、温めればある程度は元へ戻せると」
「副確認印は?」
「知りませんでした」
そこで初めて、レティシアは完全に理解した。
男は、ローゼンハイム家の封印について調べていた。
だが副確認印の情報までは手に入れられなかった。
だからベルナールにも教えられなかった。
そしてクララがそこに気づいた。
「ベルナールさん」
「はい」
「その男は、殿下を殺せと言いましたか?」
室内の視線がレティシアへ向く。
ベルナールは少し考えてから答えた。
「……王太子殿下の卓へ行く酒に入れろ、とだけ」
「量の指定は?」
「全部入れろと」
医師の話では、多量なら急性症状を起こす可能性が高い。
つまり、少なくとも生存を期待した量ではない。
「目的について何か聞きましたか?」
「何も」
「王家への恨みは?」
「聞いていません」
「ローゼンハイム家については?」
ベルナールの顔が曇った。
「一度だけ」
「何と?」
「『酒は公爵家から届く。お前は何も心配しなくていい』と」
レティシアの背筋が冷えた。
「……どういう意味だと思いました?」
「その時は、殿下が亡くなれば誰が毒を入れたかなど分からないという意味だと」
だが。
レティシアには別の意味に聞こえた。
酒はローゼンハイム家から届く。
毒が見つかる。
王太子が倒れる。
最初に疑われるのは誰か。
ベルナールではない。
王太子婚約者の実家だ。
「殿下」
「ああ」
アルフレッドも同じところへたどり着いたらしい。
「これは、私を殺すだけの計画じゃない」
アルフレッドの声から、わずかな温度が消えた。
「殿下が亡くなれば、王位継承が揺れます」
レティシアが言う。
「テオドール殿下が継承順位第1位になります。王宮も貴族も混乱する」
「そして、俺が助かった場合でも」
「ローゼンハイム家から納められた酒に毒が入っていたという事実が残ります」
王家とローゼンハイム公爵家。
王太子とその婚約者。
両者の間に疑いを生む。
「どちらに転んでも利益がある」
レオンハルトが低く呟いた。
毒殺が成功しても。
失敗しても。
「……嫌なやり方ですね」
レティシアの言葉に、アルフレッドはうなずいた。
「だからベルナールだけ捕まえて終わりではない」
ベルナールが苦しそうに言う。
「申し訳ありません。私は……その男が誰なのか知りません」
「会った場所は?」
「毎回違いました」
「手紙は?」
「読むよう言われたあと燃やしました」
「仲介人と連絡を取る方法は?」
「向こうから来るだけでした」
徹底している。
ベルナールは使い捨てだった。
捕まっても、その先へたどれないように。
「最後に男と会ったのは?」
「昨日の夕方です」
「場所は?」
ベルナールが答える。
王都西側。
商人や職人が多く集まる地区にある、小さな宿。
レオンハルトがすぐに調査を命じた。
だが。
答えが返ってきたのは、昼近くになってからだった。
「殿下」
戻ってきたレオンハルトの顔を見た瞬間、レティシアは良い知らせではないと分かった。
「宿は確認しました」
「男は?」
「すでに消えています」
宿帳に記された名前は偽名。
荷物もない。
部屋は空。
宿の者によれば、祝宴が始まるより前に宿を出て、そのまま戻らなかったという。
「逃げるのが早すぎますね」
レティシアが言う。
毒が発見されたと知ってから逃げたのではない。
最初から逃げる予定だった。
ベルナールの成功も失敗も確認していない。
「最初から、昨日で切るつもりだったんだろう」
アルフレッドが答える。
毒を入れた人間は見つかった。
だが。
毒を渡した人間は消えた。
その男に命じた者は、さらに先にいるかもしれない。
「殿下」
レティシアは小さく息を吐く。
「これは終わったと思っていいのでしょうか」
「どう思う?」
聞き返されてしまった。
レティシアはしばらく考える。
ベルナールは捕まった。
毒殺は防いだ。
ローゼンハイム家が直接毒を入れたのではないことも、かなり証明できる。
だから。
本当なら安心していい。
けれど。
「……無理です」
アルフレッドが笑った。
「だろうな」
「笑わないでください」
「すまない」
全く反省しているようには見えない。
レティシアは机に残る報告書を見る。
3週間前から封印を調べていた男。
2か月前からベルナールへ近づいた男。
王太子が死んでも、生きても困らない計画。
その向こう側にいる誰か。
破滅想定1000通りのどこにも。
まだ、この人物の名前はなかった。




