第10話 逃げたいのに、評価されました
王太子毒殺未遂事件について、ひとまずの結論が出たのは、その日の夕方だった。
ベルナール・クロウは毒を入れたことを認めた。
ローゼンハイム家から酒が出荷された時点では、瓶の封印に異常がなかったことも複数の記録で確認された。
契約商会。
王宮搬入口。
公爵家の出荷担当。
それぞれ別の記録が一致している。
さらに、ベルナールが王宮酒蔵で瓶を開けたことも本人の証言と状況証拠からほぼ確実となった。
つまり。
「ローゼンハイム公爵家と、レティシア嬢が毒を仕込んだ可能性は極めて低い」
王宮の会議室で、レオンハルトが調査結果を読み上げた。
レティシアは静かに息を吐いた。
極めて低い。
完全にゼロと言ってもらえないところが少し気になるが、現実の調査としては妥当なのだろう。
「よかったですね、お嬢様」
背後に控えるクララが小声で言う。
「はい」
「もう少し嬉しそうにされては?」
「黒幕が見つかっていません」
「そこですか」
「ベルナールさんへ毒を渡した男も行方不明です。それに、その男が一人で計画したとも限りません」
「やっぱりそこですね」
クララが諦めたように息を吐いた。
何も解決していない。
少なくともレティシアには、そう思えた。
自分への疑いはかなり晴れた。
アルフレッドも無事。
毒を入れた実行犯も判明。
けれど、その向こう側にいる誰かだけが残っている。
「レティシア」
アルフレッドに呼ばれ、顔を上げた。
「疲れているだろう。今日はもう帰って休め」
「ですが」
「残りは王宮の仕事だ」
「殿下を狙った相手がまだ――」
「分かっている」
アルフレッドの声は穏やかだった。
「だからこそ、君が一晩中起きていても解決しない」
正論だ。
正論なのだが。
「私が帰ったあとに何か起きた場合は?」
「近衛がいる」
「近衛の中に協力者がいた場合は?」
レオンハルトの眉が動いた。
「公爵令嬢」
「あなたを疑っているわけではありません」
「その説明で安心できると思いますか?」
思わない。
「では、王宮内の通信手段が――」
「レティシア」
今度はアルフレッドが強めに呼んだ。
「帰れ」
「……はい」
レティシアは素直に引き下がった。
素直に引き下がったつもりだった。
帰りの馬車へ乗ってから、クララがこちらを見る。
「お嬢様」
「何?」
「帳面を開かないでください」
「まだ開いていません」
「膝の上に置いてあります」
ばれていた。
「今回の件で増やす破滅想定がありまして」
「何個ですか?」
「現時点で14個ほど」
「寝てください」
「忘れたら困ります」
「忘れられるなら、その程度の心配事です」
ひどい理屈だと思う。
けれど、さすがに疲れていた。
レティシアは帳面を閉じ、馬車の背もたれへ身体を預ける。
その瞬間。
ふと、一つの考えが浮かんだ。
「クララ」
「はい」
「婚約を解消すれば、殿下を狙う事件へ巻き込まれる確率は下がるでしょうか」
クララが黙った。
かなり長く。
「お嬢様」
「はい」
「今、それを考えますか?」
「今だからです」
今回、自分は王太子婚約者だったから疑われた。
ローゼンハイム家の酒。
王太子への贈答管理。
医師の事前配置。
すべてが、婚約者という立場と結びついている。
「殿下が危険な立場であることは変わりません。でも、私が婚約者でなければ、少なくとも一緒に狙われる可能性は下がるかもしれません」
「その代わり、別の危険が増えるのでは?」
「もちろん考えます」
「もう考え始めている顔ですね」
「婚約解消後の生活準備はありますので」
「あるんですよね……」
地方の小さな屋敷。
個人資産。
投資収入。
必要なら働く準備もある。
逃げようと思えば、逃げられないことはない。
もちろん王族との婚約は、本人同士だけで簡単に解消できるものではない。
けれど、今回の件を理由に安全面を主張すれば、検討材料にはなるかもしれない。
少なくとも相談する価値はある。
そう考えていた。
翌朝。
王宮から使者が来るまでは。
「国王陛下がお呼びです」
「……私を?」
「はい。王妃陛下、王太子殿下も同席されます」
嫌な予感がした。
こういうときの嫌な予感は、大抵当たる。
「クララ」
「何でしょう」
「婚約解消について話すなら、今でしょうか」
「たぶん違うと思います」
「なぜです?」
「お嬢様を褒めるために呼んでいる可能性があります」
「昨日、王太子暗殺の容疑者になったばかりですが」
「だからこそでは?」
理解できない。
レティシアは朝から胃のあたりが重いまま、王宮へ向かった。
通されたのは小規模な会議室だった。
国王ローデリック3世。
王妃エレナ。
そしてアルフレッド。
さらに父エドガーまでいる。
逃げ道は、背後の扉が一つ。
窓はあるが2階。
飛び降りるのは現実的ではない。
「レティシア」
父が低い声で呼ぶ。
「座りなさい」
「はい」
絶対に何かある。
席へ着くと、国王が口を開いた。
「昨日は大変だったな」
「はい、陛下」
「まず、ローゼンハイム家への疑いについては、現時点の調査でほぼ晴れたと考えている」
「ありがとうございます」
ここまではいい。
「そして君の対応についてだが」
来た。
レティシアは身構える。
「王太子の命を救ったこと、礼を言う」
「いえ。クララが封印の異常に気づいたおかげです」
「そのクララ嬢が異常に気づけたのも、公爵家が二重確認を採用していたからだろう」
「それは……はい」
「医師も事前に配置していた」
「念のためです」
「不審な問い合わせも記録させていた」
「それも、念のためです」
「運搬記録も残していた」
「……念のためです」
国王が少し黙る。
王妃も黙っている。
父は額を押さえていた。
なぜだろう。
何か間違えただろうか。
「レティシア」
王妃エレナが口を開いた。
「あなた、自分が今回何をしたか理解していますか?」
「殿下へ出される酒を止めました」
「それだけではありません」
「毒物混入経路の特定もお手伝いしました」
「それだけでもありません」
難しい。
「ベルナールさんの家族保護を提案しました」
「……もう結構です」
なぜか止められた。
国王が小さく笑う。
「アルフレッドから聞いてはいたが、本当に自覚がないのだな」
「何のことでしょう」
「君の『念のため』が、王太子暗殺を防いだ」
レティシアは困った。
「でも、今回は偶然です」
「偶然?」
「たまたま想定していたものの一部が役立っただけです。役に立たなかった備えの方がずっと多いです」
「それで構わん」
国王は即答した。
「備えとは、必要にならない方がいいものだ」
それは、その通りだ。
「そこでだ」
国王の声が少し変わった。
レティシアの嫌な予感がさらに強くなる。
「今回の件を受け、王太子周辺の安全管理体制を見直すことになった」
「良いことだと思います」
「君にも正式に関わってもらう」
「……はい?」
聞き間違えた気がした。
「王太子婚約者として、贈答品、祝宴、移動、その他の安全管理について意見を述べる権限を与える」
「待ってください」
思わず立ち上がっていた。
王妃が眉を上げる。
「何です?」
「それはつまり、今までより殿下の安全管理へ関わるということですか?」
「そうです」
「殿下を狙う人間から見れば、私も邪魔になるのでは?」
「その可能性はあるな」
国王が普通に答えた。
「では危険が増えています」
「そうとも言える」
「私は昨日、危険だから婚約そのものを見直した方がいいのではと――」
室内が静まった。
アルフレッドがゆっくり顔を上げる。
「……何?」
しまった。
まだ本人には言うつもりがなかった。
「いえ」
「今、婚約を見直すと言ったか?」
「可能性の話です」
「どんな可能性だ?」
「殿下の婚約者でいることで暗殺事件に巻き込まれる確率が上がるなら、安全のために――」
「レティシア」
父の声が低くなる。
「今はやめなさい」
「ですが」
「あとで聞く」
あとで怒られるらしい。
アルフレッドは何とも言えない顔をしている。
国王だけが楽しそうだった。
「つまり君は、危険だから王太子から離れたいと考えた」
「正確には、選択肢の一つとして検討を」
「だが我々は、危険だから君を王太子の安全管理へ加えることにした」
「はい」
その通りだ。
おかしい。
完全に逆だ。
「陛下」
「何だ?」
「辞退はできますか?」
「できないことはない」
希望が見えた。
「ただし、今回の働きを踏まえて、評議会でも君の能力を高く評価する声が出ている」
希望が消えた。
「……評価?」
「特に、問題が起きる前に複数の対策を用意する点がな」
やめてほしい。
「私はただ心配性なだけです」
「それで王太子が生きているなら、立派な長所だ」
反論できない。
レティシアはゆっくり椅子へ座り直した。
昨日まで。
自分は王太子暗殺未遂の容疑者だった。
今日。
疑いが晴れた。
そしてなぜか。
王太子を守る仕事が増えた。
「クララ」
王宮を出たあと、レティシアは遠い目で呟いた。
「はい」
「私、逃げようとしていたはずですよね」
「そうですね」
「なぜ近づいているのでしょう」
「評価されたからでは?」
「評価というのは、こんなに怖いものなのですか?」
「お嬢様の場合は、たぶん」
レティシアは空を見上げた。
新しい破滅想定を追加する必要がある。
――能力を評価されすぎて、危険な仕事から逃げられなくなる場合。
番号はまだ決めていない。
できれば。
1001番目だけは、もう少し平和な内容にしたかった。




