第8話 すべては、念のため
「……できたかもしれません。最初なら」
ベルナールの言葉が、レティシアの耳から離れなかった。
最初の一度。
まだ帳簿の時刻を少し書き換えただけだった頃。
まだ家族が危険にさらされていると確信する前。
まだ引き返せた頃。
そのとき、誰かに助けを求められていたなら。
「殿下」
レティシアはアルフレッドを見る。
「先にベルナールさんの家族を保護できませんか?」
ベルナールがはっと顔を上げた。
「お嬢様……?」
「彼が本当に脅されているのなら、ここで問い詰めれば相手が何をするか分かりません」
ベルナール本人を拘束する。
その情報が外へ漏れる。
黒幕が「裏切った」と判断する。
そのあと、家族がどうなるか。
考えたくない。
しかし、考えなければならない。
「レオンハルト」
アルフレッドは迷わなかった。
「信用できる者だけで動け。ベルナールの家族を保護する。理由は伝えず、王宮管理下の別邸へ移せ」
「承知しました」
「移送経路は二つ用意しろ。予定を知る人間も最小限に」
その指示に、レティシアは少し驚いた。
「殿下」
「何だ?」
「二経路にするのですね」
「君なら三つにするか?」
「できれば」
「予算と人員を考えろ」
「……はい」
父にもよく言われることだった。
ベルナールは俯いたまま、拳を震わせている。
「どうして……」
掠れた声が落ちた。
「どうして、そこまで」
「あなたから事情を聞くためです」
レティシアが答えると、ベルナールが顔を上げる。
「家族を人質に取られている人へ『正直に話してください』と言っても、話せるはずがないでしょう」
「……」
「まず話せる状態にしなければ意味がありません」
ベルナールの表情が歪んだ。
だが、まだ何も言わない。
アルフレッドも無理に聞かなかった。
「家族の安全が確認できるまで、ベルナールは別室で待機させる」
「殿下、私は――」
「今は言うな」
アルフレッドが遮る。
「言ったあとで取り返せないこともある。先に家族を守る」
ベルナールはしばらく立ち尽くしていたが、やがて深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
彼が連れていかれたあと、部屋には重い沈黙が残った。
レティシアは帳面を開く。
「何を書いている?」
アルフレッドが尋ねた。
「対策です」
「今?」
「今だからです」
使用人や職員が脅迫された場合。
家族が狙われた場合。
借金を利用された場合。
小さな不正を強要された場合。
本人が処罰を恐れて報告できない場合。
「相談窓口を作る必要があります」
「窓口?」
「はい。最初の段階なら、自分の違反も含めて相談できる場所です」
レティシアは書き続ける。
「借金があるから裏切るのではありません。借金を誰にも相談できない状態だから、利用される可能性があります」
「使用人全員の借金を調べる気か?」
「本人の同意なしに全部調べるのは逆効果でしょう」
レティシアは少し考えてから付け加える。
「ただ、相談したことで即座に解雇されない仕組みは必要です。家族への脅迫も同じです」
「ずいぶん具体的だな」
「今、実例がありますので」
アルフレッドが苦笑した。
「君は本当に、怖い目に遭うたび制度を増やすんだな」
「同じことで2回怖い思いをしたくありません」
「その理由は分かりやすい」
そこでクララが、何かを思い出したように顔を上げた。
「お嬢様」
「何?」
「報告です」
「何の?」
「不審な問い合わせについてです」
レティシアの手が止まった。
「……いつの?」
「3週間ほど前です」
クララは眉を寄せて記憶を探る。
「王都の取引商会から一度、報告がありました。たしか酒瓶の封について質問してきた客がいた、と」
室内の空気が変わった。
アルフレッドがすぐに反応する。
「詳しく」
「申し訳ありません。重要度が低いと判断して、概要しか覚えておりません」
クララはレティシアを見る。
「お嬢様が、商会へ『妙な質問、賄賂、不自然な大量購入などがあれば、些細でも報告するように』と以前から指示されていましたので」
「言いました」
覚えている。
破滅想定の一つ。
商会を通じて、公爵家の流通情報が外へ漏れる場合。
別に今回のためではない。
ただ、取引先の従業員へ金を渡して荷物の中身や輸送日時を聞き出す者が出るかもしれないと思ったからだ。
「どんな質問でした?」
「封蝋が輸送中に破損した場合、どこまでなら受領されるのか。それから……」
クララの表情が変わった。
「公爵家の酒が本物かどうか、王宮側は何を見て判断するのか」
アルフレッドが立ち上がった。
「その報告書は?」
「ローゼンハイム家の王都邸に保管されているはずです」
「取り寄せろ」
「すぐに」
レティシアも立ち上がる。
「私の使者を出します」
「いや」
アルフレッドが止めた。
「王宮の人間と、君の家の人間を一人ずつ行かせる」
「なぜです?」
「後から『ローゼンハイム家が報告書を作った』と言われないためだ」
レティシアは目を瞬いた。
自分が第4話……ではなく、過去の冤罪を思い出して以来ずっと恐れていたこと。
証拠そのものを疑われる可能性。
「……ありがとうございます」
「君が教えたんだろう。証明は一つに頼らない方がいい」
それから1時間も経たないうちに、問題の報告書が王宮へ届けられた。
レティシアは封を確認し、王宮側の立会人とともに開く。
日付。
3週間前。
報告者は、公爵家と長年取引のある酒類商会の支配人。
内容は短い。
『身元を明らかにしない男が来店。高級酒の取引を検討していると称し、ローゼンハイム家の封印方法について複数質問』
そこまでは商取引でもあり得る。
問題は続きだった。
『封蝋の意匠ではなく、開封後に同一の状態へ戻すことが可能か尋ねる』
「……これですね」
レオンハルトが低く言った。
さらに。
『王宮納品時、外側の封印以外にも確認箇所があるかと質問』
副確認印。
レティシアたちが毒入りの酒へ気づくきっかけになったものだ。
質問した男は、その存在を知りたがっていた。
商会の支配人は不審に思い、詳しいことは教えなかった。
そしてレティシアの指示通り、念のため報告を残した。
「お嬢様」
クララがぽつりと言う。
「これ、あのときは『少し変な客がいました』程度の話でしたよね」
「はい」
「まさか本当に必要になるとは」
「私も必要になってほしくありませんでした」
レティシアは報告書を見つめる。
誰かが3週間前から調べていた。
ローゼンハイム家の酒。
封印。
王宮での確認方法。
そして、その少し後からベルナールの行動がおかしくなっている。
偶然にしては、重なりすぎている。
「この男の特徴は?」
アルフレッドが尋ねる。
報告書の末尾に簡単な記載がある。
年齢は30代から40代。
中肉中背。
茶色の髪。
商人風の服装。
特別目立つ特徴はない。
だが、一つだけ。
『帰り際、情報料として銀貨を渡そうとしたため受領を拒否』
「使った銀貨は?」
レティシアが聞く。
「受け取っていないなら残っていません」
「そうですね……」
惜しい。
そこでクララが報告書を指した。
「お嬢様。ここ」
「何?」
『男は、南区のハイネ商会の紹介だと名乗る』
レティシアは首をかしげた。
「ハイネ商会?」
「ご存じですか?」
「いいえ」
公爵家の流通に関係する主要商会なら、ある程度は把握している。
聞いた記憶がない。
アルフレッドがレオンハルトへ視線を向ける。
「調べろ」
「すでに」
レオンハルトは部下へ短く指示を出した。
結果はすぐに返ってきた。
王都南区。
商業登録。
営業許可。
納税記録。
どこにも。
ハイネ商会という商会は存在していなかった。
「偽名ですね」
レティシアが呟く。
「ああ」
アルフレッドは報告書を見つめている。
酒に毒を入れた人間だけを捕まえても終わらない。
3週間前から封印を調べ。
ベルナールへ近づき。
家族を脅し。
王太子の杯へ毒入りの酒を届けさせようとした誰かがいる。
「殿下」
「何だ?」
「私、この報告制度を作ったとき、ここまで考えていたわけではありません」
「だろうな」
「商人が買収されたら困ると思っただけです」
「それで十分だ」
「でも、皆さんが何かすごいことをしたような顔で見るので……」
アルフレッドは少し黙ってから言った。
「では、何と言えば満足する?」
レティシアは考えた。
答えは一つしかない。
「すべて、念のためです」
アルフレッドが額を押さえた。
「その『念のため』で、今度は犯人の一歩後ろまで来たぞ」
レティシアとしては、まったく嬉しくなかった。
むしろ。
念のために残した報告が、本当に必要になるような相手がいる。
その事実の方が、ずっと怖かった。




