第7話 忠誠の綻び
忠誠心があれば、人は裏切らない。
もし本当にそうなら、話は簡単だった。
だがアルフレッドは、ベルナール・クロウについて集められた報告書を読みながら、静かに首を横へ振った。
「これを見る限り、彼は王家を恨んでいたわけではなさそうだ」
王宮の一室には、すでに夜明け前の冷たい空気が入り始めていた。
レティシアの前には、ベルナールとその家族について調べられた記録が並べられている。
勤続11年。
処分歴なし。
重大な失敗なし。
同僚との問題もほとんどない。
給金の不満を口にした記録も、王家に対する批判をしたという証言も見つからなかった。
「では、金目的でしょうか」
レティシアが尋ねる。
「可能性はある」
アルフレッドは一枚の紙を抜き出した。
「ただし、自分から金を求めたようには見えない」
ベルナールの家では、2か月ほど前から支払いの遅れが増えていた。
生活が急に贅沢になった形跡はない。
高価な品を買ったわけでもない。
賭け事に使った記録も見つからない。
にもかかわらず、妻の名義で借り入れが行われていた。
「この借金の使途は?」
「分からない」
「お金が消えた?」
「少なくとも家計には入っていない」
それが気持ち悪い。
借りた金を何かに使ったのなら、普通は跡が残る。
治療費。
買い物。
返済。
投資。
どれもない。
まるで最初から、ベルナール一家のために借りた金ではなかったように。
「誰かに渡したのでしょうか」
「俺もそう考えている」
アルフレッドが答える。
「問題は、なぜ渡したかだ」
レティシアは少し考えた。
「脅された?」
「可能性は高い」
「でも、それなら最初に王宮へ相談すればよかったのでは?」
その言葉に、アルフレッドはすぐには答えなかった。
代わりにレオンハルトが、別の資料を差し出す。
「これをご覧ください」
「何です?」
「過去2か月の酒蔵帳簿です」
レティシアは受け取った。
普段なら見過ごしてしまいそうな、小さな訂正がいくつかある。
数量。
時刻。
配置。
どれも毒殺とは直接関係がなさそうだった。
「これをベルナールが?」
「すべてではありません。ですが、このうち3件は彼の筆跡です」
「内容は?」
「1件目は、空瓶の処分時刻を30分ずらしています」
レティシアは眉を寄せる。
「なぜ?」
「分かりません」
「2件目は?」
「納品された安価な酒を、別の棚へ移した記録が抜けています」
「3件目は?」
「祝宴用ではない酒を、一時的に保管区画の外へ出しています」
どれも重大事件には見えない。
少なくとも、それだけで王太子暗殺を疑うようなものではなかった。
「小さすぎますね」
「ああ」
アルフレッドがうなずいた。
「そこが重要だ」
レティシアは顔を上げる。
「最初から王太子の酒へ毒を入れろと命じられたなら、ベルナールは拒んだかもしれない」
「ですが、最初は空瓶の時刻を少し変えるだけ」
「次は酒を一本動かすだけ」
「その次は帳簿から記録を一つ消すだけ……」
言葉にしているうちに、嫌な形が見えてきた。
最初の違反は、小さい。
罪と呼ぶほどでもないと思える程度。
それを一度やる。
二度目は、最初より少し大きくなる。
三度目には、すでに以前の違反を隠す必要が出てくる。
「断りにくくしていった?」
「おそらく」
アルフレッドの声は低かった。
「一度でも帳簿を改ざんすれば、王宮職員として処罰の対象になる。二度、三度と重ねれば、なおさらだ」
「途中で告白すれば――」
「自分の罪も明らかになる」
レティシアは黙った。
それでも。
王太子を殺そうとするよりは、ずっとましではないだろうか。
そう思ったとき、クララが小さく口を開いた。
「お嬢様。もし自分だけの問題であれば、そうかもしれません」
「自分だけ?」
「家族がいる場合は違います」
クララは机の上の報告書を見る。
「自分が処罰されれば、家族の生活が成り立たなくなる。さらに、相手が家族のことまで知っているとしたら」
レティシアはベルナールの家族についての記録へ視線を落とした。
妻。
子ども。
母親。
そして身元の分からない男が、何度もその周囲で目撃されている。
「脅しは、借金だけではなかった」
「その可能性があります」
レオンハルトが答える。
「先ほど、ベルナールの近所に住む者から証言が取れました」
「何と?」
「1か月ほど前、彼の子どもが帰宅予定より大幅に遅れた日があったそうです」
レティシアの指先が止まった。
「無事だったのですか?」
「はい。数時間後には帰宅しています。本人は道に迷ったと話したそうですが」
「……本当に?」
「分かりません」
だが。
もしその数時間が、誰かからの警告だったとしたら。
お前の家族がどこにいるか知っている。
いつでも手を出せる。
そんな意味だったなら。
レティシアの胃が重くなる。
「ひどい」
口から出た言葉は、それだけだった。
アルフレッドは報告書を見たまま言う。
「忠誠心がない人間を探していたわけではないのかもしれない」
「え?」
「逆だ」
彼は顔を上げた。
「真面目で、家族を大切にし、職を失いたくない人間を選んだ」
その方が脅しやすい。
守りたいものが多い人間ほど、そこを握られれば動けなくなる。
レティシアは胸の奥が冷えるのを感じた。
今まで、自分は裏切りへの対策を考えてきた。
使用人が買収された場合。
護衛が敵へ寝返った場合。
商人が利益のために情報を売った場合。
けれど。
忠実な人が、忠実なまま裏切らされる。
それは、考えていたようで考えきれていなかった。
「……忠誠心だけでは、防げない」
レティシアが呟く。
「人は弱いからな」
アルフレッドの言葉に、レティシアは首を横へ振った。
「違います」
「何が?」
「弱いからではありません」
もし、自分の命だけが危険だったなら。
ベルナールは拒んだかもしれない。
しかし家族なら。
子どもなら。
自分のせいで危険にさらされると思えば。
「守りたいものがあるから、選べなくなることもあります」
アルフレッドは少し意外そうに彼女を見た。
レティシア自身にも、その言葉が胸に刺さった。
自分だって同じだ。
弟を人質に取られたら。
父や母を狙われたら。
アルフレッドの命と引き換えに何かを要求されたら。
本当に正しい行動だけを選べるだろうか。
分からない。
分からないからこそ、怖い。
「ベルナールを呼びましょう」
アルフレッドが言った。
「今ですか?」
「ああ。ただし最初から毒の話はしない」
「では何を?」
「帳簿の訂正について聞く」
ベルナールが部屋へ連れてこられたのは、それから20分ほど後だった。
疲れた顔をした男だった。
36歳と聞いていたが、今夜だけで何年も老けたように見える。
部屋へ入った瞬間、アルフレッドの姿を見て深く頭を下げた。
「殿下」
「楽にしろ、ベルナール」
「は」
声が少し掠れている。
レティシアは黙って彼を見る。
指先。
呼吸。
視線。
アルフレッドなら、こういうところを見るのだろうか。
「2か月前の帳簿について確認したい」
アルフレッドが言った。
「空瓶の処分時刻を変更しているな」
ベルナールの肩が、ほんのわずかに揺れた。
「……はい」
「なぜだ?」
「私の記入ミスです」
「では3週間前、酒を別の棚へ移した記録が抜けているのは?」
「それも……私の確認不足です」
「保管区画から酒を一時的に出した件は?」
今度は答えが遅れた。
「業務上、必要がありました」
「誰の指示だ?」
「私の判断です」
「本当に?」
「はい」
アルフレッドは追及しなかった。
代わりに、唐突に質問を変える。
「家族は元気か?」
ベルナールの顔から色が消えた。
レティシアにも分かった。
今までとは違う。
帳簿について尋ねられたときより、明らかに動揺している。
「妻と子ども、それから母親だったな」
「……はい」
「王宮は、職員の家族まで守る仕組みが十分ではない」
ベルナールが顔を上げた。
「殿下?」
「だから聞く」
アルフレッドの声は穏やかだった。
「君の家族は今、危険なのか?」
沈黙が落ちた。
ベルナールの口が開く。
だが、声は出ない。
何度か息を吸い、やがて唇を強く噛んだ。
「……申し上げられません」
否定ではなかった。
レティシアの胸が強く鳴る。
アルフレッドも気づいている。
「申し上げられない、か」
「どうか……それ以上は」
「誰かに口止めされている?」
ベルナールは答えなかった。
ただ、その顔にはっきりと恐怖が浮かんだ。
レティシアはそこで確信する。
この男は、何も感じずに裏切ったのではない。
逃げ道を一つずつ塞がれた。
小さな罪を重ねさせられ。
家族を握られ。
最後には、どちらへ進んでも破滅するところまで追い込まれた。
「ベルナールさん」
レティシアは静かに呼んだ。
男がこちらを見る。
「あなたが何をしたのかは、まだ聞きません」
その目が揺れる。
「ですが、一つだけ教えてください」
自分なら、何があれば助けを求められただろう。
罪を犯す前。
小さな違反を命じられた時点で。
家族を脅された時点で。
「最初の一度なら――誰かに相談できましたか?」
ベルナールは目を見開いた。
長い沈黙のあと。
彼の顔が、ゆっくりと歪んだ。
「……できたかもしれません」
声は、ほとんど聞こえなかった。
「最初なら」
その一言を聞いた瞬間。
レティシアの中で、新しい破滅の形が一つ増えた。
裏切る人間を見つけるだけでは、足りない。
裏切らなくて済むうちに、助けを求められる場所が必要なのだ。




